第7話 婚約、ただし(仮)付きで
「良いも何も、もうとっくにアドウェール様とエミリ様は、事実上の婚約関係と思われてますよ」
ロイさんが、何を今更とばかりに言った。
「ロイとサラが噂なんかを流したからだろうがっ!」
「いいえ、違います。アドウェール様がエミリ様のことを『嬢』や『殿』などの敬称をつけずに呼ぶからですよ。だから、すごい速度で噂が回ったんです」
「え?」
『嬢』なしの呼び捨てでいいって言ったのはわたしだけど、どういうことなのだろう。
「あー、エミリ、その、スマン」
言いつつ、アドウェール様がわたしからさっと目を逸らした。
「他国は知りませんけど、ウチの国の王族とか上位貴族の皆様はですね、ご令嬢に対して呼び捨てはしません」
「え、でも、アドウェール様、サラのコトは呼び捨てにしてますよね」
「それは私が使用人だからです」
端的にサラが答えてくれたけど、意味が分からない。
「どういうこと?」
わたしは首をかしげる。
「僕やサラのような使用人は、敬称をつけてもらえるような身分ではないので当然呼び捨てです。あ、なのでエミリ様。僕のことはロイと呼び捨てにしてください。『さん』とかなんかを付けられると、僕とエミリ様が対等な身分扱いに、というよりは、何かの関係があるのではと、余計な憶測を生むことになりますから」
「えっと、ロイと呼べばいいのね?」
よくわからないけれど、使用人の皆様は呼び捨てにするのね?
うん、こちらの国の習慣だと思って、覚えておこう。
「それでその、今言いました『対等な身分扱いに』というところでですね、王族がご令嬢を呼び捨てにするということは『あなたのことを対等に思っています』という意味になりまして」
ん、ん、ん? まだ、何かよく理解し辛いんだけど。
「つまり、男女が対等な関係だということは、婚約者同士として対等でありたいということの表明だというのが、我が国の一般的な考えてでして」
え、え、え!
「ちょ、ちょっと待って! それじゃあ、わたしがアドウェール様に、わたしの名を呼び捨てでいいって言ったのは」
「我が国の慣習に照らし合わせますと、エミリ様からの求婚ということになりまして」
わ、わたしからの求婚⁉
そんなつもりじゃあなかったのに!
あ……、だからあの時、アドウェール様の顔が何やら赤くなったのかっ!
「しかも、そのエミリ様の申し出を受けて、アドウェール様がエミリ様のことを呼び捨てにしていましたから、エミリ様からの求婚を、アドウェール様が受けたということになります」
え、え、えええええええええ!
ど、どうしよう。そんなつもりで言ったのではないのだけれど。
わたしは真っ赤になったり、真っ青になったりで、あたふたしてしまった。
「わ、わたしの、国は、ふ、ふつうに親しい人同士は呼び捨てのことも多くて。で、その、アドウェール様がサラを呼び捨てにしていたから、こちらの世界は呼び捨てが当たり前だと思ってしまって」
「エミリ様が知らなかったのは、文化の違いってコトでしかたがないことですが。アドウェール様はわかっていたでしょ。確信犯すね」
確信犯?
どういうこと?
「あー、エミリにそういうつもりがなかったことは、きちんと理解しているのだが……」
「だが、なんです? アドウェール様、この際男らしくきっちりと、エミリ様にはいろいろとお伝えするべきでは?」
アドウェール様は「うー」だとか「あー」だとかを言って、頭をがりがりと掻いた後、わたしに向かって言った。
「エミリに求婚の意思がなかったことは理解していたのだが……それでも、本当に求婚されているようで、その……、オレは、嬉しかったんだよっ!」
う、嬉しいって……。
ええと、求婚じゃないのを知っていて、それでも求婚だと思って嬉しかったってこと……?
そ、それって……。
わたしの顔はきっと、今、真っ赤だ。
だって、頬を抑えた手が、すごく熱い。
「エミリは今……大変な目に遭って、環境も変わって、それでも適応しようとして頑張ているところだろ」
頬に手を当てたまま、わたしはこくこくと頷いた。
「そんなところに好きだとか言っても、混乱させるだけだろうし。なによりも、今、エミリが頼れるのはオレだけだろ。そんなオレから求婚されれば……断りたくても断れないじゃないか」
す、好き……。今、さらっとだけど、アドウェール様が好きって……。
そ、それって……。
胸が、ドキドキした。
「あー、アドウェール様、一応、アレコレと、エミリ様を気遣っていたんですかあ。そりゃあそうですよねえ。仮にエミリ様が蛇蝎のごとくアドウェール様を嫌ったと仮定しても、エミリ様はお断りできない状態ですもんねぇ」
うんうんと納得したように、ロイは頷くけど。
ええと、わたし、アドウェール様を嫌ったりなんてしてませんよ!
