第9話 強硬手段
「はいはい、アドウェール様もエミリ様も、第一王子殿下の前でイチャついてないでくださいよ〜」
後ろで控えていたはずのロイに言われ、わたしは慌てて頭を下げる。
いや、別にいちゃついていたわけではないけどね!
ちょっとね。アドウェール様、お兄様大好きだなーって思っただけですよ。ええ、それだけですともっ!
……ああ、でも。そんなふうに思えるようになったなんて。わたし、少しくらい、気持ちに余裕が出てきたのかな……。
転生したばかりの時はいきなり、国外追放だったし。川で泳ぐし、熱出して、体は悲鳴を上げていたし。ほんとアドウェール様がいなかったら、今頃どうなっているのか考えるのも恐ろしいくらい。
知らない土地で、お金もなくて、知り合いもいなくて……しかも、熱なんか出して倒れたら。普通この世の中からさようならコースよね。そうじゃなかったら、お金のために身を売るとか。
女神様が言っていたみたいに「気楽に楽しむ」なんて、絶対に無理。
アドウェール様に出会えたのは、ホント幸運だった。
しかも好いてもらえるって……。
女神様からの、幸運補正とか、あったのかな?
どうかな?
わからないけど。
今のわたしは……、アドウェール様の気持ちを受け取れる……というか、アドウェール様にふさわしい女性になっているのだろうか?
そりゃあ計算棒とかで、ちょっとはアドウェール様の助けになれたかな……なんて、思ってはみたけれど。
ゆっくり、きちんと。
わたし、もう、自分の気持ちとアドウェール様の気持ちに……もう一回ちゃんと、向きあってみてもいいのかな……。
……ああ、今はそれを考えている場合ではない。
第一王子殿下にご挨拶、だった。
気持ちを切り替えなければ。
「失礼いたしました。はじめまして、殿下。エミリ・イチノセでございます」
言い終えて、心の中で1・2・3と数えてから、ゆっくりと顔を上げる。優雅に、見えるように。
顔を上げたら、ブランドン殿下が目を細めてわたしをじっと見つめていた。
「エミリ・イチノセか。イーディス・エミリィ……とは名乗らないのだな?」
探るように、ではなく、確認しているだけのような、声。
わたしの事情はすべてアドウェール様から聞いているんだろうな。アドウェール様、ブランドン殿下のこと、お好きみたいだし。既に話しているよね。知っているという前提でいいんだよね。
「イーディスとわたしの外見はよく似ているようですが、わたしにイーディスの記憶はありません」
本当は、イーディスの体にわたしの魂なんだけど。
でも、イーディスは川で泳いだ時に死んだ。わたしは、イーディスを助けた勇敢な少女で、たまたまよく似ていただけ、ということにしたのだ。
だから、わたしは、イーディス・エミリィ……とは名乗らない。
「わかった。では、久しぶりではなく、私もあなたには『はじめまして』と述べよう。それから私のことは名前で呼んでくれ。エミリ嬢、あなたは弟の婚約者なのだからな」
言われて気がついた。元々のイーディスとブランドン殿下は顔を合わせたことがあるのよね?
「かしこまりました。ではブランドン殿下と呼ばせていただきます」
「ああ」
これで、わたしはイーディスではなく、エミリだと、この国の第一王子が認めてくれたことになる。
だけど、いきなり本題に入るより、もう少しブランドン殿下とお話を重ね、お互いのスタンスや何やらを確認したほうがいいかもしれない。
ブランドン殿下に促されて、西の離宮の広い庭を歩きながら考える。
アドウェール様にエスコートをしていただいているし、ロイもサラも後ろからついてきてくれているから、庭の石につまずいて転ぶ……なんて、みっともない真似をしても大丈夫……。ああ、この美しい庭にはつまづきそうな石なんて落ちてはいないけどね。完璧に左右対称の、すごく広い庭園よ。
ええっと、庭には詳しくないんだけど、イングリッシュガーデンとかいうのって、こういう庭のこと? フランス式の庭とは違うんだっけ? 薔薇園とかあったりするんだっけ? ううむ、さすがに大学入試の勉強では、庭に関してなんていう科目なかったしねえ。あまりよくわからない。
とりあえず、朝晩は少しずつ冷え込むようになってきましたが、日中は晴れて穏やかで、風も爽やかで過ごしやすいですねとかの時候の挨拶的な話や、こちらの西の離宮のお庭は広いですねとか、そういう話題を振ろうかなーと思って、やめた。
時は金なり。
当たり障りのない話をするのではなく、当たり障りのない話を装って、きちんと聞きたい事柄を、話していくべきだろう。
「……わたしとイーディス、似てますか?」
わたしもアドウェール様も、ロイもサラも、イーディスと話したことはない。彼女の人となりなんて、知らない。
だけど、このブランドン殿下は。あのオレンジ髪の隣国の王子と話をしたことがあるのだ。
だったら、イーディスとも会っているよね。
だったら……ちょっと、わたし、イーディスのこと、知りたいかな……。
さり気なく、その実、少しばかり緊張して、わたしは聞いた。
「ああ、そうだな。姉妹と言われれば納得できるほどに似てはいる。だが、雰囲気はまるで違う」
「雰囲気……」
