第14話 嬉しいのに、さみしい

「ジェニファー姉様……」

 まるで百合の花のように清楚で美しいジェニファー姉様の笑顔。

 淑女の、作法、なんて、忘れた。

 わたしは小さい子どもみたいに、飼い主に呼ばれた子犬みたいに、一も二もなく立ち上がって、ジェニファー姉様に向かって駆け出した。

「ジェニファー姉様っ!」

 抱き着いたわたしを咎めることなく、優しく受け止めてくれたジェニファー姉様。

「ザビーネ、久しぶりね。手紙ありがとう。それに一次試験に合格なんて、すごいわ。がんばったのねえ……」

 ジェニファー姉様の背中に両腕を回して、ぎゅうぎゅうにしがみつく。

 ……ああ、ジェニファー姉様の匂いだ。

 幼いとき、家庭教師から叱られたり、ユリア姉様から虐められたあと、いつもジェニファー姉様はこうやってわたしを抱きしめてくれた。

 泣いたときだけじゃない。

 褒められたとき、困ったとき、感激したとき。どんなときだって。側に居てくれた。

 悪いことをした時だって、あったけど。そんな時もジェニファー姉様は絶対にわたしを否定しないの。

 まず、わたしの気が済むまで話を聞いてくれる。それから「ザビーネはなにが嫌だったの?」「本当はどうしたかったの?」って、尋ねてくれるの。

 だからわたしはジェニファー姉様の腕の中で、落ち着いて、安心して、いろいろと考えることができた。

 相手の何が許せなくて、わたしが怒ったのかとか。

 わたしのどんなところが悪くて、なにをどう直せばいいのか。

 ジェニファー姉様といるといつも楽しいことは数倍になり、悪かったと思うことは素直に反省できた。

 なんていうか、わたしとユリア姉様は、ジェニファー姉様に育てられたようなもの、なのよね……。

 お母様は、社交とか美容とかにしか興味がなくて。わたしたち姉妹のことは乳母や家庭教師に任せきりで。貴族なんだから、そういうのは当たり前なのかもしれないけど。その代わりみたいに、ジェニファー姉様がわたしとユリア姉様をすごく大事にしてくれた。だから、別にお母様に見向きもされなくても、全然平気だった。

