第8話 義姉弟?

 それでも明けない夜はない。

 ようやく、なんとか……本の音読の仕事ができるようになりました……。

 仕事ができるようになっただけ、だけど。

 そう、まともには、音読ができていないのよ……。

 毎日何か所も、発音や声の強弱を指摘されるのだ。

「文節の区切りがおかしいわ。そこはそうではなく、こう読むのよ」

 と、一度は手本として、読んでくださる前王妃様。

 それをわたしは一度で理解して、言い直さなくてはならない。

 なにせ、二回目の手本はないのだ。

 二回目以降、発音やアクセントを間違えれば「もう一度読み直して」と言われるだけ。何度も読み直しても、間違えたままの場合は「もういいわ。次を読んで」と言われてしまう。

 怒られはしない。

 淡々と、指摘だけが繰り返される。

 それだけだ。

 いっそ怒っていただいたほうが、気が楽……かも。い、いやいや、そんなふうにめげるわけにはいかない。

 だって、前王妃様に納得いただけるように読むことができるようになれば、将来モードント王国の文官になったときに、わたしの話す言葉がそのまま通用するということだ。生粋のモードント王国の人間の発音と相違なく、高位貴族にも通用する言葉遣いと発音ができるようになるのよ。

 わたしの、目標に、一歩も二歩も近づけるってこと。

 だから、心なんて折れている暇はない。

 喰らい付け。

 歯を食いしばってでも、前王妃様がご指摘してくださることを、全部わたしの身につけろっ!

 わたしは読み方を間違えたところは、必ず当日中に発音を直すようにした。

 前王妃様の部屋から辞した後、わからなくなったところは侍女の皆さんに聞きまくった。それで、自分の部屋で練習する。声に出して、何度も読む。そうしていると、侍女さんたちが、すっと飲み物などを差し入れてくれるようになった。ありがたい。

 よし、明日こそは、完璧に本を読んでみせよう。

 そんな気力が湧いてくる。

 毎日努力。コツコツと。それしかわたしにできることはない。

 同じ間違いは犯さないように。

 丁寧に、文章を読み、意味を確認し、繰り返し読む。

 そんな繰り返しで、モードント王国に来てから三十日が経って。

 わたしはその日、初めて、前王妃様からのご指摘なしに、一冊の本を読み通すことができた。

 お、おおおおおっ!

 達成感に感動していると、 前王妃様も、にっこり優雅にお笑いになって「上達したわね」と言ってくださった。

 音読係としては、初めての完璧な仕事。

 今までの二十九日間は、お給金を貰いながら、まともな働きができなかった……とも言うんだけど。

 ありがたいことに、前王妃様は「せっかくだから、この後は一緒にお茶でも飲みましょう」と誘ってくださった。

 前王妃様とご一緒にお茶なんて……何たる僥倖。

 更に感動していたら、ひょっこりとマーティンが現れた。

 あら、なんか久しぶり。

「オレもご一緒してもいいですか?」

 なんて、前王妃様の部屋にいきなりやってくるなんて……。だ、大丈夫なの? 普通、身分のある相手に対しては、先ぶれとか、ご予定の確認とか必要だよね? いきなりご一緒になんて、ありえないと思うんだけど。

「あら、ちょうど良いタイミングでやってきたわね。狙ったの?」

「いや、まさか。偶然ですよ。というか、オレももう少し頻繁にザビーネの様子を伺いに来たかったのですが。なかなか忙しくて。すみません」

 あ、あれ? なんか親し気……。

 ……マーティンと前王妃様って、いったいどんな関係なんだろう? 

 マーティンの正体も気にはなっていたのよね。今までそれを問う機会も、余裕もなかったけど。

 んー、でも、今ここで、前王妃様の前で聞いても良いものなのだろうか……?

 悩んでいるうちに、侍女さんたちがお茶の用意をしてくれていた。すっとするような清涼感のあるお茶。それにはちみつが入れられてある。喉に優しい。ホント侍女さんたち有能っていうか優しい……。

 ふうと、わたしが一息ついたら、マーティンが……っ!

