あの夜、あの酒から始まったのだ
「心配したのになんですか! ふみふみふみふみ! アタイは足つぼマットじゃないんですけど!?」
何かを踏んだ。それが女になって、なにやら怒ってくる。なんだ、どういう状況だ? 分からない。あまりにも非現実的すぎる。
「なっ、なな、なななな……っ」
混乱のあまり、僕は女を見上げながら口から異音を吐き出すことしか出来ずにいた。
不可思議の塊であるかのような女は、そんな僕を見下ろして不思議そうな顔をする。
「旦那様、大丈夫ですかぁ? やっぱりまだ気分悪いですか?」
「な、何が旦那様だ! あんたは何者だ!?」
虚勢を張って強く出ようとする。声も手も震え、腰が抜けている様子ではさぞ滑稽に見えただろう。
しっかり見抜かれてしまうのも無理はなく、女の目が愉快そうに細められる。
「あれれ〜? 旦那様ぁ、もしかして怖がってます?」
「こ、怖くない」
「ほんとですかぁ?」
「く、来るな! おい!」
覆いかぶさるように詰め寄られ一層恐怖が増す。手に力が入らず、逃れようにも上手く動けない。
「旦那様ってクレイジーなお人だと思ってましたけど、もしかして本当はずっと強がってたんですか? 怖がってたんですかぁ?」
「意味がわから……近い近い近い!?」
「きゅーん! 旦那様をこんなにも可愛いと思う日が来るなんて! 据え膳ですか!? これは据え膳ですか!?」
顔が近づいてくる。恐ろしさのあまりもう声も出ない。恐ろしさの種類が、なんだかどんどんおかしな方向に変化していく。
フィクションの中で声を殺して痴漢に耐えることしか出来ないでいる女子高生を見かける度、声を出さなければ仕方がないだろうと思っていた。黙っていては食い物にされるだけだと。
考えを改めよう。本物の恐怖を前にしたら、人は声を出すことさえ出来なくなるのだ。
「い た だ き ま す」
死刑宣告が降ってきた。景色が緩やかに流れ、様々な考えが具体的な形を持たぬままに脳裏を走る。その中に解決策などはなかった。
解決策は横に転がっていた。何かに縋ろうと忙しなく動かしていた手がそれに触れた途端、身体は勝手に動いた。
「ぎゅっぴ!?」
女がもんどり打って横へ吹き飛ぶ。手に持ったのは木刀だった。その柄頭を女の脇腹に打ち込んだのだ。
妙に冷静な頭で何が起きたのかを把握した。同時に、脳の別の部位でシナプスが走る。
「……ヒヨ子」
「ぐぅぅぅ……っ、え? 旦那様、思い出して……?」
「いや、まだだ」
立ち上がる。思考が口から次々漏れる。目の前には、脇腹を押さえて蹲るヒヨ子がいた。
「違う……こうじゃない……あの日は、こうじゃなかった……」
「だ、旦那様?」
「あの時は……もっとこう……」
「旦那様? あの、そんなに木刀を振りかぶって、どうするおつもりですか……?」
掠れて裏返り、細かく震えるヒヨ子の声も、たっぷり涙を浮かべた目も、僕には届かなかった。
僕の頭にあるのは、かつての記憶の欠片のみ。
「成敗ッ!」
「ぴぎゅーーーーっ!!」
ヒヨ子の悲鳴とともに、記憶の封印はこじ開けられた。
−−−
頭を両手で抑え、涙を浮かべながらぐすぐす鼻をすするヒヨ子に麦茶を出してやる。
テーブルを挟んで向き合う構図。もう何度目かも分からぬこの構図が、今はなんだか懐かしいとすら思えた。
「それで、僕もすっぱり切られてしまったわけか」
「そうですよぉ! あのあと旦那様をここまで運んできたのあたしなんですからねぇ!」
「何もしていないだろうな」
「…………してないですよ」
「その間は何だ」
「してないですよ」
終いには口笛まで吹き出しそうなヒヨ子は置いておいてだ。まったく、やってくれたものである。
一体どこまでの縁を切られたのか。ホズミくんは変わらず夕食を届けに来てくれていたことを鑑みるに、僕が関わった物の怪たち全員といったところであろう。
「それにしても、貴様は覚えていたのだな」
「ぬらりひょん様によると、縁を切った側の記憶は残せるそうですよ。多分、なっちゃんもずっと、彼のことを……」
「ということは、猫又もか……まったく、どういう仕組みであるのやら」
腹立たしげに僕がそう呟けば、気まずそうに、ヒヨ子が補足した
「なんでも、そうしないと自分もご飯もらったこと忘れちゃうからって」
「そんなくだらぬ理由で能力を調整するな」
ヒヨ子に怒っても仕方がないのだが、今この場にはヒヨ子しかぶつける相手がいなかった。アタイに言われても、と肩を竦めるヒヨ子にさらに詰め寄る。
「大体、覚えていたのならもっと早く助けてくれてもよかったのではないか」
「だって、逆らったらアタイも皆との縁、切られちゃうかもしれないじゃないですか」
つまるところ、保身のために見捨てられたのである。まるでいじめの本質のようだ。次は自分がターゲットになるかもと、そう思わせることで見殺しを強要し、救いの手が入る余地を潰すのである。
などと思っていたのだが。
「楽しかったんですもん。仲間に馬鹿にされてた頃より、東京に一人でいた頃より、アヒルの姿で皆と遊ぶようになってからの毎日が、楽しかったんですもん。忘れたくなんか、なかったんですもん……!」