 慈愛の天使というものが実在するのならば、ジェニファー姉様はまさにそうだと思う。

 幼い時なんて、わたしとユリア姉様は、どっちがジェニファー姉様により愛されているか、どっちがジェニファー姉様のことをより好きかなんて、よくケンカをしたもんね。

 ……ん? あれ? 今なにか、心に引っかかったような……。まあ、いいか。

 ユリア姉様のことなんて思い出したらむかむかしてくるから、脳内から消去。

 とにかくわたしはジェニファー姉様のことが、すごく好き。大好き。

 だから、がんばれた。

 ずっと一緒に居られるようになるためなら、どんなことでもできる。

 わたし、全力で、ジェニファー姉様を目指して、走ってきたの。

 だけど。

「久しぶりの姉上との時間をゆっくり過ごしなね」

 マーティンは、ひらひらと手を振って、行ってしまった。

 ジェニファー姉様がすっと、マーティンに対して頭を下げた。

 大好きなジェニファー姉様と二人きりの時間が持てる。

 ジェニファー姉様に会えてすごく嬉しい。嬉しいの。

 なのに。

 去っていくマーティンの背に、追いすがりたくなるのはどうしてなのか。

 胸の奥がぎゅっとしているのはなぜなのか。

 行かないでって、さみしいって思うのはどうして……。

 マーティンが、わたしを喜ばせるためにって、ジェニファー姉様を呼んでくれた。

 わたしの、ために。

 だけどね、マーティン。

『オレと過ごすより、もっと、ザビーネが喜ぶこと』

 違うよ、マーティン。

 わたし、マーティンと一緒にあちこち王都を見て、楽しかったんだよ。

 ジェニファー姉様と過ごす嬉しさと、マーティンと過ごす楽しさなんて、比べるようなものじゃないの。どっちも大事で、どっちも幸せ。

 だから、わたしとジェニファー姉様とマーティンと、三人であれこれ話せたら……って、思うのに。

『オレと過ごすより』

 きっと、他意はなく、ふと漏らした言葉。

 だけど、だからこそ、その言葉には、マーティンの本音が込められているのだと、わたしは思ってしまった。

『ザビーネにとっては、オレよりも、姉君のほうが大事なんだよね』

 そんな言葉を告げられたみたい。

 ううん、マーティンはそんな卑屈なことは絶対に言わないし、思うことすらしないでしょう。これはわたしの勝手な想像だ。

 マーティンが本当にどう思っているかなんて、わからないけど。

 でもね。

 ジェニファー姉様に抱き留められているのに、マーティンの背中を見送ってしまって。

 わたしは、すごく寂しく感じてしまっているの。

 ねえ、行かないでよ。

 わたしの大好きなジェニファー姉様と、マーティンと、一緒にたくさんいろんなことを話そうよ。一人でどこかに行かないでよ。

 喉が詰まって、声が出ない。

 マーティンの背中が遠ざかる。

 その背が見えなくなった瞬間に、目の奥が熱くなって、ほろりと涙が流れた。

「ザビーネ?」

 ジェニファー姉様の柔らかな声。

「どうしたの?」

 答えられない。声を出したらそのまま号泣しそう。

 ぎゅうっと、ジェニファー姉様にしがみつく。

「ねえ、さま」

「ザビーネ?」

 どうしたの? 大丈夫よ、姉様がここに居るわ。小さいとき、そんなふうに何度もわたしを抱きしめてくれたジェニファー姉様。

「わたし……わたし、ジェニファー姉様が、好き」

「ええ。私もザビーネが好きよ」

「一緒にいるために、がんばってきたの」

「そうね。ザビーネはすごいわ。私も嬉しい」

「……前王妃様……カトリオーナ様に、少し休みなさいって言われて、でも、休むのが申し訳なく思っていたの」

「ザビーネは、目標が決まったら突進してしまうものね。すごく頑張り屋さんだわ。だけど、がんばりすぎなところもあるから、体を休めたり、気分転換したり、しなさいって、勧められたのね?」

「うん。それで、マーティンに王都を案内してもらったの。すごく、すっごく楽しかった……」

 溢れた涙がジェニファー姉様のドレスを濡らす。ああ……、ごめんなさい。

 そっと取り出したハンカチで、ジェニファー姉様がわたしの涙をそっと拭ってくれた。

「楽しかったのに、どうして泣くの?」

 辛い……、ううん、違う。さみしい。マーティンが、ここに居ないことが、泣くほどさみしい。

「ジェニファー姉様が、好きなの。大好きなの。一緒に居たいから、がんばってきたの」

 さっきも言った言葉を、もう一度繰り返した。

「だけど、ジェニファー姉様がいるのに、マーティンがいないのが……さみしいの」

 わたしは声を上げて泣いてしまった。

 さみしいよ、マーティン。

『オレと過ごすことより』

 そんな言葉、言わないで。

「そう……」

 あとは何も言わず、ジェニファー姉様はわたしが落ち着くまで、わたしを優しく撫で続けてくれた。

「あのね、ザビーネ」

「はい、姉様」

 しばらくした後、わたしが泣き止んで、気持ちが落ちついたころ、ジェニファー姉様がわたしに聞いた。

「ザビーネは、第三王子殿下のことが好きなのかしら?」

 マーティンのことは、嫌いじゃない。

 好きか嫌いかだったら好き。

 だけどそれは友情とか恩義であって、愛や恋ではない……はずだった。

「わか……らない。大事なのは、友達で、恩人で、わたしのこと、すごく考えてくれて……優しくて……、マーティンのことは、わたし……」

「目標に向かって走るのもいいけど、たまには立ち止まって、いろいろ考えることも大切よ。今のザビーネには、それが必要なのかもしれないわね」

 立ち止まって、考える。

 マーティンのことを?

 今まで、ジェニファー姉様と一緒にこの国で過ごせるようになることしか考えてこなかった。

 保留にしていたこと。

 考えずにいたことを……わたしは、考えなきゃいけない。

 ううん、違う。

 さみしいと思った、わたしの気持ちを……自覚、すればいい、だけ。

 だって、考えなくても答えはもう出てる。

 マーティンがいないのさみしい。

『オレと過ごすより、もっと、ザビーネが喜ぶこと』

 その言葉が胸に痛かった。

 それより以前にわたし、思っていた。

 マーティンの嫁扱いされて、外堀を埋められそうになって。そのことに対して、嫌ではないけど、『まだ』『そこまで』考えられないというか、覚悟ができてないって。

『まだ』考えられなくても、実はとっくに気持ちはマーティンに傾いていた。

 わたしが、自分でも気が付かないうちに、きっと。

 ジェニファー姉様のことしか考えていなかったから、わたし、いつの間にか、マーティンに心惹かれていたことにも……自分で、自分の心のことなのに、気がついていなかった。

 ……ああ、ホント、わたしって、視野が狭い。

 一つのことに突き進むだけで、突き進んでいる最中は、それ以外のことを考えることすらできていない。

 もっと早く、わたしが自分の気持ちを自覚していたら、マーティンにあんなふうなさみしい言葉を言わせたりしなかったのに。今頃、三人で一緒に楽しく過ごしていたかもしれないのに。

 ホント、わたしってバカ……だ。

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