第6話  夏季休業前

 学園に入学から約二か月。

 第二王女殿下とジェニファー姉様は隣国に向かってしまった。

 第二王女殿下のご厚意で、出発前、ほんの短い時間だったけど、わたしはジェニファー姉様と会うことができた。そして、そこで今まで覚えた隣国の言葉で、ご挨拶をした。

 第二王女殿下とジェニファー姉様は、言葉はまだまだつたないけれど、発音が素晴らしいとほめてくれた。

 嬉しい。

 これもすべてマーティンのおかげだ。感謝の心を捧げるだけではなく、何かお礼をしなければ。

 ちょっと考えよう……と思いつつ、今日も今日とて、マーティンに教えを乞う日々。

 わたしは終わったばかりの授業のノートを手に、マーティンの席に突進する。

「マーティン、ここ、教えてっ!」

「ホント毎日熱心だね、ザビーネ」

 言いつつも、マーティンの手にはすでにペンが用意されていた。用意がいいなあ。ありがたい。

「まずざっと見るから、ノート貸して」

 わたしは両手でノートを掴んで、まるで賞状授与の時のように、恭しくわたしのノートを差し出した。

「よろしくお願いしますっ!」

 わたしはどの教科も授業の内容は、ノートの左のページにだけ書いている。

 ノートの右のページは、その授業内容をモードント王国語に翻訳するのだ。授業を聞きつつ、すべて翻訳するのはなかなかハード。

 だから、わたしのペンを持つ手は、授業時間中ずっとガリガリと動いている。

 考えても翻訳できないものは、アンダーラインを引いたり、スペースを空けたりしておく。そこは、マーティン大先生の出番。

 マーティンは、わたしが書いた翻訳の文章を見て、間違いを直してくれるだけではなく、間違いじゃないけれど、もっとこういう表現方法にしたほうがいいよっていうのも書き込んでくれるのだ。

「はい、ザビーネ。だいぶ間違いも少なくなってきたね。直すところ、あんまりない」

「これもマーティン師匠のおかげでっす!」

「だから、師匠はやめてよ……」

 この二か月で、わたしのモードント王国語はかなり上達した。

 いや、かなりなんて程度じゃない。相当上達した。

 まだ、文官試験採用問題なんかは解けなくても、恋愛小説くらいなら辞書もあまり使わずに読めるようになったんだから、我ながらすごいと思う。

 会話もだ。日常会話くらいなら、ある程度は話せると思う。

「直してもらったところ、読むから。発音とか、文の区切りとか、おかしかったら直してくれる?」

「ああ、いいよ」

 マーティンに直してもらったばかりのモードント王国語を音読する。

 二つ三つ、アクセントを直してもらって、それをもう一度読んで。

 そこで、次の授業の時間となった。

「ありがとうマーティン。次の授業の後もよろしく」

 学園に入学して、授業が始まって。休み時間ごとにわたしはこんなふうに添削と音読を繰り返している。

 同じクラスの皆様は、入学当初はわたしがマーティンに恋をして、アプローチの一環として、話しかけている……と思っていたらしい。

 よくやるわね……なーんて陰口も叩かれてた。

 だけど、わたしはそんなこと気にせず、ひたすらモードント王国語の習得に勤しんでいる。そうしているうちに、次第に陰口も減ってきた。きっと、アプローチではなく、本気でわたしが語学習得のために、マーティンに師事しているとわかってくれたのだろう。

 マーティンには迷惑をかけていると思ったけど、マーティンは全然嫌な顔をしなかった。

「ああ。ザビーネがこうやって語学習得に燃えているからさ。オレの色香に迷って、オレを争奪しようとするご令嬢がたも、ザビーネを押しのけてやってきたりはしないんだよね。ホント、ザビーネには感謝しかないね。このオレが、ご令嬢に揉まれずに、ごく普通に学園生活を送れている」

