第3話 隣国の第三王子、アドウェール
搔いた汗がべっとりと肌に張り付いて気持ちが悪い。
起き上がってシャワーを浴びたい。そう思いはしたけれど、起き上がるどころか瞼を開くのも辛い。頭が痛む。熱があるのかもしれない。
「お水、飲めますか?」
誰かの声。知らない声。
わたしは「う、あ……」としか答えられなかった。
「すみません、体を少し、起こしますね」
その誰かに支えられて、半身を起こさせられた。わたしはぐったりとしたまま、この声の持ち主に寄りかかる。柔らかな胸の感触。看護師さん……なのかな?
そして、口元に何かを当てられた。
「口、開けられますか。お水です」
ほんの少しだけ、なんとか口を開く。スプーンかなにかでほんの少しだけ注ぎ込まれた水。飲むというよりは、口の中を湿らす程度の水分。だけど、カラカラに乾いていた口の中に、しみ込むようだった。
「もう少し、飲めますか?」
わたしはなんとか小さくうなずいた。
注がれる水をこくりと飲む。それだけで力尽きたようで、わたしはすぐにまた意識を失った。
そんなことを、何度か繰り返した後、ようやくわたしは起き上がることができるようになった。
体はまだ重いし、頭も痛い。
だけど、なんとか自力で半身を起こした。
「ここ、どこ……」
天蓋付きのベッド。豪奢なシャンデリアにフリンジがたっぷり付いたスツール。装飾が施されたカーテン。繊細な模様が入った壁紙。暖炉。なによりもこの部屋は、天上も高いし、ものすごく広い。
ぼんやりと部屋の中を見ていたら、そっと扉が開けられた。
黒い髪を後ろで一つにまとめた、エプロンドレスの女性が入ってくる。
誰だろう?
その女性は、ベッドの上に、身を起こしているわたしを見て、目を見張ると、すぐににっこりとした笑みを向けてきた。
「お体はもう大丈夫ですか?」
その声に、わたしは「あっ」と思った。
朦朧とした意識のわたしに、水を飲ませてくれた人だ。
「……あなたが、助けて……くれた、の?」
顔つきはどう見ても日本人ではないけれど、黒い髪というだけで、少しだけ、親近感を持ってしまった。
「いいえ、私はアドウェール様の命令に従ってあなたの看病をしていただけです」
そう言って、ワゴンを押しながら、わたしのというか、ベッドの横までやってきた。
ワゴンには水差しやコップ、スプーンにタオルなんかが乗せられていた。
そうして、その女性は水差しを手にしてコップに水を入れた。
差し出されたコップを受け取って、わたしはその水を飲み干した。
……おいしい。体に染みわたるみたい。
息を吐く。
「……名前を、聞いても……いい?」
「サラと申します」
「ありがとう、サラさん」
すごく世話をかけてしまったのではないかと思った。だから、ちゃんと名前を呼んでお礼を言いたかった。
「呼び捨てで結構ですよ。私は単なる侍女ですから。それからお礼はアドウェール様に言ってください」
ここがどういうところなのかはわからない。
だけど、わたしは助けてもらえた。
「なにか召し上がれそうですか?」
聞かれたけれど、わたしは首を横に振った。
水を飲んで、お礼を言って。
それだけで、体力は尽きたようで、わたしは体を横にしてしまった。
「……そのまま眠っていただいて結構ですよ。次にお目覚めになったときには、果物でもご用意しておきますね」
サラさん……サラの、その声を聴きながら、わたしはまた、眠ってしまった。
次に目覚めたときには、そのアドウェール様という人にも、お礼を言わなければ……と思いながら。
☆★☆
何度か寝たり起きたりを繰り返し、そのたびに、サラにお水や薬湯というものを飲ませてもらい、果物も少しだけ食べて。
それを繰り返していくうちに、だいぶ体が楽になってきた。
「あの……サラ。わたし、アドウェール様に、お礼とか、言ったほうがいいですよね……」
「体がきちんと回復してからで結構ですよ。まずは、食事ができるようにしましょうね」
更に何日か経った後、サラが「もしよろしければ、御髪も整えさせていただきます。それに湯あみも、そろそろできるかと」
「あ、ありがとうございます……」
自分でも汗臭いというか、肌がべたついて気持ち悪かったから、その申し出はありがたかった。髪も、剣で切られたまま……というのは嫌だったし。
