第7話 雨模様な家の下で
現在は午前六時ちょうど。なんとか最終下校時刻前までに、視察の活動環境を整えることができた。
視察の協力者たちに、明日の午後四時に三階の使われていない第四小教室に集合して欲しいという旨の連絡をする。
すると、いち早く結城から了解という意のスタンプが返ってきた。他の者からも時間をおけば、まばらに連絡の返信がくるはずだ。
……
会議室として出来上がった部屋を見渡せば、微かな達成感に包まれる。小教室とは名ばかりに、半ば物置き部屋と化していたそこを、一から整えて会議を開けるように整備するのは結構骨が折れる作業だった。
それと同時に、一年もすればまた元の有り様に戻るんだろうなと思うと、なんだかやるせない気持ちになった。
狭い部屋の中で一人ぽつんとしんみりしていると、目の前の窓を叩きつけるように強い風が吹いた。
どうやら日が暮れた宵の口あたりに大雨が降るらしい。朝のニュースで、昨日とは打って変わって荒れた天気となると報じられていたが、失敗したことに傘を持ってくるのを忘れていた。
今から帰れば雨に降られずに済むかもしれない。幸いなことに、この準備が終わったら帰宅するようにとお達しを受けている。
二つ向かい合わせに並べた長テーブルの上に置いてある私物を寄せ集めて、荷造りしてから部屋のドアに鍵をかけた。
──────────
今にも雨が降り出しそうなほど暗く濁った空と、生暖かくて湿っぽい風。その風に煽られながら淀んだ空気を吸い込み、持っている袋を反対の手に持ち替える。
真っ直ぐ家まで帰るつもりだったが、家の冷蔵庫が空っぽでなにも食べる物がないことを思い出し、帰り道の途中にあるスーパーに寄って買い物をした。
天気予報によると今夜から明日の夜にかけて雨が降り続くとのこと。
文化系の部活動や同好会はまだしも、体育会系のそれらは雨が降っていては普段の活動ができないところもある。それを正常に評価することはできないため、予定を変更する必要があるかもしれない。
なんだか幸先不安なスタートを切りそうな予感がするが大丈夫だろうか。こうも天気が悪いと気分まで沈んでしまう。
そんな憂鬱な気持ちを解消できぬまま、我が家に着いてしまった。
すると、こんな雨模様なのに家の扉の前で座り込んでいる隣人を見つけた。
「あ……」
隣人は俺に気がつくと緊張の糸がほぐれたような表情で、言葉にもならないような声を上げた。そして続けざまに小さく口を動かす。
「──お、おかえり……」
自分の腕で自身の脚を抱き締めるように小さく縮こまって、俺に〝女神〟のような優しい微笑みを向けた
「……どうも」
特に姫野と話すこともないし、スーパーで買った生ものを早めに冷蔵庫に入れておきたいので、一言だけ返事をして会話を早々に切り上げる。
カバンから家の鍵を取り出し、玄関のドアにそれを差し込んだ時だった。視界の隅に白い袋を捉えた。制服姿の姫野を見るに、どうやら俺と同じように帰路の合間に買い物をしたようだった。
しかし姫野が家の中に入る様子もなく、荷物も外に置きっぱなしということは……。
俺はドアに差し込んだものを回して鍵を解錠するも、その扉は開けずに、その場に持っているレジ袋を置いて、座り込んでほうけている姫野に近づいて声をかける。
「……姫野さん。もしかして、鍵……忘れたとか?」
「うぇ……!? あ、う……うん──」
姫野は潰れたカエルのような声で大袈裟に反応した後、それを恥じるようにこくりと頷いて、若干上擦った声でぽつりと話し始める。
「……わたし、引っ越す前は鍵持って出歩いたことなくて……つい忘れちゃった……」
姫野はたははと取り繕うような乾いた笑みを溢した。そして隣にストンと虚しく置かれているものを見ながら、「せっかく買ってきたのにな……」とため息混じりに呟いた。
