3

「食べた?」


 航が定食をほとんど食べ終えたところで、美里が航の座るテーブル席の反対側に座った。

 美里が空になったコップを見て、新しく水を注ぐ。


「うん、ありがとう」


 時刻はラストオーダーを過ぎ、店内には航以外の客はもういなかった。

 しんとした店内には航と美里と美里の母親だけ。


「大学、楽しみ?」

「楽しみよりも、不安の方が強いかも」

「まぁそうだよね。こんな田舎から急に東京に行くんだから。航のことだから、道に迷ったり、電車を乗り間違えたりで大変そう」

「それはちょっと自分でも思ってる」

「ふふ、自覚あるんだ?」

「ないと言ったら嘘になる」

「ふーん」

「美里は、このお店の手伝いをするんだっけ」

「うん。お母さん一人じゃ、この店やっていけないから」


 航は言葉に詰まる。

 美里にはとある事情があることを知っていた。


「……偉いよな、美里は。昔から俺よりもずっとしっかり者で、成績だってずっと美里の方が良くて。それなのに富美加さんのことを思って地元に残る決断をして、俺だったら親のことなんて全然考えないのに」


 美里は航が行く大学よりも偏差値の高い大学に合格できる実力を持っていた。

 常に学年トップの成績を収め、模試の判定でもA以外をとったことがない。教師からも合格は確実と言われていたが、結局美里は受験をしなかった。


「私が決めたことだから。別に偉いとか、全然そんなのじゃない。ただ私にとってお母さんの存在が大学に行くことよりも大切だったってだけ」


 母親からは大学に行くことを強く勧められた。金銭面は奨学金を利用すればなんとかやりくりができるし、お店のこともアルバイトを雇うなどやり方は色々あると何度も説得された。

 教師たちに受験をしないと伝えた際は強く反対をされた。何度も校長室で母親同行のもと面談が行われ、教師たちはなんとか美里が受験をするよう説得した。

 それでも、美里は地元に残ることを選んだ。


「お父さんが倒れたとき、私思ったの。お母さんのそばには私がついていなきゃって。お母さん、信じられないくらい乱れてたから」


 美里がちょうど中学に進学した時期だった。

 美里の父親が突然脳梗塞で倒れ、植物状態になった。

 元々『高浜屋』の厨房に立っていた父親が倒れたことで店は営業することが困難になり、同時に家計面も苦しくなった。

 度重なる困難に見舞われたことで、母親の情緒は狂ってしまった。

 話すことが好きで家族で一番おしゃべりだった母親は言葉を一言も発さなくなり、食べることが好きだった母親は食欲が消えてほとんど胃に食べ物を入れないという日々が長く続いた。

 植物状態になって三ヶ月後、父親は息を引き取った。

 それから母親は夫の遺骨を手で抱えながら椅子に座ってただ呆然とする日々。

 美里はそんな母親の代わりに家事をこなし、新聞配達をして懸命に母親を支えた。そんな美里の支えもあり、母親は徐々に生気を取り戻していった。

 営業を停止していた店は母親が厨房に立つことでどうにか再開をし、祖父母や航の家の手も借りながらながら一歩一歩前に進んだ。


「今はもう元気に料理作ってるけど、ふとした時に大変だった時のお母さんを思い出すの。もしまたあんなお母さんを見ちゃったら、今度は私がどうかしちゃう気がする。だからお母さんのためってのもあるけど、結局は私自身のために選んだのかもね」


 厨房で片付けをしている母親を見ながら美里は言った。

 その表情はどこか寂しげで、目を離した隙にどこかへ消えていってしまいそうな儚さを感じる。

 航は話を聞きながら中学生の頃の美里を思い出していた。

 地元の同じ中学校に進んだ二人。今までとなんら変わりない生活が続くと思っていたが、それは美里の父親の病気がきっかけで一変した。

 家事に新聞配達、勉強や部活も全てこなしていた美里は周囲に愚痴を漏らすこともなく、あたかもそれが普通であるかのように振る舞っていた。それでも、小さい頃から一緒にいた航の目には、明らかに様子がおかしい美里の姿が映っていた。

 周囲に振り撒く笑顔の裏に見える疲弊。

『普通』な学生生活を送る周囲への嫉妬。

 変わってしまった家族への哀愁。

 航はそんな美里を見て、どう接していいのかわからなかった。今まで通り声をかけてもいいのか、それとも美里の状況を考慮して話しかけない方がいいのか。はたまた憂慮して美里に労いの言葉をかけた方がいいのか。でもそれは美里にとって節介なものではないか。

 考えているうちに、自然と二人が話す機会は減っていった。

 なんとか助けたいと思う航だったが、しばらくはどうすることもできなかった。

 状況が変わったのは『高浜屋』の営業が再開した時。

 航の家も再開に向けて美里たちに協力することになり、美里と接する機会が増えた。

 ある時「大丈夫か?」と聞くと美里は胸を張って「当たり前じゃん」と笑って見せた。

 どこまでも美里は美里だったのだ。


「私の話はさ、もういいじゃん。問題は航の方でしょ? 料理はできない、電車に乗れない、道に迷う。小学生じゃないんだからさ」

「だから、これからなんだってば。何事も経験だろ? 人間最初はできなくて当たり前なんだよ」

「いっつも屁理屈だけは達者なんだから」


 二人は笑う。

 二人だけの特別な空間がそこにはあった。


「もう東京に向かう準備はできてるの?」

「……あ、それが今日もここに来るまでに色々片付けてたんだけど、中々終わらなくって」

「なんか部屋が散らかってるの想像できる」

「想像の三倍は散らかってるよ」

「何それ悲惨。……明日お店休みだから、私も手伝ってあげようか? 特別に」

「え、まじで」


 航としては猫の手も借りたい状況だった。

 何より物が多すぎるのだ。


「私に心を込めてお願いしたら考えないでもないかも」

「……えー、親愛なる美里さん、どうか僕に力を貸してください」

「棒読みで全然気持ちが伝わってこないなー」

「お願いします、美里さん。本当に力を貸してください」


 航は両手を重ね、テーブルのギリギリまで頭を下げる。


「……まぁ、及第点ね」

「ありがとうございます!」


 航は白い歯を見せて、とびっきりの笑顔を浮かべた。 

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