第5話 お隣の姫野さん

 日が沈んだ空にはうっすらと星が輝いて見えた。


 午後六時半までの最終下校時刻をゆうに超え、人っ子一人いない校門までの道のりを歩く。生徒会業務で忙しなく動いていると帰宅時間はいつもこのぐらいの時間になってしまう。


 会長の真鍋まなべさんはまだ生徒会室に居残って作業をしており、全生徒の完全下校時刻である午後八時前までには帰ると言っていた。


 三十分ほど電車に揺られた後、もうすっかり暗くなった夜の道を歩いていく。住宅街へ続くその道は、等間隔に設置された街頭が煌びやかに輝いていた。


 人数が揃ったことに対する安堵は束の間、しっかりと行事を遂行しなければいけないプレッシャーが、俺に重くのしかかってきた。


 真鍋さんにはいつでも自分たちを頼れと言われたが、他の生徒会役員は新入生たちのオリエンテーションに向けて準備しているため、それもそうはいかない。


 憂鬱とした気持ちでしばらくぼんやりと足を進めていると、いつの間にか自分の家に着いていた。


 玄関の鍵を開けて中に入り、真っ暗なリビングの明かりをつける。


 ひどく静まり返った部屋の沈黙を破るように、テーブルの椅子を大袈裟に引いて、ため息混じりに腰掛けた。眉間に微かな痛みを感じながら重い目を閉じて、背もたれに頭を預けながら今後のことについて考える。


 実行委員会の人数は揃ったが、立ち上げ後の進行の手引きなどを、もう一度確認して修正しなければいけない。なんせ七十以上の団体を六人で視察しなければならない。そのためには、効率の良いマニュアルを作成する必要がある。まずはそれから片付けるか。


 次にやることが決まったと同時に俺の腹が鳴った。


 のっそりと椅子から立ち上がり、キッチンスペースまで行って冷蔵庫を開ける。何か食べ物でもないかと覗いた冷蔵庫は、何が保蔵されているのかを一瞬で把握できるほどすっからかんだった。休日は生徒会の会議で潰れてしまったため、買い物をしている暇がなかった。


 後頭部をコツンコツンと小さく叩き、キッチンに収納しているカップ麺を手に取る。


 正直なところ腹は減ってはいるが食欲があるわけではない。なのでもう簡単に済ませてしまおうと、空のケトルに水を注いだ。


 そういえば、結城たち以外に実行委員会への参加を要請していた人たちは大丈夫だろうか。一応日中に連絡は入れてはいるが、急用などで参加できなくなったり、急に気が変わったりして抜けたりしないだろうか。


 まあ、そいつらは側から見ても暇人ではあるし、俺が貸した借りを返してもらう形での協力である以上、そう易々と無碍にはしないだろう。


 そんなことをぼんやりと考えながらほうけていると、ケトルの口から蒸気が出ていることに気がついた。


 カップ麺にお湯を注ぎ込み、リビングのテーブルまで持っていく。いつものようにしんとした空気が流れているリビングに、今日はなぜか物悲しさを感じた。


 テレビのリモコンを手に取り、電源を付けると人の笑い声が聞こえてきた。新鮮味に欠ける、ありきたりな内容のバラエティ番組。演者がウケを狙った発言をするたびに、大袈裟に反応する観客たち。作られた笑い声。後から付け足された笑い声。


「──ははっ……」


 こういう時に限って、いつもと変わらないものを見ると安心感が湧くのはどうしてなんだろう。ふとしたことで笑ってしまうのはなんでなんだろう。笑えるということは、まだ余裕があることらしい。


 とりあえず飯を食べ終えたらすぐに資料作成に移ろう。


 そう気を引き締めて、椅子に座って即席の麺がほぐれるのを待った。



──────────



 二階にある自分の部屋に行き、部屋の電気をつける。必要最低限の物しかない殺風景な部屋と、それに相反してぐちゃぐちゃな机。物が机上に密集していて、そこだけ異様な光景に見えた。


