材質表示や肖像権のルールは法を遵守すべし

 ホズミくんの家からの帰り道でのことであった。


 舗装のされていない土の道。両脇の田畑。その奥に生い茂る山木。


 いつもと何も変わらぬ風景の中に、いつもは存在しない違和感を感じ取った。


 それは音であった。絹を擦り合わせたような、人の鳴き声のような。そんな音が、けたたましいセミの合唱の隙間から微かに聞こえてきた。


 またか。そう言えば、ヒヨ子と出会ったのも彼の家からの帰路であった。鬼を語れば怪至ると言うが、先程の怪談にでも引き寄せられたか。


 正直に言って、僕は舐めていた。それは必然であろう。唯一危険性があると注意されたインターネット発祥大女の正体がただのアホのアヒルだったのだ。


 もし、道を歩いているときに泣き声のようなものが聞こえてきたら一目散に逃げなさい、などと注意を受けていたなら即刻猫又を召喚し、安全な道を確保して貰いながら帰ることにしたであろう。


 しかしそんな注意は受けていない。もう危険な存在はないと思っている。僕が迂闊にも引き寄せられてしまったのは、仕方のないことだったのだ。


 音の源は田向こうの山のようであった。広い田を挟んでも聞こえてくるということは、さほど奥の方ということもあるまい。


 狭い農道を歩いて渡っていく。次第に音がより近く、はっきりと聞こえてくる。それでもなお、人の泣き声か、絹鳴りの音か判別がつかない。


 音源はどこだ。何からの音だ。


 探るように走らせる視線がふと、白を捉えた気がした。ここらであったはずだ。そう思える場所をもう一度、念入りに観察する。


 風が吹いた。白が瞬いた。そしてすぐ山の景色に溶け込んだ。


 あれだ。確信を胸にそのすぐ下まで行き見上げれば、そこにはもぞもぞ蠢く布があった。元は純白であったであろうその布は、微かに元の色を残しながらも、泥に黒く汚れてしまっている。


 雑巾であってもそろそろ替えた方が良いと思ってしまうほど汚らしいその布が、木の枝に引っかかってひとりでに藻搔いていた。


 もぞもぞ。キュッキュキュッ。

 もぞもぞ。キュッ、キュー……。


 …………ちりん。


 哀れなボロ雑巾から目を離さず、静かに懐から取り出した鈴を鳴らすと、しばらくしてどこからともなく猫又がやってきた。


 そして、同じ光景を見て目を丸くする。


「猫又。急に呼び出して申し訳ないのだが、あれは?」


「一反木綿殿、でありますね……」


「放っておいても問題ないやつか?」


「旦那がお嫌でなければ、助けてあげてほしいでありますが……」


「嫌か嫌じゃないかで言えば、まあ嫌であるが」


「そうでありますよね……」


 猫又は悲しそうにそう呟くと、人型に変化した。そして、ボロ雑巾が絡まる木に手をかける。


 自分で助けに行ってやるつもりなのであろう。その心意気は見上げたものであるが、奴が変に高い位置の枝にしつこく絡みついているようであるため、彼には少し荷が重かろう。


 なにより、こんな幼い少年に危険を冒させておいて自分は安全な場所で静観しているなど出来るはずもなし。


 仕方なく、必死に木にしがみついて這い進もうとする猫又を静かに抱きおろし、僕が助けに行ってやることにした。


 この歳になって木登りなどすることになるとは、一体誰が予想できようか。


 慣れぬ手つきで這い進むこと数分。ところどころ穴が空いたり裂けたりしながら、複雑に枝に絡みつく雑巾を丁寧に解いてやることまた数分。それを抱えて慎重に降りることさらに数分。


 再び大地を踏みしめる頃にはすっかり疲れ果ててしまった。


「はぁ……はぁ……っ」


「大丈夫でありますか?」


「もんっ、だいない……」


 猫又がかけてくれる心配への返答も息も絶え絶えである。これまでにない重労働であった。この雑巾が無駄にでかくて重いのがまた辛いところであった。おそらく、シーツにすればキングサイズベッドくらいはすっぽり覆えるであろう。


 当の雑巾はと言えば、下りきったその時から自分の足で立ち、何かを探してウロウロしている。


 解いた時に中身など無いことは把握しているはずなのだが、まるで人がシーツを被ったような形を成し、先程までは見当たらなかった黒い触手のようなものを生やして手足としている。


 雑巾はその触手で手頃な長さの木の棒を拾ってくるとこちらに寄ってきて、目の前の地面にガリガリと何かを書きだした。


「もしかして、声帯が、ないのか」


「そうでありますね。少なくとも、ボクは喋る一反木綿には会ったことがないであります」


 木の棒など拾ってくる前にこちらに何か言うことはなかったのかと思っていたが、そうであるなら仕方あるまい。


 現に、地面に書き出されたのはまさに助け出された礼であった。


『カタジケナイ』


 礼にしては簡素であったが、まあ礼には違いあるまい。


 そんなことより、こちらには奴に触れたときからずっと気になっていることがある。


「貴様、素材、絹ではないか」


『ソダチガ イイモンデ ( -`ω-)✧』


「二度と木綿を名乗るな」


 切れぎれの息で、それだけは意地でも吐き捨てた。



−−−



 助け出された絹雑巾はダメージが大きいのか、よろよろと不安定な飛び方をして去っていった。


 隣で猫又が心配そうな目を向け続けるので、助けた方がいいのではないかなどという気の迷いも起きかけたが、長文に向かぬ奴とのコミュニケーション手段が億劫だったため見送った。物の怪同士でどうにかするであろう。


