おわかりいただけただろうか、川釣りである。
「で、どういうことだ」
僕は居間にあげた女に麦茶を差し出していた。深夜に起こされ不法侵入までされそうになって、僕の機嫌はすこぶる悪かったが、それでも客人に茶を出す程度の礼儀は果たせるものだ。
しかし不機嫌が伝わっていたのだろうか。女は俯いたまま微動だにしなかった。自然と僕の目は、こちらに向けられた頭頂部に乗っている黄色い塊に吸い寄せられた。
それはアヒルであった。ゴム製ではあるが、紛うことなくアヒルであった。僕の実家にも同じようなものがあったな、とふと懐かしい気持ちになる。子どもの頃はよく風呂に浮かべたものだ。
僕の木刀を受け、ぴぎゅう、と奇妙な高音を奏でたのはきっとあれであろう。
「何か言ったらどうだ」
アヒルに絆されそうな気を引き締め直し、追求を続けた。ぼぼぼぼ、とよくわからない声をあげるのがまた憎たらしい。
「何がぼぼぼぼだ。貴様、先程は姑息にも川田の声真似で僕を誘き寄せたではないか。きちんと喋れるのならそうしなさい」
大女は、ぽぽぽ、と相も変わらず人語を話そうとしなかった。しかし声に覇気はなく、肩を落とししゅんとした姿からは反省が見える。まだだいぶ汚らしいが、先程までより大分半濁音寄りになった声は可愛げもある。改める気があるのならと、僕は奴にアドバイスをした。
「どうせそれしか言えないふりをするのなら、ぽっ、と可愛らしく頬でも染めるように言うのがよろしい。そうすれば可愛げも出てくるであろう」
「ぽっ」
女は素直に言うことを聞いた。しかし今思い返してみても、初対面の物の怪すら虜にしてしまうとは、やはり僕も罪な男である。垂れた髪の隙間から見える伏せた顔には、朱が差していたように思えなくもない。
「で、結局貴様は何がしたかったのだ」
「ぽっ」
しかし僕は落胆した。駄目だこれは。恋する乙女は話が通じないものらしい。僕もいい加減怒りよりも眠気の方が強くなってきていた。もういいか、と致し方なく怒りを沈めることにした。
「今日はもう帰りなさい。二度と同じことをしないように」
困ったように鎮座して動かない大女を無理矢理に引きずって縁側から放り出すと、奴は庭先で立ち尽くして、時折ぽっ、と鳴いた。僕は背を向けて、再び布団に転がって目を閉じた。
気づくと朝になっていて、庭から女は消えていた。
−−−
「ああ、それは比較的新顔の子でございますね。なんでもインターネット発祥なんだとか」
三日目の朝、散歩で昨日の川に向かうと、今度はぬらりひょんが釣りをしていた。話しかけると、これまた一緒にどうかと、どこからか取り出した竿を渡してきたので、隣に腰掛け魚がかかるのを待ちながら雑談として昨夜の話をしてみた所、ぬらりひょんはそう言った。
「どういう妖怪なのだ」
「気に入った子どもを取り殺すそうでございますよ。よくご無事でございましたね」
「そういった危険な存在は事前に教えとくなり封印しておくなりしておいてくれ。そんなことより、僕は大人なのだが」
「まあ、お気を悪くされないで欲しいのですが、なにぶん幼い顔立ちをされておりますでなあ……」
不服である。確かに身長も百六十センチそこそこであるし、コンビニで酒でも買おうものなら、中学生にお酒は売れませんとばかりに年齢確認を求められるが、よく見れば大人とわかる範疇であろうに。失礼なことだ。
「居候の幽霊少女といい、妖怪大女といい、ここらには失礼な女しか居ないのか」
イライラとしながら釣りをすれば針にそれが伝わるもので、根がかりを起こしてしまった。どうにか外そうと四苦八苦したが、どうにもなりそうがない。もう放っておこう。後でぬらりひょんがどうにかするであろう。
「その口ぶりですと、もうナツキ殿には会われたようですな」
「その口ぶりだと、知っていたな? あの家を根城にする幽霊がいることを」
「あの子は元々家族と住んでいた家にいることも多いので、あの家は秘密基地代わりらしいのですがね。いやあ、身寄りのない子ですんで、つい甘やかしてしまって」
そう語るぬらりひょんの顔は孫を思う爺のように……見えなくもなかった。このあたりの化け物たちが寄ってたかって孫子のように可愛がっているのであれば、あの高飛車ぶりも納得できるところではある。結果、最終的には僕も甘やかしてしまったので、人のことは言えないのだが。
「子どもを見守り、支え導くのは大人の責務である。それを恥じる必要はないが、躾はきちんとしないと碌な大人にならんぞ」
「耳が痛い話でございます」
アジのような魚を釣り上げ、それをそのまま川へリリースするぬらりひょんは、もう死んでいるのだから大人にはなれないのだ、とは言わなかった。
「同い年でもホズミくんは大人だったな。まさかとは思うが、彼も人間ではないなどとは言わないよな?」
「ああ、彼ですか。ええ。彼は普通の人間でございますよ。悲しいことに」
今度は本当に、何やら悲しそうな顔をしていた。その理由を、当時の僕はまだ知らなかった。
「人間であることの何が悲しいものか」
「……妖怪も妖怪で、よいものでございますよ」
確かに悪い生活でもないだろうと、あいつらを見ていると思う。ただ万が一、ホズミくんが魔に魅入られて人間でなくなってしまうことになっては良くないので、彼をこいつらに近づけないようにしようと心に決めた。
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