こういう時、同級生として、または隣人として、どう対応すれば良いのだろうか。自分の家に招き入れて茶の一つでもふるまうべきなのだろうか。
でも正直、俺は昨日初めて話したばかりの相手を、自分の家に上げることに抵抗がある。それは姫野の立場になって考えても同じような感情を抱くだろう。
……でも──
「……俺の家に上がるのはあれだろうけどさ。姫野さんさえよければ、中の玄関で親御さんが帰ってくるの待っててもいいけど」
「えっ……」
耳元でピューと音が鳴り、生ぬるい風が身体を包み込むように吹き抜けていく。
「い、いいのかな……」
眉を下げて遠慮気味に聞いてきた姫野が、小さく縮こまって困り果てたように笑った姫野が、あの時のあいつと被って、放って置けなかった。
「今日は風が強いし、これから雨も降ってくる……し……」
「……あっ」
ポタッと頭に冷たいものが落ちた気がした。顔を傾けて空を仰ぐと、雨の雫が頬に張り付いた。
雨が降り始めた。そう思った途端、雫が地面に落ちる音が聞こえてきた。
「ど、どうする……?」
予想以上に雨が強まる勢いが早くて呆気に取られていたが、なんとか気を取り戻して、心ここにあらずといったように呆けている姫野に意思を確認した。
すると姫野は縋るような目をこちらに向けた後、今この瞬間にも勢いを増す雨空を眺めてから口を開いた。
「──お、お邪魔します……」
──────────
ジューっと水分が蒸発する音を聞きながら、右手に持った箸を動かす。火がほどよく通った豚肉を裏返して、薄切りにした玉ねぎとにんにくをフライパンに投下する。
台風の如く降り続く大雨のなか、姫野を玄関に招き入れて茶でも出そうとしたら、なぜか俺が手料理を振る舞うことになってしまった。
その理由は単純明快。姫野の腹の虫が鳴ったからだ。
最初は互いに気まずいからと、玄関の土間付近で時間を潰してもらおうと考えていたが、姫野が上がり框に脚を踏み入れた瞬間、でかい音が鳴った。それは言葉で形容してしまうと姫野の威信に関わるほどのものだった。
絶え間なく箸を動かし続け、食材を炒め続けると玉ねぎがしんなりしてきたので、そこにすりおろした生姜と酒、みりん、醤油を混ぜ合わせた調味料を加えて、全体に絡めるように炒めて火を止めた。
姫野から半分ほど拝借したキャベツを千切りにして皿に盛りつける。姫野からは賞味期限が今日までだからと豚のロース肉も頂いている。両親が九時頃に帰宅するそうで、大抵出来合いのものを買ってくるため、どうせなら使って欲しいとのことだった。
その当の姫野は、リビングのソファに座っている。最初家に上がった時は、警戒して挙動不審な動きをしながらリビングまで向かっていたが、今では緊張が和らいだのかテレビを見て安らいでいる様子だった。
出来上がった生姜焼きを、キャベツを盛り合わせた皿に移していく。俺が今日買ってきた豚肉も使用したため、ぱっと見四人前ぐらいの分量があった。姫野がどのくらい食べるかわからないが、まあ間違いなく残るだろう。
でも、明日は飯を作る気力なんて残ってないだろうから丁度いい。残った分は明日の夕飯に回そう。
その盛り付けが終わると、浸漬をさせずに早炊きで炊いた白米をお椀によそぐ。みそ汁は面倒くさいから作らない。インスタントのやつもない。
それらをダイニングテーブルに持っていくと、姫野が俺に気づいたのか、パタパタと駆け寄ってきた。
「わ、わたしも手伝うよ……!」
「……じゃあキッチンからコップと割り箸持ってきてくれない?」
「う、うん! わかった──」
互いにダイニングテーブルに料理や食器を並べていく。
俺は冷蔵庫からドレッシングとペットボトルに入った緑茶を取り出して、それをテーブルに持っていき、姫野と向かい合うように席に着く。
そして、冷静になって考えてみた。
……なんで俺、姫野と食卓囲んでるんだ?