「イーディス・エミリィ・トラウトンは……。そうだな、口数は少なく、常に張り付けたような笑顔を浮かべて、感情を表さないようにと訓練されたご令嬢だったな。問われなければ意見も言わず。ただ、影のように後ろに控えていた。が、エミリ嬢、あなたは、言いたいことはあまり心に溜めない方だと思われる」
「あー……」
いや、言いたい放題しているわけではないのだけれど。
女神様にはいろいろ主張したりしたわ。
オレンジ髪の隣国の王太子に反論しなかったのは、なにがなんだわからず、状況もつかめなかったからで……。うん、今なら、文句の十や二十くらいすぐにでも言えそう。
なんて思っているうちに、庭の、ちょっと小高くなっているあたりに到着した。
ガゼボ……っていうのかな、これ。西洋風の東屋? 屋根と柱はあるけど壁がない建物。見晴らしがすごくいい。テーブルと椅子がある。
ブランドン殿下が、その椅子の一つに座り、そして、アドウェール様がわたしに別の椅子に座るよう促してくれた。サラやロイは一礼をしてから、ガゼボから少し離れた位置に待機している。ロイたちから更に離れたあたりに、この西の離宮のというか、ブランドン殿下の護衛兵たちが幾人も配置されていた。
「私の離宮とはいえ、室内ではどこでだれが聞き耳を立てているかわからんからな。ここなら、近くに寄れるものはいない」
見通しがいいですものね、ここ。
このガゼボで話す言葉は、きっとサラ達のあたりまででもあまり聞こえないに違いない。
ガゼボにいるのはブランドン殿下、アドウェール様、そしてわたしの三人だけ。
密談は、個室ではなく、開かれた見通しのいい場所でしたほうがいい……ということだろう。
侍女さんたちがやってきて、お茶とお菓子の用意をしてくれている。彼女たちが去るまでは、きっとブランドン殿下は本題には入らないだろう。
まさか、本当に、アドウェール様の仮の婚約者となったわたしと、会って話したいだけ……というだけではないだろうし。
内心ドキドキしながら、わたしは、ブランドン殿下話を切り出すのを待つ。
「ああ、まずは、エミリ嬢、あなたにお礼を言わねばな」
「お礼?」
わたし、ブランドン殿下に何かしたっけ?
わからず、きょとんと眼を丸くしてしまった。
「ああ、『計算棒』とか言ったか。あの道具とあなたの指導のおかげで、アドウェールの書類仕事がすぐに片付くようになった。感謝してもしきれない」
「ああ、そのことですか……」
大したことはしていないんだけど。
それに計算棒だって、現代日本なんかでは使われていない、過去の、昔の道具っていうだけだ。
計算棒ではなくて、計算尺っていう……ええと、対数の原理を利用した計算道具のほうが、本当はもっと便利だと思うんだけどね。計算尺なら目盛りの読み方によって桁の多い数や、小数点のある数の計算も可能だし。それもC尺、D尺とか、いろんな尺があるんだけど、カーソル線に合わせていくだけだもの。
でもさすがに、それは作れなかったわ……。細かい目盛りとかどうなっているのかなんて、さすがにそこまでは覚えていないし。そもそも、材質が問題よ。この世界、プラスチッとかアクリル板とかはないし。ガラスで作る? でも、均一に、薄い加工をするなんて、無理そうだし。なにで作っていいのかわからない。
『ネイピアの計算棒』なら、棒で済むもんね……。
普通に電卓とかも無理。電卓を作ろうと思たら、電池から作らないと。
うーん、さすがに現代人のチート知識っ! とか言っても、たかだか予備校生の知識程度じゃあ、そこまで作れないわね。あ、バリバリ理系の人なら作れるのかなあ? どうだろう? 予備校の先生の数学の授業が面白くて、しかもその先生の雑談が好きですって程度のわたしの知識じゃあ、数学のチート展開は無理よねぇ。
「アドウェール様に大変お世話になっていますので。いくらかでもお返し、というか、助けになれれば嬉しいです」
とりあえず、素直にそう答えた。
「ああ、本当にありがたい。『エミリ・イチノセの計算具』はアドウェールの東の離宮や私の西の離宮だけでなく、王城の父王や、南の離宮のダニエルのところまで既に伝わっている」
「あら、そうなんですか?」
へー。第二王子のところまで。アドウェール様が渡したのかしら……とか思って、ちらりと見たけれど、どうやら違うようだ。
「離宮の文官たちがえらく重宝してな。量産体制を整えている」とアドウェール様が答えてくれた。
まあ、隠しているわけでも、使う人を限定しているわけでもないし。特許申請とか、この世界にあるとは思えないし。作るのも簡単よね、あれは。見本を見たら、誰にでもすぐ作れるでしょ。
「じゃあ、あっという間に国中に広まりそうですね。計算で困っている人の手に、渡ると良いですね」
チート知識で財を成す……なんてことも必要ないし。
わたしとしては、アドウェール様に対するお礼みたいなものだったのだから、アドウェール様が喜んでくれればそれでよしだったのよね。
だから、どうぞ皆様使ってください。お役に立てば嬉しいし。
そう思ったのに。
「我がフィングルトン王国内でだけ、あの計算具が使われていれば、何の問題はなかった」
え、もしかして、国外に流出した?
