こういった教育を現代では「わからせ」というらしい
いきなり何をするのです、と川中から僕を見上げ抗議する爺をじっと見下ろす僕は、傲岸不遜甚だしい様相だったであろうと思う。そんな僕にも一応反省の気持ちはあって、期待を裏切られ思わず当たってしまったが、奴からすれば理不尽な暴挙であろうとは思えた。
悪いことをしたら謝らねばなるまい。それが人として当然の道理である。当時の僕にもそう思えた。ただ当時の僕は、頭を下げられるほどには素直ではなかった。
「すまない。海に出られると思っていたら汚い老爺だったので、思わず蹴り落としてしまった」
「それが謝る態度ですかいな」
ふんぞり返る僕に不承不承といった顔で返しつつ、爺はよっこいせと腰を上げ岸に上がる。その様子を見て、ようやく僕に前夜の記憶が蘇った。
眼の前の老爺はぬらりひょんとは別妖であったが、奴と似た雰囲気を感じたので、あれは夢ではなかったのだろうかと思えた。
「貴様も、物の怪の類か」
「何を今更。共に酒を飲み交わした仲じゃあないですかい。あっしですよ。小豆洗いでございやす」
しかしそう言われても、蘇った前夜の記憶は酒を飲むまでのもので、酒を飲んでからの記憶は朧げであったため小豆洗い自体には覚えはない。しかし、小豆洗いという名には聞き覚えがないこともなく、妖怪の百鬼夜行に混ざった事実だけはようやく認識できた。
小豆洗いは川岸に腰掛け、桶の上で右手をぐっ、と握り込む。その手をぱっと開くと、どこから現れたのか小豆が桶にバラバラと落ちる。二、三度それを繰り返すと、桶に溜まった小豆を再びショキショキと洗い出した。その手品のようなちゃちな妖術もまた、現実として飲み込む材料となったように、今では思える。
「なぜ貴様は小豆を洗う」
「なぜ、と言われましても。そういう妖怪ですんでね」
「目的もなくただ行っているのか。生産的ではないな」
「人間の仕事と比べられちゃあ、まあ不毛でしょうな。あっしのこれはどちらかと言えば呼吸や睡眠に近いもんですんで」
小豆洗いはそう言うが、僕はドキリとした。バイトと上司に挟まれ、神経をすり減らし、結果潰れても替えがきくような、誰がしても変わらぬものを日々繰り返していた僕の仕事こそ、不毛極まりなかったのではないか。
心を病んで働くことができなくなってまでその仕事に一切の疑問を持とうともしていなかった僕が、改めて自分の仕事を振り返って考えることが出来たのは、きっとこの時が初めてであった。
靴を脱いで小豆洗いの横に座り込み、足を川にさらす。川辺のあたりは木がないため、流れに合わせて日光が反射しキラキラと輝く。その感覚と光景は、今も鮮明に思い出せる。
働かなければ。社会に貢献しなければ。そう逸る僕の心も洗われるようだった。いつかは社会に戻らねばならず、戻らなくても良い、と言われても逆に困ってしまうが、毎日こうして過ごすのが妖怪の日常であるならば、少しだけ羨ましいと僕は思った。
水面を何とはなしに眺めていると、横から聞こえてくる音がショキショキというものから、森の中で聞いたものへと変わって、僕は小豆洗いに聞いた。
「それは何をしているのだ」
「ああ、この桶は底が目の細かい篩のようになっておりましてな。小豆を洗い終えたら、水から揚げて水を切りつつ、斜めにしてこう、ザザァと」
この音か紛らわしい。たしかサーファードラムといったか。波の音を再現する楽器があったが、あれと同じことをしていたのだ。
「紛らわしいからやめたまえ。海と勘違いして迷い込む者があっては大変だろう」
「そんなお方、旦那以外にいるとは思えませんがね」
減らず口を叩くやつだ。もう一度蹴り落としてやろうか。そんな考えが頭を過ったが、奴には家まで送ってもらわねばならなかったので我慢した。
小豆を洗う作業が一段落した頃を見計らって、僕は奴に道案内を願い出た。迷ったので道を教えて欲しいなどと言えば弱みを見せることになるので、家までの道で近寄るべきでない危険な箇所や、出会った際は逃げるべき危険な妖怪などの説明をさせながら先を歩かせた。
こちらが向こうを使役する体を崩さなければ立場は保てることであろうとの考えだった。見透かすような視線を向けられたような気がしないでもなかったが、おそらく気の所為であるはずだ。
−−−
小豆洗いの案内で家に帰りついたのは、ちょうど太陽が真上に来た頃であった。家を出てから、おそらく四時間ほどだろうか。引きこもりと化していた僕には堪える運動量で、家についた安心感でどっと疲れが湧いてきたのを覚えている。