 もしかすると、そのうち助け出された礼でも持ってくるのではないか。そんな不安に襲われたのは、ホズミくんの家でそんな話を聞いたからだろうか。


 こんなことなら礼など持ってくるなよときつく言い含めておけば良かった。助けてもらったお礼に妖怪が自分の所の畑から野菜を持ってきた、というのであれば笑い話だが、盗まれた野菜が他所の家から出てきた、では盗難騒ぎである。


 まさか怪談でこのような肝の冷やし方をするとは思ってもみなんだが、今更後悔しても後の祭りである。もしものことがあればヒヨ子にでも返しに行かせる他あるまい。


 身代わりの算段をつけつつ歩む帰り道、ようやく策が固まってきた頃、丁度家に帰り着いた。


 すると何やら庭先から女子たちの賑やかな声がしてくる。ついに花札に飽き始めたか。


 顔を覗かせると、俄にヒヨ子が破顔した。


「しーくん! お帰りなさい! 待ってましたよ! さあさあ勝負の続きを……あ、旦那様。お帰りなさい」


「近寄るな犯罪者」


「まだ何もしてませんけど!?」


 僕が猫又との間に入り庇う姿勢を見せつつ牽制すると、人の姿に変化済みのヒヨ子はいつものようにぴいぴいと喚く。まだ、というのがもう自白も同じであろう。


「そもそも勝負というが、一体何をしていたのだ」


「メンコよ。やっぱりヒヨ子が弱くて勝負にならないから、しーくんにも混ざってもらってたの」


 これまたいつも通り、ぶすっとした膨れ顔のナツキが補足してくる。ということは、考えたくはないが。


「貴様、猫又に変化させるべくわざと弱いフリをしているのではあるまいな?」


「ままま、まさか! 違いますよ! 確かに人間の姿じゃなきゃ出来ない遊びに誘ったら変化してくれるかな、とは考えましたけど……」


「猫又。二度と此奴の誘いに乗ってはいかんぞ」


「そんなぁ! 後生です旦那様! 何もしませんから! もうしーくんが触った札に頬ずりしたりしませんからぁ!」


 語るたびに勝手に転げ落ちていく姿はやや愉快ではあるが、猫又を思えば放っておくわけにも行くまい。やはりもう接触禁止令を下すべきか。


「そもそもメンコなどどこで手に入れてきたのだ。押し入れには入っていなかったはずだが」


「ヒヨ子がその辺の石ころを変化させてくれてんのよ。ちゃんと自分で用意した道具で遊びに誘ってくれてるんだから別にいいじゃない。外野が勝手に口出さないでよ」


「なっちゃん……!」


 思わぬ援護に瞳を輝かせるヒヨ子だが、ナツキのフォローはやはり、あの手この手で猫又にすり寄ろうとする不審者の気配を濃くするばかりであった。


 しかし外野が勝手に口を出すな、というのは一理あろう。あくまで一理である。その危険性も解らぬお子様に、無垢な子どもと特殊性癖者を並べて見過ごせと言われても承服しかねるものだ。


 だが、本人が望んで参加しているのであれば関与の仕方は考えねばならないだろう。


 そんなことを考え込んでいると、勝機と見たヒヨ子がこれまた勝手に墓穴を掘った。


「そうですよ! アタイだって真剣にやってんですから! しーくんと旦那様の札はずっと死守し続けてますし!」


「待て。僕と猫又の札とはどういうことだ」


「アタイが変化させてる以上、図柄はアタイの思い通りなんで、身近な人たちの札で遊んでるんですよぉ」


 ふふん、と胸を張り自慢気に話すヒヨ子をフォローするように、ん、と一言つけて幾つかの札をナツキが寄越す。


 ナツキやぬらりひょん、狸仲間と思われる者たちなどの図柄が、何やら瞳が無駄に大きな、一昔前の少女漫画が如き絵柄で描かれていた。


「これが、旦那様の札ですよぉ」


 不安を胸にヒヨ子が見せびらかしてきた札を見れば、やはり例に漏れず目がキラキラと輝いた少年のような絵。


 服装は着流し。ここに来てからいつも着ているものであるが、何故か胸元が異様にはだけており、意味深なポーズを取っている。


「旦那様としーくんは特に渾身の出来です! 最高傑作と言っても……あぁ、無駄ですよ旦那様ぁ。変化させてるとは言え元は石ですから、そう簡単に破けたりは――ぴっぎゅ!!」


 無駄に頑強で曲がりもしない石札を、僕は思い切りヒヨ子のニヤケ面に叩きつけた。

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