 と、大天使のような慈愛に満ちた笑顔になるマーティン。拝みたくなるくらいの神々しさ。

 母国では、多くのご令嬢の方々に揉まれていたのね。モテ男も大変だ。

「防波堤になっているのならよかったわ。マーティン師匠には、現在進行形で大変お世話になっているから、お礼をしないとって思っていたところだし」

 わたしがそう言ったら「お礼はいいんだけどさ……」と前置きして、マーティンが言った。

「あのさ、夏季休暇なんだけど、ザビーネってモードント王国で、短期の仕事、する気ある?」

「あるっ!」

 前のめりで即答した。

「……どんな仕事とか、条件とか、期間とか、聞く前に即答していいのか?」

「どんな仕事でもやりますともっ! いえ、寧ろやらせてくださいお願いしますっ!」

 日常会話程度なら、もう話せるようになった。

 なら、現地に行って、実践できれば……。わたしの語学力はどれくらい向上するのだろう。

 それに、夏休みは、さすがにマーティンに添削をお願いするわけにはいかないだろう。自主勉強をするしかないと思っていたところに、現地留学……ではないけど、現地でお仕事。

 断る理由などない。

「あー、じゃあ、お願いするけど。仕事内容は、悪いものじゃあないんだよ。とある老婦人がね、だいぶ目が悪くなって、大好きな本が読めなくなった。で、本を音読して、読んで差し上げるって仕事なんだよね。住むところと食事は用意する上に、給金も出る」

「ものすごく良い条件なんだけど。それ、やりたいって人、多いんじゃない?」

「……既に十人くらい、脱落しているんだ。その老婦人が、身分もあって、偏屈ではないけど、マナーとか厳しくて。音読係のご令嬢はね、少しでも発音とか文章の区切りとか、間違うと、指摘されて、言いなおしをさせられるんだ。立ち居振る舞いとかも、そうだね。で、心が折れて、みんな音読係を辞退するって感じで……」

 モードント語の本を音読して、きちんと読めるようになるまで、繰り返し言いなおし? しかも礼儀作法までご指導くださるとは。

「それって、わたしにとってはありがたいんだけど。むしろお金を払ってでも、させてほしいんだけど」

 個人的な家庭教師みたいなものじゃない。お仕事? いいのかな? わたしにとってメリットしかないよそれ。

「うん、ザビーネならそう言うと思ったよ」

「じゃ、じゃあ……」

「老婦人にはオレから話をしておくね。やる気のある音読係が見つかったよって」

「ありがとうっ! マーティンは神様だわっ!」

 飛び上がって喜んだ直後、わたしは気が付いた。

 「あ……。ごめん、わたし、モードント王国までの旅費がないわ」

 お父様はお金なんて出してはくれないだろう。なら、アクセサリーとかドレスとか、全部売れば、旅費くらいにはなる……? ジェニファー姉様からのプレゼントとかは売りたくないけど、この仕事を逃したくない。

 ううう、なにか方策は。あ、そうだ。

「えーと、お給金、出るって言ったよね。旅費はそこから後払いでもいいのかしら」

「オレも夏季休暇中は帰国するから、一緒に行って帰ってくればいい。ああ、護衛も侍女もつくから、不自由はないし、問題もない。宿には泊まるけど部屋も別にするし。滞在費もいらない。旅費も不要」

「……そこまで条件がいいと、なんか騙されている感じがするんだけど」

 いや、マーティン神を疑うようなことはしないけどね。

 だまされたとしても、こんな破格のお仕事、絶対に逃したくないけどね。

「うん……、破格なのには理由があるんだよ……」

 なにか裏があるのかな?

 言いにくそうなマーティンに、なにがあってもやりたいですって言ったら。

「ありがとう、ザビーネ。で、実は、その、老婦人ていうのが……」

 もごもごと、言いにくそうに老婦人の名前を、わたしだけに聞こえるように、マーティンは呟いた。

「カトリオーナ・J・モードント。つまり、前王妃様なんだよね」

 「うそぉ……」

 あまりにあまりなお名前に、さすがのわたしもその場で腰を抜かしたわ……。




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