むしろ……、好ましいというか、えっと、お世話になってありがとうございますとか、好意的な感じで、えっと、総括すると好きっていうカンジで……、ええと。
す、好きって……友愛とか恋愛とか、いろいろ範囲が広い……よね……。
「少なくともオレはエミリから嫌われてはないぞっ! それに強制的に囲い込むのはシュミじゃねえんだよっ! こういうことは、相手の気持ちとか状況を鑑みて、ゆっくりとな……」
「ですが、状況はそうのんびりと、エミリ様の心情や、アドウェール様のヘタレ具合に寄り添ってはくれないんですよ」
「誰がヘタレだ誰がっ!」
「アドウェール様っす! エミリ様と、事実上の婚約関係という噂を否定もせずにいたくせに、正式にエミリ様に求婚しないのをヘタレと言わずになんと言う」
「ロ~イ~」
ジトッとした目で
アドウェール様がロイを睨むけど、ロイはどこ吹く風だ。
口をへの字にしたアドウェール様が人差し指で、ロイのおでこをピンと弾く。
「痛いっす」
「も、お前、黙っとけ。それよりもエミリ」
いきなり名を呼ばれて、体が跳ね上がりそうになる。
「本当は、エミリがこっちの世界に慣れて、自由に何でも選択席るようになってから言うつもりだったんだが……状況が悪い。すまんがとりあえず、オレと婚約してくれ」
「こん……やく……」
「もちろん仮の婚約だが」
そこで仮って言っちゃうあたりがヘタレですねーと、ロイがはやし立てたけど、アドウェール様はそのロイを無視して、わたしの手を取った。
「あ……」
触れている手が、男の人の手だな……なんて。
がっしりとした、硬い感触。きっと剣とか、そういうのの訓練をしっかりしているんだろう。わたしの手を、すっぽりと包み込む。
「もしも万が一、ラングトリー王国のほうからイーディス・エミリィ・トラウトンを返せと言われたら。ここにいるのはエミリ・イチノセであってイーディス・エミリィ・トラウトンではないと主張しても、いろいろと難しいかもしれない。だが、エミリがオレと……この国の第三王子であるオレと婚約をしていれば、簡単には連れて行かせない。だから、仮でいい。保身のためでいいから婚約してくれ」
あ……わたしを守るための、婚約、なのね……。
なにか、こう……がっかりしてしまったんだけど、わたしは「はい」というしかない。
だって、わたしを守るためなのに、当のわたしが拒否するわけにはいかないし。あの国に連れ戻されるのを拒否できるのなら、もうどんな手段でも取るって気分だし。
だけど、なんかこう……。
とか思っていたら。
触れられている手に、力が込められた。
痛いと感じる、ぎりぎりまで強く。
「エミリの状況が落ち着いて、エミリの自由意思でいろいろと選択ができるようになったら。改めて婚約を申し込みたい」
落ち込みかけたわたしの気持ちが、急上昇。
上がったり下がったりして、気持ちが落ち着かないというか、翻弄されている……わ。
「今、こういう言葉を告げるのは逃げ道をふさぐようで卑怯かもしれないが。それでも言いたい。エミリ、オレはエミリが好きだ」
真摯に告げられた言葉に、わたしは何と答えていいのかわからなかった。
助けてもらったから。お世話になっているから。だから、わたし、アドウェール様の手を放したくないだけ……なのかもしれない。
アドウェール様からの告白が嬉しいのは……わたしもアドウェール様を好きだから? それとも……。
わからなくて、混乱する。
好き……だとは思う。
だけど、わたしのアドウェール様に対する好きは……。
「ああ、エミリ。今はまだ、考えなくていいんだ。死んで転生して、その上国外追放にあれこれあって、まっとうに判断ができる状態じゃないだろう。だから、きっとまたプロポーズをするから。それまで思考は停止しておいてくれ」
「そ、それで、アドウェール様はいいの……?」
「好きな女追いつめるほど、ひどい男じゃないつもりだよ、オレは」
めちゃくちゃ優しい……んだ、アドウェール様は。
自分の気持ちを押し付けるだけではなくて、わたしが落ち着くのを待ってくださるつもりなのだ。
ああ……。
でも、わたし。今、本当の婚約者になれって、命令とかされても、きっと断らなかった。
だけど、アドウェール様は、きっと……わたしがアドウェール様の手を拒んだら、わたしの行く先がなくなるからって、わたしを追い詰めないようにしてくれているんだ。
無理に、わたしの気持ちをアドウェール様に向けさせることだって、きっとできただろうに……。