「それでですね、ザビーネはおばあ様の目から見て、いかがですか?」

 ちょっと待って。お、おばあ様、だと⁉ 

 叫びそうになるのを、必死にこらえる。

 おばあ様呼びをするってことは、マーティン、前王妃様の孫⁉ 

 ということは、高位貴族とかじゃなくて、王族⁉

 それとも、おばあ様呼びを許されているだけの他人⁉

 いったいどっちだっ⁉

 前王妃様は「そうね」と前置きしつつ、わたしに視線を流してきた。

「ミスは多いわね。だけど、次の日までにはそれを直してくる根性はあるわ。それにあたくしの音読係、最長記録ね。これまでやってきたお嬢さんがたは、五日も持てば良い方だったから」

「あはは、確かに。根性の塊だからね、ザビーネは」

「で? マーティン。あなたがあたくしのところにザビーネを連れてきたっていうことは、ザビーネをあなたの婚約者にしたいってことで良いのね?」

 は? 

 婚約者? 

 わ、わたしは老眼の前王妃様の音読係としてこの国にやってきたはずじゃあ……。

 違うの?

 もしかして、マーティンに騙された?

 いや、騙されたとしても、わたしの語学力アップにはありがたいとしか言いようがないんですけど。だけど、でも。あ、音読係、最長記録って、前王妃様が言ったし。音読係が必要なのは本当か。

 えーと、どういうことだろう……。

「いやあ、それが。ザビーネはオレにこれっぽっちも興味がなくて」

 マーティンは肩をすくめた。

「あら……? あなたに興味のないご令嬢なんて、いるのかしら?」

「おばあ様の目の前のザビーネがそうですよ。初対面の時からオレの顔になんてまるで興味を持ってくれなくて」

「それが本当ならすごいことだけど……」

「ええ、すごいですよもう。『マーティン、友人として、気が合いそうだとも思っているわ』と言われたんですよ。ご令嬢から友人なんて言葉、オレは初めてでした」

「恋人や婚約者ではなく、友人……」

 前王妃様が、呆気にとられた顔をなさっている。常に優雅な笑みを浮かべていらっしゃるか、きりっとした顔しか見たことがないのに。

「オレの顔をどう思うと聞いたら『鼻筋が真っ直ぐ通っているから、顔全体の彫りも深く見えるわね』だとか『笑うと目尻に皺が寄るからカッコいいというよりは人が良いって感じに見えるなーとか?』なんて答えるし」

「そ、それは……また……」

「挙句の果てに『ふーん。美形も大変ね。でも、美醜の感覚って、人によっても国によっても違うんじゃない? マーティンは確かにきれいな顔立ちしてるけど、わたしには、顔がいいとかどうとかよりも、モードント王国語が話せるかどうかって方が重要だわ』ですよ、おばあ様。オレはあまりの答えに感動して、即座にザビーネと友誼を交わしましたとも」

 ええ、そう言えば……そうだったわね。がっちりと握手なんかを交わしたわ……。

 マーティンの顔が美形だってことは認識しているけど。うん、確かにきれいな顔だなーって思うわよ、わたしだって。

 宗教画の大天使様のモデルだって言われても、うなずけるくらいの神々しい美貌。

 だけど、わたし、男の人……というか、マーティンにときめいている心の余裕なんて、ないのよ。

 まずは、語学。モードント語がマスターできたら、次はモードント王国の文官になるための試験を突破しないといけない。

 語学が、それなりにできるようになるって、何段もある階段の、最初の一段目を上ることができたってだけなのよ。

 わたしの最終目標は、モードント王国で職を得ること。

 その職は、別に文官になることに限定はしないけど、次期王妃様であるフランツィスカ様のお側に居られないと意味がない。だって、ジェニファー姉様は、フランツィスカ様の侍女だもの。

 だから、わたしは文官になるよりも、本当はフランツィスカ様の侍女になりたい。だけど、それは、今のところ、増員の予定はない。

 さすがにフランツィスカ様をお守りする女騎士とかは無理だしね。

 文官のほかに、なにか職があればいいんだけど。

 なければやるしかないでしょう。試験を受けて、文官になる。推薦は、一次試験を突破すればフランツィスカ様が書いてくれるのだから。

 などと考えていたら、まさに、そのことを、マーティンは前王妃様に説明していてくれた。

「ということでですね、おばあ様。ザビーネの目的はですね、うちの国の言葉を習得して、フランツィスカ王太子妃の侍女をしているザビーネの姉君と一緒にこの国で暮らすってことなんですよ。だから、最低限王城で働きたい。そのために、文官試験を受けようとしているんですが……」

 マーティンがそう言ったら、前王妃様はサクッと、軽くおっしゃられた。

「王城で暮らすのが目的なら、マーティン、あなたと結婚でもすれば簡単じゃないの。あなたとフランツィスカはすでに義弟と義姉なんだから」

 待って、どういうこと。

 それってまさか……。


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