第5話 愛人? 恋人? 婚約者? え?
とにかくわたしはこの世界で生きていく。
幸いにして、助力もある。
だったらひたすらに前を向くしかない。
わたしはまず、この世界の常識を教えてもらうことにした。
サラがそのままわたしに侍女としてついてくれるというので、サラにいろいろと教えてもらうのかと思ったのに、アドウェール様は礼儀作法やこの国の歴史をわたしに教えるための家庭教師を雇ってくれた。
家庭教師だって雇うにはお金がかかる。だけどわたしはこの世界のお金なんて持っていない。支払ってくれるのはアドウェール様だ。着るものも、住むところも、何もかも、アドウェール様に頼りっぱなし。
大変申し訳ない。でも、遠慮するのではなく、厚意をありがたく思いつつ学び、一日でも早く、この恩を返せるようにしよう。そう思った。
幸いなことに、というべきか、それとも元々のイーディス・エミリィ・トラウトンのスペックが相当高かったのか、わたしは教えられたことをものすごい勢いで覚えていった。
「……うーん、悪役令嬢っていう存在自体が、初めから相当チートな能力保持者……なのかしら……」
特に礼節やダンス。
たった一度、ちょこっと教えてもらっただけなのに、お辞儀の角度はビシッと決まるし、ダンスも優雅に踊れるしで驚いた。
「……チート……ううん、違うわね。きっとイーディスの、この体が覚えているんだ……」
イーディスのことは知らないけれど、記憶なんてないけれど、でも、この体がいろんな所作を覚えているのだ。しかも、アドウェール様が付けてくれた家庭教師が絶賛するほどに美しい所作を。
日本語しか知らないはずのわたしが、この国の言葉で書かれている本もすぐに読めるようになった。もとより会話もできているのだから、そのあたりは女神様が考慮してくれたのかもしれないけれど。
「イーディスは……多分、相当努力していたんだわ。侯爵令嬢として、王太子の婚約者として、ふさわしい人間になるようにって……」
どんな人なのかはわからないけれど、この体が覚えているのは、彼女の努力の積み重ねだ。
「イーディス。こんなにも頑張っていたのね、あなた……」
なのに、断罪された。
わたしが転生してすぐ婚約破棄を告げられたあの場所に、少なくともイーディスの父親はいたと思うのよね。ううん、いなかったのかな? だけど、少なくとも婚約破棄されることは、イーディスの父親は知っていたはず。だって、あのオレンジ髪の王太子が「お前の父であるトラウトン侯爵の同意も得ている」って言っていたもの。
なのに、イーディスを助けてくれなかった。擁護なんてしてくれなかった。
あの国で、きっと、イーディスを助けてくれる人は、誰もいなかった。
イーディスは、一人きりで、孤独だったのかもしれない。
だから、追いつめられていたイーディスの心は……婚約破棄によって砕けちゃったんだ。
わたしは鏡の前に立ち、そして、鏡に映った自分の姿を、イーディスの体を、じっと見つめた。
「頑張っていたのに、辛かったね、イーディス。わたし、あなたが覚えたこと、無駄にはしないから。ありがとう。わたし、あなたの体とわたしの魂で、二人分、生きてみせる」
もちろんイーディスからの返事はない。
だけど、胸のどこかがほんわかと、温かくなったような気がした。
☆★☆
そんなふうにこの世界で生きていけるようにと、家庭教師について数か月が経過した。
ようやくこの世界にも慣れてきた……というべきか。
たった数か月で慣れることができるなんて、早いというか適応力がある……というべきか。
とにかく、時間に余裕が出てきたので、家庭教師に習ったことを復習するだけではなく、自分の興味の赴くままに、いろいろなことを知りたくなってきた。他の人の話を聞いて交流とかは難しいかもしれないけれど、新聞とか大衆小説とか恋愛小説とか、読ませてもらったら、いろいろ参考になるんじゃないのかなーって思ったのよね。
だから、気楽な感じでサラに聞いてみたのだ。
図書室とかってあるかな……って。もしあったら、わたし、その図書室に行ってみてもいいかな……って。
「図書室……ですか?」
「そう、気楽な読み物とか、新聞とか、あれば読みたくて」
なのに、サラの返答は……。
「では、馬車をご用意してまいりますので、少々お時間をいただけますか?」
だった。
「へ……? 馬車……?」
「はい。エミリ様が今お住まいのこの離宮には、図書のたぐいの保管場所はございません。あるのは隣の離宮になりますので……」
「と、隣の、離宮……?」
ど、どういうことだ。
聞けば、このフィングルトン王国の王都は、中心に王様がお住まいの城があり、そのお城の東西南北に一つずつ、北の離宮だとか、南の離宮だとかがあるとのことだった。
そして、その離宮と離宮は城壁で結ばれている。離宮と離宮の間には、兵舎なんかがあるとのこと。
つまり、王城の防御壁を兼ねているのね。
今は平和だけど、かなーり昔、戦乱の時代があって、その時に作られたこの城や離宮が今でもそもまま使われている……のだそうだ。
ちなみにわたしが住まわせてもらっているのは東の離宮だそうだ……。随分と立派だから、王城かと思っていたよ……。アドウェール様は第三王子だし……。
図書室なんかは、中央の王城かもしくは西の離宮にあるとのことだった……。
「ええと……日本に当てはめて考えると……、皇居があって、皇居の周りをぐるっとお堀がある。で、そのお堀にあたるのが、お城の城壁と離宮……というイメージでいいのだろうか……? 確か皇居の周りなら、一周歩いても一時間程度……だったような」
もっと広いかな……。馬車移動とかするくらいだし。
「サラ……、聞きたいんだけど。その離宮と離宮を結んでいる城壁をね、歩いてぐるっと一周したら……どのくらい時間がかかるのかな……」
「そうですねえ……。警備の兵が、城壁外を歩いて警備……などもしているようですが……。一周ですね……、朝から夕方までは歩くかと……」
お堀、どころのレベルじゃなかった。
離宮と離宮を結ぶ城壁は、たとえるのなら、山手線だった……。
広い……。
そりゃあ、移動に馬車もいるよっ!