ありがたい。
それに申し訳ない。
「わたし……きっとアドウェール様のことは好きなんだと思います。迷惑をおかけしているのに、大事にしてくださって、守ってくださって……。だけど、一方的に頼ったばかりじゃあ、そのうち心苦しくなってくると思うんです。厚意に甘えてばかりじゃ駄目だって。だから……、その、わたしが、ちゃんとこの世界で、自分の足で立てるようになって、それからゆっくり、考えて……。それまで待っていてもらっても、良いでしょうか……」
いくら待つと言われても、好きだと言われて、その答えは保留させてくださいって言うくせに、わたしはアドウェール様からの庇護は放棄できない。
自分でも、ずるいと思う。
なのに、アドウェール様は微笑んでくれた。
「エミリはそういう人だよな。辛いことがあっても、助けを求めるのではなく、まずは自分で突き進む。国境でのあの時だって、周囲の誰かに助けを求めるのではなく、いきなり泳ぎだしたしな」
「あ、あの時は……誰かに助けてもらえるなんて、思ってもみなくて。死にたくなければ泳ぐしかないって」
「でも、今はオレがいる」
「アドウェール様……」
「オレは好きな女に頼ってもらえると嬉しい。自分の力で困難も乗り越えようとするエミリだけど、ちょっとだけ、オレに寄りかかってくれないかな?」
「本当に、それで、いいんですか……?」
「ああ。そうしてくれると嬉しい」
ぎゅっと、一回だけ、目を瞑る。
一方的に頼りっぱなしなわたし。
だけど、それを嬉しいと言ってくれているアドウェール様。
わたしは一歩踏み出して、アドウェール様の胸に、こつんと、わたしの額をつけた。
「今は、わたし、アドウェール様に返せるものが何もないです。一方的に借りがたまっていく状態だけど、いつか、借りたものはお返ししたい。そして……それからも、わたし、きっとアドウェール様のお側にいたい……と思うんです」
「エミリ……」
「そばで、守ってもらっていいですか? わたし、ずるい言い方かもしれないけれど、アドウェール様のお側にいたいんです……」
好きに対して側にいたいなんて、ずるい答えだと思う。
しかも、好意があるから側にいたいだけではなくて、庇護を求めるためにそばにいたいと言っているともとれる言い方で。
なのに、アドウェール様は「ありがとう」などといってくるのだ。
礼など、こちらが言わなくてはならないと思うのに。
わたしの右の手を握ったまま、左の手だけが離される。
離れてくのがなぜだかさみしいな……と感じるとと同時に、離れてしまったアドウェール様の手が、わたしの背中に回された。
抱き寄せられる。
「ありがとう、エミリ。仮ではあるが、婚約者としてよろしく頼む」
わたしは小さくうなずいた。頷くだけじゃなくて、ちゃんと言葉で「はい」と返事をしようと思ったそのとき。
「じゃ、アドウェール様。エミリ様との話もつきましたし。婚約申請書類の御署名をお願いします。それから、急ぎの書類仕事のほうですね。直しの書類、山のように積んでありますので、大至急お願いします。あんまり遅くなるとブランドン第一王子殿下からお説教のお呼び出しが来ちゃいます」
ロイさんは、右手に婚約申請書類を、そして、左手に直しと思われる書類を数枚持って、アドウェール様の目の前でひらひらとその書類を振った。
「ロ~イ~、邪魔すんなよっ!」
アドウェール様に見えるように書類を振ったということは、わたしにも見えるということで……。
第一王子からの書類であるのならば、国家の機密書類とかなのかなと思いつつも、わたしはうっかりその書類を見てしまった。
そして何も考えずに、言ってしまった。
「あら、計算ミスですね。えっと、繰り上がり計算、三か所……間違えて、あ、四か所目発見」
かけ算とか足し算とか、そのレベルの計算だったから、パッと暗算して、言ったんだけど……。アドウェール様もロイもぎょっとした顔になった。
「まて、エミリ。なぜそんなに計算が早い?」
「はい?」
「エミリ様……、紙に計算を書かないで、どうしてミスとかが分かるんです? いやこれ、アドウェール様が計算ミスしている書類ではあるんですが」
「え?」
小学生レベルの普通の暗算ですが?
「えっと、見ればわかりますよね?」
「いや、わからんから聞いている」
どういうこと? えっと、四則計算は、この世界も転生前の世界も一緒なのに……。
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