は、早っ!
この世界の皆さん、アドウェール様だけではなく、結構大勢の人が計算に苦しんでいたのかしら……?
のんびりと、わたしはそう思った。
だけど、状況は、そんなのんびりとしたものではなかったのだ。
「ダニエルがな……」
えと、ダニエル殿下。あの白い髪の第二王子ね。あの殿下も計算が苦手とかなのかしら? うふふと、笑いそうになった。
だけど。
「……どうやらラングトリー王国の王太子とつながっているらしくてな」
「グウィリム・モルダー・ラングトリー……と?」
アドウェール様がいぶかし気に眉根を寄せた。
ええと、ああ、わたしに……というか、イーディスに婚約破棄と国外追放を言い渡してきたあの、オレンジ髪の王太子殿下か。
「ああ、そうだ」
でも、それがなんだというのだろうか。
「『エミリ・イチノセの計算具』それから計算具の使い方を書いたもの。それらをダニエルがラングトリー王国の王太子に渡したようだ」
えーと、プレゼントしたのかしら?
え、お二人は仲良しなの?
でも、だからって、なんなのだろう。
わたしには、ブランドン殿下の言っている事の重大さがまるで分っていなかった。
単に、当たり障りのない話をしているだけ……のように感じていた。
「実に便利な道具だからな。ダニエルの阿呆は、我が国にはこれほどまでに便利なものがあり、ラングトリー王国にはこんなものないだろう。そう言って、自慢げに渡したようなのだが……」
うーん。自慢しちゃったんだ。
まあ、別にいいですけどね。
「計算具を受け取ったラングトリー王国の者たちは、まず、計算具を作り出したエミリ・イチノセなる人物に興味を持った。このような素晴らしい発明を、今度はラングトリー王国でもいくつも行ってもらいたいとな」
「へ?」
わたし……?
「元平民で、男爵令嬢、そして王太子の婚約者となったレナとかいう名の娘は、貴族社会のまともな常識も知らず、挨拶すらできず。そんな女を婚約者としたラングトリー王国の王太子の評判が、ラングトリー王国内では下落していてな。が、『エミリ・イチノセの計算具』をラングトリー王国内にも広めたおかげで、多少なりともラングトリー王国の王太子の評判は、上向きになってきた。更に、もう一つ二つくらい、何か発明品でもあれば……と願っているのだろう」
えー。巡り巡って、あのオレンジ頭の王太子の、助けにもなっちゃったんだ。
あー、東と西の離宮以外で使うの禁止とか、そういうこと、言っておけばよかったかなあ……。
でも、言ったところで無駄だよねえ。簡単に作れる便利な道具だもん。
でも、オレンジ頭の助けになっちゃったなんて、ちょっとムカつくかも。
「だが、問題はそれではない。あの計算具に『エミリ・イチノセの』と名が冠してあるのだ。ラングトリー王国のほうからは、エミリ・イチノセなる人物を、ラングトリー王国に招聘したいと言ってきた」
「えっ!」
しょ、招聘……って、ラングトリー王国の誰かが、もしかしたら、あのオレンジ頭の王太子殿下が……わたしに、来いって、言っているってこと……?
心地よかった風が、急激に冷たさを増したように感じた。
「ああ、安心してほしい。もちろん断った。有能な人物を、無条件で国外に出すほど、我が国は愚かではないと告げたとも」
ブランドン殿下のその言葉に、わたしはほっと息を吐いた。
けれど、これまであまり口を挟まずにいたアドウェール様が、低い声で「ブランドン兄上」と言った。
「断った程度で諦めるような相手には思えませんが……」
「ああ。そうだ。そこが問題でな」
「もしや、エミリの周辺を、ラングトリー王国の誰かが探ってくるとか……」
「可能性は否定できない」
「そんな……」
行きたくない、嫌だと言っても無理ってこと?
「エミリ・イチノセ。我が弟である第三王子アドウェール・T・フィングルトンの婚約者。であるからして、王族扱いのあなたを国外に簡単には連れ出せない。だから、ラングトリー王国は強硬手段を使ってくるかもしれんということだ」
「きょうこう、しゅだん……」
「そうだ。エミリ・イチノセは偽名。本当の名はイーディス・エミリィ・トラウトン。ラングトリー王国のトラウトン侯爵家の娘。だから、その身柄はフィングルトン王国に置くべきではない。ラングトリー王国に返却しろ……と、まあ、そういう主張をしてくると予想できる」
「そんな、馬鹿な……」
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