昨日はあまり干渉しあわないように、ある程度の距離を保って接しようと決意したはずなのに、なんで次の日に同じ屋根の下で同じ釜の飯を食おうとしているのか。
物思いに耽っていると、姫野が料理を前にどうしたらいいのかわからないように、もじもじとしていた。
「……あ。そ、それじゃあ食べようか……?」
「う、うん……いただきます……」
俺と姫野は手のひらを合わせた後、黙々と目の前の料理を口に運ぶ。
──いや気まず……。
白い壁に掛けられているアナログ時計の秒針を刻む音と、食器に箸があたる音がいやに大きく感じる。
黙々と生姜焼きを半分ほど食べ進めたあたりで、姫野が持っていた箸を置いておもむろに口を開いた。
「ご、ごめんね……。わざわざ料理作ってもらっちゃって……」
「……いや、俺も丁度夕飯作ろうと思ってたし」
それにと言葉を続ける。
「あんなでかい音、鳴らされたらねぇ……」
「そ、それは言わないで……!」
頭をガバッと覆うように腕を折り畳む姫野。
緊迫した雰囲気に一つ穴が開くように笑みが溢れる。
……思えば、家族以外にこうして自分の手料理を振る舞ったのはいつ振りだろうか。
姫野はしばらく悶えていると、恥ずかしがって紅潮した顔をこちらに向けた。
「そ、それに、けっきょく全部
申し訳なさそうに目を伏せた姫野。
俺は手前に置いてある緑茶が入ったペットボトを手繰り寄せて、自分の飲み干したコップに注ぎながら、項垂れている姫野に返事をする。
「料理するのは昔から好きだから。そんなの気にしなくていいよ」
「そう、なんだ……」
姫野にも緑茶を注ぎ足すかという意を込めて前に突き出すと、姫野は手元に置いたあるコップを持った。
そのコップに緑茶を注ぐと、姫野は「ありがとう」と一言言ってそれを口にする。
「まあ、そんな足したものは作れないんだけど」
「でもこうやってぱぱっと手短に作れるのすごいよ。……それに美味しいよ?この生姜焼き」
「──ああ……、そう」
そんなにストレートに言われたら割と照れる……。いやなんで馬鹿正直に照れてるんだ俺。
微かに上がった体温を静めるように、緑茶を身体の中に流し込む。
「な、なんだか自立した大人って感じがするし……」
何か眩しいものを見るように、目を細めてそう言った姫野は、なおも続けた。
「……それに、学園でも──」
遠慮気味にかち合う視線、その姫野の瞳に、俺はなにか違和感を感じた。
「──わたしもみんなから、そういう風になるのを期待されてるのかな」
「…………」
「……生徒会役員になって、佐竹くんみたいに学園のためになることをすれば、みんな喜ぶのかな……?」
今朝の噂を思い出して、頭痛がしそうな自分の額を撫でるように摩る。
さすがにあの噂は姫野の耳にも届いているらしい。今日はどこに行ってもその話題で持ちきりだった。
姫野は眉を下げて暗い表情をしながらも、口角を上げて微笑みながら話を進めた。
「そ、それとも、またいつもの冗談なのかな……」
「……本気でそうなることを望んでいる人は少ない、とは言い切れないけど」
そう、姫野が生徒会入りするという噂は、案外肯定的な意見が多かった。ついでにいうと部活動に入るという噂は、彼らの間では確定事項となっていた。各団体が〝女神様〟はうちに入るのだという主張を永遠と繰り広げていた。
姫野は今日を振り返るように、もはや悟った表情で語り始めた。
「わたしも、今日言われたんだ……。わたしが生徒会に入ればもっと自由な学園生活を送れるって」
姫野から出た「自由」という単語に、思わず拳を強く握り締めてしまう。
「わ、わたしが放課後の見回りとかするなら、もっと伸び伸び部活ができる、って……」
