それが次元の壁というものである

 夜中、妙な時間に目が覚めた。


 久々の感覚であった。突如形を保たぬ不安に襲われ、抑えがたい衝動と心臓の鼓動に起こされ、脳裏にいくつもの記憶がフラッシュバックしていく。


 熱を上げすぎ、僕の胸ぐらに掴みかかる客のちらちらと燃える火のような目。


 そんなことじゃこの業界で長くやっていけないよと、事実に依らぬ妄想で作り上げた僕の性格をつらつらと論い、人格否定に勤しむ上司の言葉。


 これだけやっておいてくれればいいよと、肉体的に苦しい仕事を善意の顔で押し付けながら、出来ない仲間のフォローも僕の仕事だと誇る同期のいやらしい心持ち。


 同じ目にあって苦しんでいる後輩の壊れそうな顔。


 見過ごす自分。胸中に渦巻く向ける宛のない怨嗟。


 ここに来てしばらく起きていなかった、病の発作であった。


 息をしても、しても、どれだけしても軽くならぬ。当然である。毒は我が内にある。


 這いずるように布団を藻掻き出た。台所の方からぴすぴす聞こえてくるのは、呑気に眠るヒヨ子の鼻息だろう。


 ナツキは屋根裏にいるだろうか。メンダコは玄関にいるだろう。あやつが金魚鉢を飛び出し好き勝手に歩いているところは、今のところ見ていない。


 猫又は寝ているだろうか。鈴を鳴らせば来てくれるだろうか。


 庭先には、物干し竿に随分泥汚れが落ちた雑巾がぶら下がっている。動かなくなった触手はいつからか消えていたので、ああしているとただの洗濯物にしか見えない。


 ひどく心細かった。誰彼構わず起こして、夜が明けるまで花札にでも付き合わせたかった。


 しかしどうしても、僕に残るちっぽけなプライドが、病に他者を巻き込むことを良しとしなかった。


 誰かに側にいて欲しかった。故に誰からも離れた。


 押し入れからガラクタの詰まった段ボールを引きずり出し、その分空いたスペースに膝を抱えてすっぽりはまり込んだ。


 寝ているのか、起きているのか、夢を見ているのか、考え事をしているのか。定まらぬ時間をただじっと耐え続けた。


 夜が明けるまで、僕はそうして、己の内で暴れ回る毒を抑え続けた。



−−−



「あんた、ほんとに大丈夫?」


 余程顔色が悪いのか、翌朝、ナツキにさえも心配そうな顔をされた。


 すっかり目が覚め触手も再び生えてきた洗濯物にもシヌカトオモッタと訴えられたが、碌な返しも出来ず、不憫にでも思ったらしい奴は自分から部屋の隅に畳まれた。暫くああしていてくれるらしい。


