無為
起きた。夜だった。
腹の底にのしかかる黒い重りを消化できない。息苦しい。
過去がフラッシュバックする。
上司の言葉。部下の言葉。顔。声。立場。不安。
想像の中で言い返した。何度も、何度も。
それは言い訳に他ならなかった。それを自覚していた。
記憶の中で吐かれた毒が。想像の中で吐いた毒が。一緒くたになって僕の腹に堆積する。
重い。苦しい。全身の力が抜ける。気怠くて仕方がない。
布団の上で丸くなった。ただ時間が過ぎるのを待った。他に何も出来なかった。
朝だった。いつの間に寝たのか。そもそも寝たのか。眠れた感覚はなかった。はっとするといつの間にか朝だった。
少しだけ身が軽くなっていた。動けそうだ。体を起こして台所へ立った。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。それを一気に飲み干す。
体の熱が少し引いて、また少し楽になった。身体が楽でも、気は重かった。
頭がぼんやりする。思考がまともに形を成さない。
寝よう。
誰かが呼ぶ声で起きた。やっと少し眠れた気がした。
玄関に向かう。ホズミくんだった。
夕食を受け取る。何か心配するような言葉をかけてもらったような気がするが、内容は忘れてしまった。
腹の奥が気持ち悪くて食が進まなかった。咀嚼すら億劫だった。
食事のほとんどは残してしまった。
申し訳ない。心苦しい。腹の底に澱が溜まる。
寝よう。
起きた。夜だった。
人は寝ている間に記憶を整理するらしい。
寝ると記憶が掘り返される。思い出して起きる。苦しくなる。
寝たくない。寝ずにはいられない。
膝を抱えていれば、そのうち時間が飛ぶ。
早く飛べ。早く。
起きた。昼だった。
麦茶を飲んだ。
退屈は苦しい。思考が過去に引き寄せられるから。
なのに何もする気が起きない。することもない。
布団に寝転がった。いつの間にか寝ていた。
起きた。夜だった。
テーブルに食事が乗っていた。冷やし中華だ。伸びないようにか、タレが別の器で用意されている。
持ってくるのは大変だっただろう。申し訳ない。
気持ち悪い。喉を通らない。
一口で食べるのをやめてしまった。心苦しい。
もう持ってこなくていい。勿体ない。僕への厚意なんて。
返せるものなんて何もないのに。
寝よう。
眠れなかった。自分の意味を考えていた。価値を見出したかった。
そんなものはどこにもなかった。当然だ。何もしないんだから。
意味も価値も、自分で生み出さねば。生み出すには行動を起こさなくては。
考える。会社に戻ることを。そこで仕事に取り組む。成果を出す。
とても、実現しそうになかった。失敗ばかりが頭に浮かぶ。
苦しくなった。身動きが取れない。明日もこうしていることを考えた。それでいいのだと言い聞かせた。少し楽になった。
それが甘えだと分かっていた。分かっていながら、僕はそこに甘んじた。
それがまた苦しいのは、どうすればいいのだろう。
どうしようもないのか。きっとそうだ。
寝た。起きた。また寝た。また起きた。眠れたのかどうか分からないときも多々あった。朝だったり夜だったりした。
ホズミくんは料理を持ってこなくなった。僕が断ったからだ。
それでも彼は来た。料理の代わりに、果物やパンを置いていった。僕はそれを、何度かに分けて少しずつ食べた。
雑談をしていくこともあった。内容のほとんどは覚えていない。
聞く元気がないときもあったけど、中身が他愛ないものだったせいもあった。
あとで忘れてしまう内容でも、話しているときは気が紛れた。
「僕はどうして、ここに置いて行ったんでしたっけ」
ホズミくんが花札を撫でながら言った言葉だけが、何故か頭に残っている。
ホズミくんは花札を回収していかなかった。
並べてみた。対戦相手もいないのに。それが無性に切なかった。
それなのに。片付けられなかった。
片付けてはいけない気がした。
夢を見た。僕はいつの間に寝たのか。
家の中だった。玄関に何かいた。
何かも分からないのに、それが奇妙なものであるということは分かった。そのくせ妙に愛らしかった。愛着があった。
いつの間にか手の中にあった小豆をくれてやった。喜んだような気がする。
台所にも何かいた。何かも分からないのに、それがアホの子であるということは分かった。
そいつは笑っていた。ニチャリと歪んだ気味の悪い笑みだった。小突いたら奇妙な悲鳴を上げて、僕の胸は少しすっとした。
屋根裏にも何かいた。そいつは天井をすり抜けて降りてきた。生意気で、生意気で、生意気なやつだった。そいつと喧嘩をした。
口喧嘩から始まって、僕が論破して、それから、そいつは手も使わずに自在にものを浮かし、ぶつけてきた。僕はそれを受け止めて投げ返した。流れ弾が台所のやつに当たった。
足に何かが縋り付いてきた。制止したいらしい。小さかった。というより、幼いのかもしれない。僕が守らなければ、という気持ちが湧いた。
頭を撫でてやると相好を崩した。僕の顔も綻んだ。その隙に物が飛んできたので避けた。その子に当たった。弔い合戦が始まった。
抗争が激化する最中、縁側から何かが飛んできた。なにやらヒラヒラと鬱陶しかった。何かを探している様子で隙だらけだったので、これ幸いと盾にした。
暴れられたが力は強くなかった。そのままヒラヒラで生意気なやつを包んで庭に捨てた。
僕は笑っていた。それはそれは満足げに。不敵に。笑っていた。
起きた。夜だった。
夢だった。何が? 思い出せない。どうして。思い出せない。
苦しかった。初めてだった。夢が苦しいのではなく、その内容が夢だったことが苦しいのは。思い出せないことが苦しいのは。
頭の中をいくら探っても、夢の欠片も出ては来なかった。寝れば続きが見れないかと思ったのに、こんなときに、僕は眠りにつくことができない。
いつの間にか涙が流れていた。その理由も分からなかった。
戻りたい。どこに?
分からない。
何日が過ぎた? 分からない。
同じ夢は見れなかった。少しだけ寝るのが怖くなくなったのに。見れなかった。
すっかり元通りだ。寝たくない。寝る以外やることがない。起きていたくない。寝ることができない。
早く。早く時間よ過ぎろ。過ぎてどうなる? その先に何がある? いつまでこんなことをしていられる? 休職は、いつまでしていられるんだった? その期限が過ぎたら?
病が治って、復帰できたら。その先はあるのか。地獄ではないのか。復帰できず退職になったら。生きていけるのか。
生きてどうする。何をする。何を生む。何もないだろう。
……………………もういいか。
動かすのも億劫だった身体が不思議と軽かった。どうする? どうにでもできる。台所には包丁もある。長い布とドアノブさえあればそれでも事足りる。
どれでもいい。手近なのはなんだ。
立ち上がる。まずは、台所だ。
「ぴぎゅうっ!」
何かを踏んだ。足元から奇妙な音が鳴った。なんだこれ。
「ぴっぎゅ! ぴっっぎゅ!!」
柔らかい。ゴムか、シリコンか。そんな材質の足触り。
「ぎゅぴっぎゅ! ぴっぎゅ!」
なんだろう。なにか、癖になるような。脳の奥を刺激するような……。
「ぎゅぴーーーーッ! って! いつまで踏んでるんですかーッ!!」
「おわぁ!?」
ボンと空気が破裂する音。立ち込める煙。足元の何かが巨大化した。押しのけられて尻をつく。
煙の中から、妙に背の高い、白ワンピースの、頭にゴム製アヒルを乗せた大女が現れた。
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