俺の様子を見ながら言葉を紡いだ姫野は、「わたしは全然そんなこと思ってないけどね……!」と言葉を付け足した。
姫野が生徒会に入って校内の見回り業務をすれば伸び伸びと部活動ができる。ということは今はそれを阻害している者がいるということだ。
俺の主な生徒会業務は放課後の学内の巡視である。学内で部活動や同好会の活動に勤しんでいる生徒たちの様子を見回り、時にその生徒たちからの相談に乗ったり、派手なことをしている者たちを注意したりするのだが……。
はっきり言うと、俺はその特定の生徒たちからあまりいい印象を持たれていない。まあ、身内で楽しく活動しているところに、一々茶々を入れる存在がいれば、それを煙たがるのは当然のことだろう。
だから俺の学内での評判が芳しくないことは仕方がない。
──逆にいえば、学内人気一位の姫野が生徒会役員になれば、あいつらも簡単に姫野の言うことを聞くってことだよな……。
「…………」
「そ、そそその顔、なに……?」
俺のよくない画策が顔に出ていたのか、怯え切った様子でプルプル身体を揺らす姫野。
「──……なんでもないよ」
「な、なんか変な間があったんだけど……」
姫野はさっきまでの暗い表情とは打って変わって、人を訝しむような表情を俺に向けてくる。
それに見て見ぬ振りをして軽く咳払いをする。
「まあとにかく人から何か言われたからって、無理して入る必要なんてないよ。そもそも十月にならないと役員になれないわけだし」
「う、うん……そうだよね」
「あと……ごめん。少し甘く見てた」
「えっ……?」
姫野は俺の言葉の意図を探るように、小さく首を傾けた。
「あんなのでそんな噂が立つとは思ってなかったっていうか、完全に姫野さんの影響力を見誤っていたっていうか……」
「えっ、ええ……!? いや、そんなのわたしにない……よ……?」
姫野は折り曲げた両手をぶんぶん振って慌ただしく否定する姫野だが、喋っているうちに自分でも否定しきれない部分があることを自覚したのか、最後の方は疑問形になって俺に問うてきた。
「なんか、嫌な感じに生徒たちから迫られなかった?」
「う、ううん。大丈夫だよ……。私の周りの人たちには入るつもりはないって言ったら、わかってくれたし」
姫野は「それに」と言葉を続けた。
「わたし前から部活動か同好会には入ろうかなって思ってたんだよね……!」
空元気のように声を張り上げてそう言い放った姫野。
「そう、なんだ。ならまあ、ある意味ちょうど良いタイミングだったのか……?」
「う、うん……。今日色々なところ紹介された。大勢の人に囲まれて、ちょっと大変だったけど……」
姫野は曖昧な笑みを浮かべながら、やつれたように肩を落とした。
「そ、そっか……。でもそうなると、今月の合同説明会でどんなところに入りたいか吟味できるし、いい機会かもな」
その様子の姫野になんて声を掛けたら良いのかわからなくて、無理やり話題を逸らした。
すると姫野は沈んでいた顔を上げて、明るい表情をこちらに向けた。こうして表情がコロコロ変わるところをみると、割と感情豊かなタイプなのかもしれない。
「うん、そうだね。クラスの人たちも今回の説明会でどんな出し物しようか盛り上がってたし」
「今生徒会の方でも色々と動いてるよ。説明会の前にやらないといけないこともあるし」
「やらないといけないこと……?」
「ああ、まあ……色々と」
こうして話し込んでいると、気がつけば皿に半分残っている生姜焼きはもうすでに冷めており、白米は一塊に固まっていた。
時の流れというのは残酷だな。そう思いながら冷めた料理を口に運んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます