その時、剣が僕に呼応したのだ

 夕方五時半頃、ガタガタという玄関からのノックらしき音と、何やら人を呼ぶ声で目が覚めた。


 また何かの物の怪が遊びにでも来たのかと思ったが、出てみると、そこにいたのは何の変哲もない少年だった。東京で放課後の時間に駅前を練り歩けば三人くらいは目撃できそうなくらい、どこにでもいそうな少年だった。今でもたまに、彼かと思ってふと振り返ったら別人だった、ということがある。


「私に何か御用ですか」


 ぱっと見物の怪の類には見えなかったので、僕は大人として礼節を持って接することにした。昼間のクソガキと違い、真っ当に訪ねてくるのであれば、子どもであろうと客人であると考えたのだ。


「ホズミと申します。お食事をお持ちしました」


 僕は何やら丼のようなものを差し出してくる少年をじっと観察した。中学生くらいであろうか。歳の割に礼儀の出来た良い子であるが、出前の注文などした覚えがない。


 丼の中身がお揚げの浮かんだうどんだったこともあり、狐か何かに化かされそうになっている可能性を考慮した方がいいだろうかと、そんな失礼なことを考えていた。


 しかし、警戒の視線を向けられてなお、彼の態度は変わらず丁寧なものであった。


「川田さんからあなたの食事の面倒を見るよう仰せつかっているのですが、聞いていませんか?」


 そう言われてようやく思い至る。確かに何者かが面倒を見てくれるということは聞いていたが、ホズミという名は聞いていなかったし、二日目の夕方である今になるまで動きがなかったため、てっきりもうないものと思っていて分からなかったのだ。


「それは失礼しました。ご馳走になります。せっかくですから、休んでいってはいかがですか? 麦茶しかお出しできるものはございませんが」


 僕はそう言って、遠慮する少年を半ば無理やり部屋に引きずりこんだ。恩を受けておきながら茶も出さずに帰したとあっては、良識ある大人としての面目丸潰れである。


 とはいえ、十以上も歳の離れた子どもに畏まった態度を貫くのも気が詰まって仕方がないので、そう気を遣わなくとも大丈夫ですよ、との申し出には甘えさせて頂くことにした。


「この辺では交通機関もあまりないし、通学は大変じゃないかい?」


「いえ、僕、ここの人間じゃないんです。夏休みの間だけ、祖父母の家にお邪魔させてもらっていまして」


 何気なくそう話題を振れば彼はそう返した。普段は都会の中学校に通っているらしく、歳はナツキと同じで、中学一年生だそうだ。最も、向こうは十歳で成長が止まっているが。


「では、八月が終われば都会に戻るのか」


「そうなりますね。今のうちにここの自然を満喫したいと思います」


「とはいえ、娯楽のないこの村ではすぐに飽きてしまうだろう。気軽にいつでも遊びに来なさい」


「毎年のことなので慣れていますが、そうですね。機会があれば、よろしくお願いします」


 真っ当な人間と理性的に会話したのは随分久しぶりなことのように感じた。


 ホズミくんであれば、遊びに来ても邪魔にはなるまい。なんなら、彼に夏の田舎の過ごし方を教わるのもいいだろう。


 そんな風に思えるくらいには、僕の病も軽くなっているのだろうか。まだ二日目だというのに、随分効果が出たようだ。などと呑気に考えてはいたが、その分一層職場に戻るのが億劫に感じてしまうのは、その時は考えないようにした。


 ホズミくんの持ってきた冷やしきつねうどんを食べ終えると、食器を洗って彼に返しがてら家に送っていった。夜は化け物が出るからな、と溢すと、なんですかそれ、と笑われてしまった。帰省は毎年のことだと言っていたが、その時点までではまだ奴等には遭遇していないようだった。


 ホズミくんを送り届けた帰り道、僕は不思議な女を見た。広い田んぼの中央辺りの畦道を歩く、背の高い女だった。比較対象となるものが近くにないため、その時は目算で数値を出すことも出来なかったが、二メートル以上の大女であった。頭には何やら黄色いものを乗せていたが、それが何かは、その時には分からなかった。


 僕はその女が人か物の怪か判断がつかず、声をかけるべきかしばし逡巡したが、危険な物の怪であればこちらが危険であるし、人間の淑女であるがゆえにこちらが不審者扱いされてはそれも困るということで、結果無視を決め込んだ。


 実際、その女は危険な物の怪であったのだが、もし僕があの時に戻れるのであれば、きっと次は声をかける。ただし、その時の僕は木刀を携帯していることであろう。



−−−



 夜、またおかしな時間に目が覚めた。これまた病気の症状ではなかった。とんとん、とんとん、と縁側先の雨戸が音を立てていたのだ。風か何かだろうと思って二度寝を決行しようとしたのだが、その向こうから声がかかった。


「おーい、大丈夫か? 迎えに来たぞ」


 それは我が旧友、川田の声だった。僕を置き去りに一人帰ったのではなかったのだろうか。わずか二日で引き返させるつもりだろうか。いずれにしてもどうでもいい。そう割り切った僕は、おざなりな対応をした。


「今何時だと思っているんだ。常識的な時間に出直してきてくれ」


 縁側と反対の方を向いて二度寝に入る。後ろからはまだガタガタと音がしていた。


「もう十分休んだろう。一緒に帰ろう」


 諦めの悪い川田はどんどん音を大きくし、呼びかけ続けてきた。ええい煩い、と振り返ると、そこで違和感に気がついた。


 クーラーのないこの部屋で少しでも涼をとるため、玄関以外の戸を開け放ち、風通しを良くしていたはずだが、いつの間にあそこは閉まっているのか。


 なおもガタガタ、ガタガタと音がする。


 僕はそろそろと近づいて、ゆっくりと雨戸を開けた。


 その先には、目があった。抉られた孔かと思うほど、真っ黒で光のない、大きな黒い目。


 肌はくすんだ汚い土器色で所々ひび割れている。生気は、感じない。


 開けた隙間から、枝のように長く節くれだった指が、するり、と潜り込んできた。戸を押さえられた。動かせない。


「ぼ、ぼ、ぼ」


 奇妙な声を漏らしながら、真っ黒な口が歪に歪む。


 隙間を広げ、そこからもう片方の腕を伸ばしてくる化け物に。日没時に見た、あの女に。




 僕は思い切り、木刀を振り下ろした。

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