てっきり浴室とかに連れていかれるのかと思ったら、使用人と思しき男性が、金色の猫足のついた陶器製のバスタブを、わたしが今いる寝室に運び込んでくれて。そこに、バケツでお湯を運んできて、そのバスタブに入れてくれた。
うわ……、重労働。申し訳ない。
サラがてきぱきと指示を出して、タオルやらわたしの着替えやらを、サラとは別の侍女っぽい女の人たちに持ってこさせている。
いろいろと申し訳ない。
恐縮していると「こちらの椅子に座っていただけますか?」と言われたので、そこに座る。サラが櫛でわたしの髪を梳いてくれた。
川で泳いだ後、洗っていないし。熱を出して、寝込んでいたし。
「汚れていて、ごめんなさい」
「いいえ」
サラは、気にした様子もなく、わたしの髪を鎖骨のあたりで切りそろえてくれた。
髪を整えてもらっている間に、サラではない、別の女性がシーツなどを交換してくれていた。
「いかがでしょう」
渡された手鏡には、明るい黄色の髪とグレイッシュブルーの瞳を持つ美少女が映っていた。
わたしはまじまじとその顔を見つめてしまった。
……これがイーディス・エミリィ・トラウトンの顔なのか。
日本人のわたしの面影など何一つない。
鼻筋が高いためか、彫りが深い上に、顎のラインがシャープでスッキリしている。目とか鼻とか口とかの、それぞれのパーツだけが美しいのではなく、その配置というか、バランスがいい。ずっと寝込んでいたから、今は、頬も少しこけているし、肌もざらざらしているけど。元々はきっとふっくらとしていて、美肌なんだろうなと思われた。
本当にわたしはイーディス・エミリィ・トラウトンに転生してしまったのだ。
ぐっと、奥歯をかみしめてしまった。そうしたら、サラは「髪はすぐにでも伸びますよ」と言ってくれた。
「ありがとう……」
髪が短くなったことを、悔しいとか悲しいとか思ったわけじゃない。
この世界のご令嬢は長い髪が当たり前なのかもしれないけど、転生前のわたしなんて、ショートヘアーだったし。
だけど、サラの気持ちが嬉しかった。
湯あみをして、髪も洗ってもらって、着替えをして。
それで、ようやくほっとしたというか、気分が上向きになった。
だけど、やっぱり体力は完全に回復はしていなかったようで、わたしはまた、ベッドに横になってしまった。交換されたシーツの感触が、気持ちいい。
「ゆっくりお休みください」
わたしが頷く前に、ノックの音がした。
返事をする間もなく、いきなりドアが開けられる。
大股で、ずかずかと部屋の中に入ってきたのは、緋色の外套を肩にかけ、体のラインがわかるほどぴったりとした黒い軍服のような服を着ている、赤い髪の男性。瞳の色はブルーグリーンだ。背もかなり高い。
「まあっ! アドウェール様っ! 女性の寝室にいきなり入ってくるなんて、無作法ですよっ!」
サラに怒鳴られて、アドウェール様とやらは「す、すまない……」と頭を下げた。
大型犬が、尻尾を丸めているみたいで、わたしはちょっとだけ笑いそうになった。
「さっさと退場してくださいっ!」
「あ、あの……、サラ、わたし、大丈夫です」
退場を促すサラの声と、わたしの声が重なった。
サラは「ですが……」と言ったけれど、わたしが目線で「お願い」というと、仕方がないという感じに肩をすくめた。それからわたしの肩に、ショールをかけてくれた。
ああ、着ているものが寝間着だからか。
わたしはサラに目線で礼を告げて、それから、ベッドから立ち上がろうとした。
「ああ、そのままでいい。起きるのはまだつらいのだろう?」
アドウェール様がわたしに言った。
「ありがとうございます。では、このまま失礼いたします」
「ああ。いきなり押し掛けたオレが悪いが、あなたが起きているということだったし、ちょうどオレの手が空いたところだったし……。と、言い訳より先に自己紹介だな。オレはアドウェール・T・フィングルトンと言う。あなたはイーディス・エミリィ・トラウトン侯爵令嬢で間違いがないだろうか」
「えっと……」
確かにその名前の侯爵令嬢に、わたしは転生させられた。
彼女の記憶はない。だけど確かに外見は彼女のものだ。
どうしよう……。
すべてを正直に言うべきか。
でも、言ったところで信じてもらえるのだろうか?