「そこまで大仰にして図書室に行きたいのではなくて、こう……気分転換の軽い読み物が何冊かあればって思っただけで……」
「ああ、それなら。アドウェール様のお部屋に、子どものときお読みだった本が、まだいくつかそのまま残されているかと」
「そ、それでいいっ!」
その程度でいいんです。
アドヴェール様ならこの東の離宮にお住まいだし。
すぐに借りることができそう。
そんなこんなで、わたしはサラに案内してもらって、アドエール様の執務室を訪ねることにしたのだった。
☆★☆
離宮内の移動だから、それほど時間はかからない……はず、は、ない。
離宮自体も広いのよっ!
わたしが、ここが王様のお住まいのお城だと勘違いしていたほどにっ!
……で、わたしはサラに案内されて、ピカピカに磨きこまれた大理石の廊下を延々と歩いています……。
アドウェール様の執務室までも、遠い……。歩いても歩いてもまだたどり着かない……。建物の中なのに、遠いって、どゆこと……?
そんな文句を言いたくなってきたときに、わたしはサラに腕を引かれた。
「エミリ様、こちらに」
「え……」
廊下の壁際に寄りつつ、見れば。廊下の向こうから、わたしたちのほうへ、白っぽい色の髪を、おかっぱみたいにぱっつんと切った髪形の若い男の人が、えらそうに歩いてきた。護衛の兵を何人も引きつれている。
「……ダニエル・A・フィングルトン第二王子殿下でいらっしゃいます」
と、サラが小声で教えてくれた。
ぇ……ということは、この人、アドウェール様のお兄さんてこと?
似てないけど……。
しかも、ものすごい目つきが悪い……んじゃなくて、わたしを睨んできている……?
サラが、深々と頭を下げる。
ええと……サラは、侍女だから、身分の高い人が向こうからやってくれば、頭を下げるのが当然よね。
わたしは、第三王子であるアドウェール様の客人ということになっているので、サラほど深々と礼をする必要はない……はず。
だけど、一応、儀礼的に会釈程度はしてみた。
そのまま通り過ぎるかと思った白髪おかっぱ頭のダニエル殿下は、なぜだかわたしの目の前で足を止めた。
「おまえがアドウェールの愛人か?」
愛人とはなんだ?
いきなり言われて、わたしの思考は停止した。
「は?」
愛人。愛している相手。特別に深い関係にある異性。なんていう、辞書に書かれているような文章が浮かんできたけど、そうじゃないよね。
すんごい侮蔑の表情で、わたし、このダニエル殿下から見られているんですけど……。
どゆこと?
固まっていたら、ダニエル殿下は「ふんっ」とだけ言って、去っていった。
「なに、あれ………」
サラに問いかけるつもりではなく、口から洩れてしまった言葉。
サラは「申し訳ございません。とにかく先に、アドウェール様の執務室に行きましょう」と、急ぎ足になった。
☆★☆
サラがアドウェール様の執務室の扉をノックする。
すると、サラによく似た顔で、同じ黒髪の男の人がドアを開けてくれた。
「……サラ、どうした? それにそちらは……エミリ様、か?」
「ええ。ごめんなさい、ロイ」
「……何かあったのだな。まあ、いい」
サラにロイと呼ばれたその男の人は、くるりと向きを変えた。
「アドウェール様っ! エミリ様とサラが来ましたよっ!」
「おお! 入ってもらえっ!」
カタンと音がした。多分、アドウェール様が椅子から立ち上がった音だろう。仕事の邪魔をしてしまったかな?
ちょっと申し訳ないと思いつつ、わたしは促されて、執務室の中へと入る。
「おお、エミリ。その服、とてもよく似合っている」
「あ、ありがとうございます……」
いきなり褒められて、照れる。
いや、このワンピースだって、アドウェール様から贈られたものけど。
がっちりとしたドレスとかコルセットは慣れないと言ったら、ガッチガチのドレスではなくて、ちょっとおしゃれなワンピースみたいな服を用意してくれた。
もちろんスカート丈は長いけど。
今わたしが着ているのは白いレースがふんだんに付けられているブラウスと、わたしの髪よりも若干抑え目な黄色の布に、白やピンクの花が刺繍された感じのワンピースドレス。日本だったら結婚式でも着れちゃいそうなかんじだけど、ここ、フィングルトン王国ではカジュアルな感じの普段着だって。
にこにこしているアドウェール様と、照れているわたし。だけどサラの声は、重々しかった。
「申し訳ありません、アドウェール様」
サラの声に、アドウェール様の目に鋭さが加わる。
「どうしたサラ」
「そこの廊下で……ダニエル第二王子殿下と出会いまして」
「あぁ……?」
「開口一番、ダニエル様はエミリ様に『おまえがアドウェールの愛人か?』と……」
「あ、あの野郎……」
ぎりっと、アドウェール様が奥歯を噛む音が聞こえた。
「用もないのに珍しくオレの離宮に来やがったと思ったら……」
「……多分、噂のエミリ様を見に、と言いますか、探りに来られたのかと思います……」
「愛人とは失礼なっ! 婚約者か、せめて恋人と言えっ!」
アドウェール様の叫びに、「あんた、論点ずれていますよ。気にする点は、そこじゃないでしょう」とロイさんが言い、そして、サラも頬に手を当てて、深く息を吐いた。
ええと……?
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