 あやつを補修する布を買いに行く、と告げると、例のごとくヒヨ子が付いて来たがり、僕の毛髪にしがみついた。


 以前より掴む力が弱かったように思うが、それでも引き剥がせるほどの気力は湧かず、そのまま連れ出した。


「大丈夫ですか? 顔色悪いですけど」


 そして顔を合わせてすぐ、ホズミくんにまで心配を掛けてしまった。全く不甲斐ない。


「問題ない。さあ行こう。商店があるのは向こうだったか」


「先導します。何かあったらすぐ言ってくださいね」


 ホズミくんはそう言って、率先して前を歩き始めた。


「あいつがいるなんて聞いてないんだけど」


 ナツキの声は、そんな彼には聞こえないほど小声だったこともあり、不満げではあるがさほど責めたてる気配は感じなかった。


 暴れないでいてくれるのはありがたい。自身の体調不良を盾にするつもりはなかったので、そこは反省せねばなるまいが。


 寝不足にはきつい太陽光線に身を焼かれながら、ふらつく足取りでホズミくんの後を追い、商店へ向かう。


 こんなことならヒヨ子をアヒルではなく、麦わら帽子にでも変化させておけば良かった。目を離した隙にアヒルが麦わら帽子になっていたらホズミくんは驚くだろうか。


 いや、ヒヨ子のことだ。変化に失敗しヘンテコ帽子に成り果てるのが目に浮かぶ。帽子であるならまだ良いほうかもしれぬ。ロードコーンになっても僕は驚きはしない。


 思考まで熱に侵されそうになった頃、ようやく商店についた。木造一軒家の一階部分が店として使われており、整頓された棚には生活雑貨が並ぶ。


 よく見れば竹トンボやけん玉などの古臭いおもちゃやら駄菓子やら、統一感を損なうようなものも散見された。


 外観には大きく看板が掲げられ、ベンチやアイスクリームや氷の詰まった業務用冷凍庫も置かれており、田舎の個人商店と画像検索すれば出てきそうな出で立ちである。


 店主もこれまたテンプレートのように、色の落ちた髪を頭上で団子状に纏めた、腰の曲がった老婆であった。


「僕はホズミくんの用を済ませてくるので、ナツキは布を見繕ってくるがいい」


「ん。一応聞いとくけど、金はあるのよね?」


「社畜というのはな、生活を仕事に圧迫され使い道を潰され、その癖残業代だけは支払われるので、無駄に金を持っているものなのだ」


「そこまで聞いてないわよ」


 ナツキは気分悪そうに吐き捨て店の奥へと潜っていった。


 最も、現代社会には電子マネーが深く根付いており、財布の中身が多いわけではないのだが。


 店の中を眺める限り、ひとまず今回は十分足りるだろう。田舎は物価が安いものである。


「さて、それで、ホズミくんは何が欲しいのだ」


 雑巾のせいで用件が増えたが、花札や食事の返礼を彼に、というのが元々の主題である。


 ここにある古臭いおもちゃや駄菓子が彼の物欲を刺激するようには思えないが、彼は一体何を選ぶのか。


「えっと、これのつもりだったんですけど」


 ホズミくんが手に取ったのは、意外なことに、傘立てのような縦長の籠に数本差されていた虫取り網であった。


「今度これで遊びませんか、とお誘いしようと思っていたのですが、体調が優れないのでしたら他のにしましょうか」


「いや、名案だぞホズミくん。昨日は少々寝つきが悪くてな。どうせなら夜中に行こうではないか。最初から寝ないつもりであれば、いくらか僕も楽であろう」


 僕はそう言うと、ホズミくんが籠に戻した網を二本取り出し、ついでに側にあった虫かごも二つ手に取った。


 未成年を深夜に化け物のいる山へと連れ出す、という危険極まりない提案をしてしまったということには、あとになって気がついた。


 昨夜の急な発症には、平気なつもりで余程参っていたらしい。全く大した迷案である。


 そのまま会計に進もうとして、ナツキに頼んだ布類がまだであることに気がついた。


「ナツキよ。そろそろ選び終えたか」


 声をかけに行けば、奴は花だのゆるキャラだののアップリケを両手に真剣な表情を携えていた。


「それで補修する気か」


「穴くらいならこれで十分よ。言っとくけど、専門店じゃないんだからここで買えるのなんてこんなもんだからね」


 言いながら、ナツキは厳選し終えたアップリケの山を渡してくる。想像してみよう。あの雑巾はたしか、他の競技者を引退に追い込むほどのレース狂という話だ。


 その身体にこれらを縫い付けるというのは、F1グランプリトップのスポーツカーを痛車にラッピングするようなものであろう。


 うむ。


「これにしよう」


「足りなければあんたの着物でも使ってあげれば?」


「僕のではなく川田のだが、余っているし構わんだろう」


「あの、何の話ですか?」


 不穏な空気を感じたのか、遠巻きに見守っていたホズミくんがおずおずと会話に混ざってきた。何も物騒なことを企んでいるわけではない。


「なに、ちょいと拾い物を修理する用事ができてしまってな」


「もしかして、昨日庭に干してあったあれですか?」


「流石ホズミくん。話が早いな」


「あれを、それで……?」


「ああ」


 物騒なことを企んでいるわけではない。ただの遊び心あふれる悪戯である。



−−−



 会計を丁度済ませた所、ホズミくんが商品の捌けたばかりのレジにアイスを並べた。


「なんだ、それも欲しいのか」


「いえ、僕からのお礼です」


 律儀にも、レジに並べられたアイスは三人分あった。


「おいおい、お礼にお礼を返されてはキリがないではないか」


「値の張るものでもありませんし、ナツキちゃんも付き合わせちゃいましたから。贈らせてください」


 そう言うと、半ば強引に会計を済まされてしまった。全く大した子どもである。大人になっても失われることのない個性であればさぞ異性に持て囃されるであろう少年の優しさに、頭の上のアヒルが思わず声を漏らした程に。


 不審に思われぬよう叩いて黙らせたというのに、突然頭の上のアヒルをぴぎゅうと鳴らした僕に向けられる視線は、なおも不審なものを見る目であった。


 納得のいかぬ僕を置き去りに、ホズミくんは店の目の前でアイスを配る。


「ナツキちゃんも、これ」


「あたしに話しかけないで」


 冷たく言い放ちつつも、アイスだけは奪い取りそっぽ向いて貪り始める生意気娘。流石のホズミくんも扱いに困るようで、助けを求めるような目を向けてきた。


「あまり気にするな。思春期なのだ。年上の異性に照れているのだろう」


「ぶっ殺すわよ」


 目も向けずに刺々しい声だけで威嚇されるも、相手が小学生で成長が止まった少女では恐ろしくも何ともない。


 そんなことよりも、だ。


「ただ、敗者である以上約束は守るべきではないか?」


「敗者? 何の話ですか?」


 ホズミくんの問いは敢えて聞き流した。彼に全て話す必要はない。ナツキに伝わればいいのだ。


「……分かったわよ」


 ナツキはアイスの棒を強く握りしめると、顔の向きをやや正し、横目でホズミくんを捉え、絞り出すように呟いた。


「ありがと……コレも、あと、花札も」


「分かるかホズミくん。ノンフィクションにおけるツンデレの面倒臭さが」


「誰がツンデレよ!」


 残りのアイスをこそぎ取り、残った棒を鋭く投げつけてくるナツキ。


 この程度の反撃、予想もできずに茶々を入れるほど僕は愚かではない。


 人中目掛けて真っ直ぐに飛んでくる木製の棒を、しゃがみ込んで紙一重で避けてみせると。


「ぴきゅっ!?」


 紙一重外側にいたアヒルが、再び間抜けな声を上げた。

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