悩んだ。
「とりあえず、侯爵令嬢ではないです」
考えるための時間稼ぎでしかないけれど、今はまだ、こう答えることしかできなかった。
「ああ、そうだったな。あなたはラングトリー王国では罪人とされ、平民となり追放となったとされたとか。そう、隣国ラングトリーからは通達があったが。それは事実なのか?」
「……わかりません。わたし……イーディス・エミリィ・トラウトンとしての記憶がないんです」
「は?」
女神様から転生させられたというのは言わないでおく。
今は、まだ。
だけど、わたしを助けてくれた人に、嘘も言いたくなかった。
「オレンジ色の髪をした、見知らぬ男の人から、いきなり婚約破棄だの国外追放だのと怒鳴られ、その時にわたしのことをその人がイーディス・エミリィ・トラウトンと呼んだのは確かですが」
「そうか……。それは難儀だな」
「わたしが言ったことを……信じるのですか?」
「あなたは少なくともオレの名前に反応しなかった」
「名前……、アドウェール・T・フィングルトン……様……ですか?」
「この名に聞き覚えは?」
首をかしげる。
わからない。
「オレの家名がフィングルトンだということで、何か気がつかないか」
わからず、しばらくの間きょとんとしていたら、サラが教えてくれた。
「我が国はフィングルトン王国です。その国の名が、アドウェール様の苗字なのですよ」
あ、そういえば、何とかって国に追放とかなんとか言われたような気がする。
「アドウェール様はこの国の偉い人……なのですか?」
「えらい……そうですね、第三王子殿下でいらっしゃいます」
「えっ!」
驚いて、わたしは不躾にもアドウェール様を凝視してしまった。
「ラングトリー王国の王太子の婚約者であるイーディス・エミリィ・トラウトン侯爵令嬢であれば、隣国の王子の名を知らないわけはない。それに……、オレはあなたと交流をしたことはないが、あなたの元婚約者であるラングトリー王国の王太子と、我がフィングルトン王国の第一王子である我が兄ブランドンは、幼少のころから隣国の王族同士としてそれなりに顔を合わせていた。その際、オレの兄はあなたとも会っていたはずだ。知らない演技が上手い……のかもしれないが、オレは少なくともあなたに隣国や我が国の記憶がないことに対しては嘘だとは思わない。というか、外見のよく似た別人ではないかと思っている」
「どうして?」
「侯爵令嬢が川を泳げるはずはない。兵士なら泳ぐ訓練もするし、漁師なども泳げる者はいるだろう。だが、ご令嬢が泳ぎの練習などするはずもない。遠目に見ただけだったが、あなたの泳ぎ方は見事だった。あれほどうまく泳げるものは、我が国の兵士の中にもそういない。というか、泳ぐことができる女など我が国にはいないと思う。それは隣国も同様だろう」
「え?」
わたしが川を泳いで渡ったのを……見て、いた?
「隣国からの通達があって、オレは急いで国境のあの橋に向かった。あそこには破落戸崩れの者がいて、不要な金を巻き上げている……という状況だ」
「あ……」
橋のところにいた男たち。本当はお金なんて払う必要はなかったのか。
「ああいう者たちがいるところに、追放されたご令嬢などがやってきたら、どんな目に遭うか。なるべく急いできたのだが、間に合わず申し訳ない」
「い、いえ。アドウェール様が悪いわけでは……」
「いいや、オレの落ち度だ。すまない。大変な目にあわせてしまった」
下げれらた頭。
アドウェール様のせいではないのに。
じっと見ていたら、目の奥に、何か熱いものが、沸き上がってきた。
その沸き上がってくるものを、押さえつけようと、奥歯を噛んだ。だけど……。
アドウェール様が、顔を上げ、わたしに言った。
「二度とあのような目には遭わせない。オレがあなたを守る」
喉元までせり上がってきた衝動。それをせき止めることはできなかった。
この世界に転生して。
いきなり怒鳴られて、非難されて。
大勢から嘲笑の目で見られて。罪人扱いされて。
孤立無援。
知らない世界で、周りは誰一人としてわたしを助けてはくれない。
自分で、自分を守るしかない。
辛かった。
ううん、怖かった。
馬車の中で、ぼんやりしていたのは、何も考えていなかったのではなく、考えたら怖くて、身動きができなくなるから。
じっと固まって、耐えて。
まるで嵐が去るのを毛布にくるまって待つように。
だけど、待っていたって、嵐は去ってはくれなくて。
殺されるかもしれないって怯えて、逃れるために川を泳いで。もう駄目だと思って。
気を抜いて、泣いたら、もう立ち上がれないと思って。
心を押さえつけて、固く硬く、蹲って。
だけど、今。
アドウェール様は……わたしを、守るって……。守ってくれるって……。
それが、わたし個人に向けられたものではなくて、国を守る王族としての責任感から出た言葉だとしても。
この世界に、わたしの敵じゃない人が……いた。
敵の中に、ただ一人……じゃなかった。
嬉しかった。
一人じゃないのなら……生きていける。そう、思った。
わたしは泣いた。
大声をあげて。
小さな子供みたいに。
そんなわたしを、アドウェール様は、わたしを抱きよせてくれた。
温かくて、力強い腕。
アドウェール様の胸にしがみついて、わたしは泣いて泣いて、泣き続けた。
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