そいつは人を誘き寄せ、川へ落とすらしい

 翌朝目が覚めた時には、もう昨晩の出来事はすっかり酒に押し流され、記憶の彼方に消えていた。


 妙な夢を見たような感覚はあったと思うが、一切思い出すことが出来なかったので、思い出せないのであれば思い出す価値のないものなのだろうと思って、その時は気にしないことにした。


 まあ、そのうち思い出せるであろう、と思ってはいたが、その日の昼には思い出せるとは思っていなかった。


 麦茶を胃に流し込むだけのモーニングルーティンを終えると、僕は着流しに着替えた。それしか家に着替えが置かれていなかったからではあるのだが、風情にあっていて丁度良かったので喜んでそれを着ると、次に僕は平屋を出て散歩に出かけた。


 手荷物はない。都会にいた頃は片時も手放さなかったスマートフォンすら置いて出た。こんな田舎を歩くのに文明の利器を握りしめていくのは無粋であろう。


 家を出ると、すぐさま深呼吸をした。たったそれだけでこの散歩に意味を見いだせた。今日は気の済むまで歩いてみよう。このような田舎であれば、世間体を気にして人目を避けるような必要もあるまい。そもそも人目そのものが稀なのだから。


 そんな風にお気楽に出かけることができていた時点で、もしかしたらもう僕には変化が起きていたのかもしれない。


 しかし、歩いて二十分もすれば僕はもう飽きた。畑、山、田、田、田、山、田、畑。いくらコンクリートジャングル出身のシティボーイである僕には大自然の光景が珍しいとはいえ、ああも変わり映えのない風景が延々と続けば飽きもする。


 都会であれば何かしら目につくものを目印にそこまで歩き、そこからまた次の目標を決め、そこまで歩くというのを繰り返すことも出来るのだが、あそこでは目印もなにもあったものではない。早々に田畑に挟まれた舗装もされていない平坦な土の道を歩くのに飽きた僕は、意を決して奥の山に潜り込んだ。


 辺り一面を樹木に囲まれれば、流石に気分も一新されるものである。まるで先程までとは別の世界であるようだった。


 山の中であれば、珍妙な植物もあり、鳥やリスもいる。樹木一つをとっても、全く同じように生えているものはなかった。目印には事欠かず、勇む足は僕をぐんぐんと山の奥へと運んでいった。


 土地勘のない者がそんなことをすれば一体どうなってしまうのか、余程の馬鹿でもなければ分かるであろう。しかし、当時の僕は余程の馬鹿であった。実際そうなるまで全く分かっていなかった。


 愚かな僕は、見知らぬ山で見事に迷子と成り果てたのである。


 慣れぬ土地で一人。右も左も木。前も後ろも木。上は枝葉で下は土。これほど心細いこともない。


 それから僕はとにかく真っ直ぐ歩いた。進んでいる方角が元来た方角であるかすら定かではなかったが、踵を返して歩き出したのだからてんで見当違いということもなかろう。変に曲がったりしなければそのうち山は抜けられる。それから知っている目印なり現地の人間なりを探せばよいのだ。そんな甘い考えでぐんぐんと歩いた。


 そうして歩きだして、一体どれほど時間が経ったかも分からなくなった頃には、僕の胸中には後悔があった。何時間も経ったような気も、ほんの十数分しか経っていないような気もしていた。


 無粋だなんだと余計なことを言わずに大人しくスマートフォンを持ってくればよかった、などとその時本気で後悔したがために、それからあの田舎で過ごす間、一度も携帯電話を携帯しないなどというミスはしなかった。


 だが後から改めても、その当時の問題は解決しない。時刻も分からぬ。方角も現在地も分からぬ。天を仰いでみても、木漏れ日からでは太陽の位置すら分からぬ。


 何も分からぬので仕方なく、歩く間ずっと五感を研ぎ澄ませ続けた。あの木は既に見たものではなかったか。この地形は一度通っていないか。人の生活音は遠くから聞こえてこないか。ちゃんと真っ直ぐに歩けているか。そんなことに全神経を注いだ。


 すると、ふと僕の耳が不思議な音を拾った。ザザァ、という波の音。今思えば、何を馬鹿なという話ではあるのだが、当時の僕は思ってしまったのだ。


 海だ。どこを向いても遠くには山があったので、ここは内陸の盆地だと思っていた。山の向こうには海があったのか。僕はいつしか山を越えてしまったのか。


 しかしこれは光明だ。開けた海岸に出られれば、もうどれも同じに見える樹木で間違い探しでもするように帰り道を探る必要もなくなる。まともな道や人里に出られるまであと一息であろう。


 ああ、追い詰められた人間はなんと愚かなことか。しかし平静なつもりの頭で突拍子のない思考に取り憑かれていた僕は走った。音のする方へ。すると次第に樹木の向こうに光が見えるようになった。開けた場所がそこにある。波の音も近い。


 海だ! 出られる!


 密林から飛び出した愚かな僕が目にしたものは、なんともちっぽけな海だった。


 幅は見渡しても端が見えぬほどではあるが、奥行きがない。せいぜい六、七メートルかそこらであろう。水平線などはなく、向こう岸のその先には、僕の背後に広がっている光景と何ら変わりのない樹木が立ち並んでいた。


 ビーチも砂浜と言うにはいささか粒が大きすぎる。砂利と呼ぶのが正しかろう。目前にあった水流も、あれを海と呼ぶのは海に失礼であろう。川と呼ぶのがよろしい。


 そう。山を越えた、海だ、などと思っていた僕の眼前にあったのは、山中を流れるただの川であった。


 ならば僕の耳に届いたさざなみの音は何だったのか、と音のする方を探ると、出どころは桶のようなものだった。川にさらされた桶から、ザザァ、ザザァと音がしている。そして、その桶を何やら手で弄ぶ者がいた。小豆色の汚い着物を着た、禿げ上がった頭の老爺は、僕の視線に気がついたのか、振り返って気さくに話しかけてきた。


「おや、貴方様は昨日の。こんなところでお散歩ですかな」


 僕はその老爺を川に蹴り落とした。

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