再びぐすぐすと鼻を鳴らされてしまっては、それを責めることはもう出来なかった。出来る奴は鬼畜である。僕は鬼畜ではない。
「はぁ、もうよい」
「旦那様? どこ行くんですか?」
「知らねばならぬことが多くてな」
テーブルを離れると、僕はまず木刀を手に取った。ヒヨ子が震え上がる。安心するがいい。今回は暴力には使わん。
僕は木刀で天井を突いて回った。音と感触を必死に探ると、台所の端に見つけた。屋根裏への点検口だ。
ナツキに怒られるとヒヨ子は必死に止めようとしたが、構うものか。そもそもここは川田の家である。奴のしていることは不法占拠でしかない。
さて、どのようにして侵入してやろうか。脚立やはしごなんぞはこの平屋のどこにも見たことはない。
とくれば、ないものは生み出す他になかろう。
「よしヒヨ子。脚立に変化せよ」
「……本気で言ってます?」
「無論だ」
踏むたびにぴぎゅぴぎゅと喧しく鳴る脚立に乗って点検口をこじ開ける。こういった場所は蒸し暑いというイメージであったが、存外涼やかであった。幽霊が棲み着いたせいであろうか。
見渡せば、そこかしこにあるのは段ボール箱である。川田のことだ。どうせ中身はガラクタであろう。少なくとも、箱に仕舞われず裸のまま放置されているものはガラクタであった。
雀卓なぞ、どうやってあの小さな点検口から運び込んだというのか。こんな物があると知っていたら暇を持て余すことも……いや、ナツキや猫又は打てまい。やはりガラクタである。そもそも降ろし方が分からぬ。
一応、一つだけガラクタと言えぬものもあったので、それだけ回収しておいた。
梁と箱を避けるようにして探り進むと、無理やり段ボール箱を押しのけてスペースを作ったのだというような様相の場所があった。居間の真上くらいの位置だろうか。
おそらく、ここがナツキの居場所なのだ。
踏み入り漁る。事が知れれば怒髪天衝も必至であろうが、なに、奴の髪が天を衝こうが怖いことなどあるはずもない。先程のヒヨ子の方が余程危機を感じたものである。何の、とまでは言わぬが。
とはいえ然程面白いものもなかった。目を引いたのは、茶色い段ボールの景色の中で異彩を放つ、赤いクッキー缶のような物入れであった。
僕はそれを開けた。我ながらデリカシーなど欠片もない行動であっただろうが、中身を見て、僕は安心した。やはりどうしても必要な行動であった。
\ 旦那様ぁ〜、旦那様ぁ〜! /
階下のヒヨ子からお呼びがかかったのは、ちょうどその時であった。
\ お客様ですよぉ〜 /
お客様、と聞いて思い浮かぶのはホズミくんであった。そういえば、正気を取り戻して以降まともに時計を見た覚えがない。もうそんな時間か。ホズミくんの前でヒヨ子は動いて喋ったのか。奴ならやりかねん。
急いでヒヨ子を呼び戻し、ヒヨ子脚立をやや強めに踏みつけながら降りると、そこにいたのはホズミくんではなかった。
「なんだ貴様か」
『ナンダ トハ ナンダ』
妖怪アップリケまみれ。そういえばこやつもいたな。一体今まで何をしていたのだ。
「なんでも、怪我が治ったからずっと新しい身体での新記録樹立に挑戦してたんだそうですよぉ」
「貴様しかしない競技に記録も何もないだろう」
『アルモン! ダイジダモン!』
ヒヨ子が心を読んだように疑問に答えたので、一先ずアップリケに突っ込んでおく。アップリケは必死に否定したが、特に論拠はないようであった。あってたまるかという話である。
「ということは、もしや何も知らんのか?」
『ナニモ? ナニガ (´・ω・`)?』
どうやら本当に何も知らず、木々の間を最速で飛び回ることに心血を注いでいたらしい。なんとストイックな布だ。もしもまともな公式競技にハマったのなら、きっと世界的な布になるであろう。
此奴を突き出せる公式の場がないことが残念である。
「まあなんでもいい。貴様にも聞きたい事がある。ヒヨ子、貴様飲めるだろう。付き合え」
「お酒ですかぁ? お昼からぁ? どこにあったんですかぁ?」
「屋根裏にあった。いつからあるかも知らんが飲めんことはなかろう。話をする間の一杯だけだがな」
経緯を話したり、知っていることを聞いたり、これからの話をしたりするために、まずは席につく。器に酒を注いで配る。
アップリケも飲みたがった。どう飲むのかは知らんが、染みになっても洗わんからな。
器を打ち合い乾杯をする。一口酒を飲めば、記憶の蓋が開いた。酒で飛んだ記憶が酒で掘り起こされるなんて話は聞いたこともないが、封印された記憶をこじ開けた影響で脳が馬鹿になっているのやもしれぬ。
なぜこのタイミングで酒なのか、自分でも不思議に思っていたが、そうか。
僕は、もう一度始めるつもりでいるらしい。
「旦那様ぁ? どうしました? ニヤニヤして」
「いや、いい夜だったと思ってな」
「まだ日暮れ前ですよぉ〜? 変な旦那様」
ヒヨ子がケタケタ笑いながら二杯目に行こうとしたので、叩いて止めた。
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