今日はもう寝てしまおう。明日になるまで断固として敷布団から出ずひたすらに無為な時間を過ごそう。そう決めて居間に飛び込んだ僕を出迎えたのは、美少女であった。
僕の足音を聞いてか、振り向いたその瞳は黒く大きく、その奥には強い芯を感じさせた。肌は透き通るほど白く、光の強いところであれば身につけている純白のワンピースとの境目が分からなくなりそうなほどで、背中の中ほどまで伸びた艷やかな黒髪とのコントラストが眩しい。
「あら、もう帰ってきたの? そのままいなくなればよかったのに」
そう吐き捨てた鮮烈なモノクロームの少女は僕に襟首を掴まれ、「ひぎゃん」という謎の鳴き声を上げながら縁側から外に放り投げられた。
美少女だろうがなんだろうが、見たとこせいぜい十歳かそこらの、他人の家への不法侵入を働くクソガキである。
今のうちにその性根を叩き直さねば、いずれはその美貌を悪用し男を誑かす悪女となるに違いない。子どもへの教育は大人として当然の責務である。今日は疲れているので締め出しのみで十分であろう。再犯するようであればキツく言い含めれば良い。
そんなことを考えて、戸を閉め鍵を施錠し、居間に戻ろうとした僕に、その少女は背後から怒声を浴びせた。
「いきなり何をするのよ!」
僕が振り返ると、空に浮き戸をすり抜けながらこちらを睨みつける例の少女が目に入った。
「また物の怪か」
「失礼ね! 幽霊よ!」
後にナツキと名乗る幽霊の少女は、呆れる僕に無い胸を張ってそう主張した。
それからしばらく、僕はナツキと平屋の使用権について口論した。
ここは僕の家であるから貴様は出ていくがよろしい、と僕が言えば、お前も居候だろう、私の方が先にここを借りていたのだから、こちらが先輩だ、と返される。
先輩の言うことを聞け、とまで言い放ち調子に乗るので、こちらは家主に許可を得ていること、不法滞在者はそちらであること、住居も持ち主も現世のものであるからルールも現世のものを適用するべきであること、どうしても行き場がないのであれば成仏して天国にでも行けばいいということを丁寧に言い聞かせた。
すると、ナツキは白磁が如き肌を赤く染め、頬を焼き餅もかくやとばかりに膨らませると、目に涙を浮かべながら部屋の隅で膝を抱え込み、断固とした籠城の構えを見せた。
僕は構わず再び放り出そうとしたが、ポルターガイストで抵抗されたので敢え無く撤退を余儀なくされた。念力一つで押し入れを開け放ち、木刀を取り出して振り回されては如何ともしようがない。
「……そもそも、なんで普通にあたしに触れられるのよ」
ぶすっと膨れた顔でそう不満をたれてくるが、そんなことは僕の知るところではない。生まれてからその日に至るまで、幽霊などというものを見たことなどはなかったはずだった。
だが、霊能力的な力が僕に宿っているにしろ、そうでないにしろ、対抗する力がある分には困ることもないと前向きに考えることにした。
悪戯をすれば容赦なく折檻するからな、と言い含めると、ナツキは自らの膝に顔を埋め動かなくなった。静かになってこれ幸いと、僕は布団に横になった。
しかし僕は繊細な人間である。不機嫌極まりないですと主張するようなオーラを発する少女に部屋の片隅を陣取られてしまっては、来る眠気も来なくなるというものだ。
仕方なく、僕はナツキに他愛のない話を振り続けた。なんのことはない。ただの暇つぶしである。
ナツキは無視を決め込むかと思えば、気まぐれにいくらか返事をしてくれた。自身のことも少しだけ教えてくれた。
享年十歳。生きていれば、今頃は中学一年生。この村で生まれ育ったが、家族はナツキの死を契機にいつの間にか上京してしまった。追いかけようにも居場所も行き方もわからず、ここにいれば面倒を見てくれる物の怪もいるため、仕方なくこの村に留まっている。
ナツキは、たったそれだけの一生を淡々と答えた。
死因は、不明だと言っていた。死んだときのことをナツキは覚えていなかったので、その話は後々別の者から聞いた。
可哀想に、などという上辺だけの同情など、向けられたとて不快なだけだろう。ただ、若くして亡くならざるを得ない運命に置かれてなお、死してその先も苦しみ続ける理由もあるまい。迷惑さえかけないのであれば、部屋の片隅くらいは貸してやるか。
そう簡単に絆される僕も、大概甘い大人だったと思う。
ナツキは、気がつくと姿を消していた。僕もいつの間にか眠りに落ちていた。
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