山田という男は実に勤勉であった

 あの夏のことを語る前に、まず山田という男の話をしようと思う。


 山田はある日、これこそが僕に脛を齧り続けられた親への報いなのだとばかりに、人に誇るべき成績を修めて大学を卒業した。


 同じものを貰っていた者が学科内に何人もいるとはいえ、優秀だと書かれた賞状を渡されたのだから誇るに値するに違いない。


 そして山田は就職した。それはあらゆるイベントを企画し、実行し、熱狂する者たちの燃え滾る情熱に薪を焚べ続けることでさらに脳を溶かし、金を巻き上げるといった仕事をしている会社だった。


 企画部に配属、と聞いたときには、涼しい部屋で机に向かって、さあどう奴らを喜ばせて見せようかと悪い顔を浮かべていれば良いものと山田は思っていた。だが、いざそこで働き始めてみれば、熱狂の最中に放り込まれ、客とバイトと上司の間で揉みくちゃにされるのが山田の仕事だった。


 何を隠そう、この山田という男こそが僕である。


 しかし僕は生来、温厚篤実を自らの標語とする人間である。組織の求めるに報いるべく、身を粉にして働き続けた。


 働き続けた結果、三年目にして僕は家から出られなくなった。家から出なければ仕事に行けず、仕事に行けなければ上司から連絡が来る。


 しかし上司からの連絡は僕の足に働く不思議な魔力を打ち払うことはなく、僕の聞かん坊な足は玄関へと向かおうとはしなかった。


 だからといってサボらせ続けるわけにはいかぬ。休むなら正当な理由を提示するべく、病院にて診断を受けてくるがよろしい。


 上司がそう言うと、僕の足はようやくそろそろと動き始めた。行き先が会社ではないというだけで突然魔法のように軽くなった足は病院に向かったが、しかし体調におかしなところは存在せず、何科にかかればよいのか分からなかった。


 そこで、僕は大きな総合病院に向かい、受付にて事情を説明することにした。何科が適切かなど素人である僕が浅知恵で決めつけるものではなく、専門家の判断を仰ぐのが正しい。現にしばらくたらい回しにされた後、精神科にて診断を受けることができた。


 結果は鬱ということだった。


 何を馬鹿なと思ったときには既に手遅れであった。診断書を押し付けられ、また改めて来いと病院を追い出された。こんなものを渡されたのだと上司に報告すれば、ろくな相談もなしに休職の手続きを進められてしまった。


 あんなに口酸っぱく教育してくれた報連相はどこへ行ったというのかと、当時は憤慨したものである。


 こうして僕は、止むに止まれぬ事情に押し流されるようにして休みを取ることとなった。それが六月の半ばのことだった。それから七月まで、僕は一心に休養に努めた。いち早く快復し仕事に戻れば良いだけであると思ったのだ。


 しかし一向に快復の見込みは立たない。寧ろ僕の溢れんばかりの社会貢献心は、仕事もせず家中に在し時間をただ浪費することを良しとしなかった。


 しかし何もせず家にいても鬱々とした気持ちは募るばかり。だからといって、もう治ったのだと言って仕事に戻ろうとすれば、不思議な魔力が僕の足を家に繋ぎ止めてしまう。


 医者に出された薬を飲めば多少楽にはなった。だからといって行動を起こすには活力が足りず、その場しのぎにしかならなかった。それはまるで、傷を塞ぎもせず、原因を取り除くこともせず、ただ痛みだけを和らげるかのような処置であった。


 こうして僕は腐っていくのだろう。そう思うと俄に恐ろしくなり、七月に入ったことを皮切りに外に出ることを心がけた。なんのことはない。ただのお気楽なお散歩である。こうしているうちに、そのうち会社に足を向けても魔力に囚われなくなるはずだ。そう願って近所を練り歩いた。


 すると不思議なことに、何の視線も感じていないというのに、周囲の目が気になるようになった。


 いい年をした大人が真っ昼間から呑気に散歩をしているのを、周囲の人間はどう思うだろうか。そんなことばかりが気になって、結局悪化の一途を辿るのみであった。僕の精神はいつの間にかお散歩一つ満足に出来ぬ程に薄弱していたのである。


 そんな風に日々を過ごせば、次第に食事は喉を通らなくなり、夜中へんてこな時間に目が覚めるようになった。


 僕は麦茶ばかりを飲んで過ごした。何も食べられなくても麦茶だけは飲んだ。酒は飲まなかった。これで酒にまで溺れてしまえばそれまでだと思ったのだ。


 麦茶漬けの生活を暫く繰り返していると、ある日川田という友人が訪ねてきた。彼は学生時代からの親友で、未だに何かと僕を気にかけては連絡をくれる、唯一残った昔の友人であった。


 彼には最近一度だけ近況を伝えていた。なんのことはなく、聞かれたから答えたのみであるのだが、彼は大層心配してきてくれたらしい。家に乗り込んできて、一通り状態を確かめた後、いくらかの荷物と僕を小脇に抱えて飛び出した。


 ひょっとしてこれは拉致というのではないか。川田の運転する車の中でそう気づいた時には、僕はもう県境を越えていた。


 たどり着いた場所がどこなのかは、車で運ばれていただけの僕にはもうよく分からなかった。ただ、そこは田舎であった。田舎としか言いようのないくらい、山と田畑しか見当たらない場所だった。


 平生暮らしている街とまるで異なる景色に目を白黒させているうちに、僕はある古い平屋に放り込まれた。とても古い建物であった。これは人の住む所ではない、文化的芸術品である。ここを住居と呼ぶのは不適当だと、そう抗議したが、川田は僕に、そこに住めと言って聞かなかった。


「ここなら会社のことなど考えなくて良い。考えたところで仕方がない。存分に療養しなさい」


 川田はそう言うと、麦茶のパックのみを山のようにおいて帰ろうとした。食うものなしにどう生きろというのかと縋りつくようにして聞けば、村の者に面倒を見てもらえるよう頼んであるので安心すればいいと返し、僕を力付くで引き剥がした奴は今度こそ帰っていった。


 こうして、僕はあの夏を、あの辺境の田舎で、奇妙な者たちと過ごすことになったのである。

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