 机の上に散乱している書類に隠れているノートPCを引っ張り出して、その電源を入れ、脱いだブレザーをベッドの上に放り投げる。


 ネクタイを緩めて、スラックスの中に入っているシャツを無理くり取り出すと、今いるこの部屋に熱がこもっていることに気づいた。


 熱いものを食べて体温が上がったということもあるが、そもそも今日は例年に比べ気温が高く、初夏のような暖かさだった。


 外の空気を入れて涼もうと、部屋の換気をするために、閉め切っていたカーテンを開け放つと。


「…………えっ」


 そこには〝女神様〟がいた。


 〝女神様〟は無地のTシャツを着てラフな格好で窓から手を出して──


「──う、うわああぁぁぁ!!!」


 一瞬の沈黙の後、〝女神様〟は青ざめた表情で予想よりも可愛げのない叫び声を上げた。


 こういう時に限って、注意を怠っていつもはしないようなミスをするのはどうしてなんだろう。ほんの数時間前にお互いに気を配ろうと言っていたのに、もうこの有様である。


 あらぬ方向を見つめてあわあわしていた〝女神様〟は声をかけるまもなく、シャッとカーテンを勢いよく引いた。


「なんでこのタイミングで……引っ越して次の日にもう……」


 そんな声がカーテン越しに、施錠されている窓越しから聞こえた気がした。


 〝女神様〟は意外と声が大きいらしい。そんなどうでもいいことを思い浮かべながら、これからの身の振り方を考え始めた。



──────────



 このまま明日までこの件を引き延ばすとややこしいことになるかもしれない。かといって下手に動けば被害が拡大するかもしれない。


 とりあえず、詫びの一つぐらいは入れたほうがいいだろう。隣人としての挨拶も兼ねて、〝女神様〟と直々に話をしよう。そう思い、ドアノブを下げて部屋を出て行こうとした時だった。


「あ、あのー……」


 窓の外から誰かを呼ぶような声が聞こえてきた。その声はシーンと静まり返ったこの部屋でいやに鮮明に響いた。


 状況からしてその声の主は〝女神様〟だろう。しかし、事が事だけに少々警戒してしまう。


「……あのー」


 さっきより声量を上げて、また人を呼ぶ声が聞こえてきた。さすがに次は大丈夫だろうと意を決してカーテンと窓を開ける。


 案の定そこには、〝女神様〟がいて、カーテンを被るように窓から身体を出していた。まるで自分の部屋を見られたくないように。


 いきなり現れた俺に一瞬たじろぐように声を上げた〝女神様〟は、さらに喉から搾り出すように声を出す。


「ご、こめん……! さ、さっきはその……いきなり……」


「いや……、俺も不注意だった。少しぼーっとしてて」


「う、ううん……わたしも気が抜けてたかなって……」


 俺たちは互いの非を認めるように謝罪し合うと、〝女神様〟が羽織っているパーカーの袖を弄りながら、他にもなにか言いたげに口籠る。


「……ごめん。とりあえず、部屋のカーテンはしばらく開けないようにする」


 言葉を遮るようにそう言うと、〝女神様〟はそれに続くように慎重に言葉を話す。


「あ……わ、わたしもそうする……! でも……しばらくはこういうの、続きそうだね……」


「慣れるまではそうかもね」


「お、同じタイミングで家出たり、とかすると、ちょっと気まずいよね……。学校行く時とかばったり会っちゃったりしても……」


「まあ、そりゃ……」


 そこまで言って押し黙ってしまう。正直俺も両親もこの家には寝に帰るだけだし、そもそも近所で遭遇するほうが珍しいような気がする。だから〝女神様〟が危惧しているようなことは杞憂でしかないとは思うのだが。


「で、でも隣の人が知ってる人でよかったかな……この町にも慣れていかないといけないし」


 何かを取り繕うようにそう言う〝女神様〟。今までの用心深いところを見るに、むしろ赤の他人のほうが〝女神様〟にとって都合が良かったのではないだろうか。まあ、それは俺にも言えることではあると思うけど。


「知ってるって言っても、まともに話したの今日が初めてだけどね」


「……それでも、同じ学園の人でよかった……かも……」


「…………」


 ……なんとなくだが、〝女神様〟の思惑というか思考が分かった気がする。彼女は確信が欲しいのだろう。隣人に危険性がないことを証明する言葉を求めているのだろう。


 視線を泳がせながらぽつぽつと喋り続ける〝女神様〟は、自分に言い聞かせるように言葉を吐き出す。


「そ、それにいつも学園の人たちのために色々とやってくれてるし、悪い人じゃないよね……」


「悪い人の自覚はないけど……でも気まずいとは思ってるよ。真隣の部屋に女性が住んでるんだから」


「そ、そうだよね……」


 俺の言葉に縋るように、笑っているのか困っているのかわからない、曖昧な笑みを浮かべて相槌を打つ〝女神様〟。その様は〝女神〟とは到底言えず、俺と同じ一人の人間に思えた。


「──そうだよな……」


「……えっ?」


 学園の生徒たちからの評判を考え、自身の私生活も円滑に進めるために、身の保身をすることは当然のことだ。だから俺は〝女神様〟が欲している言葉を言わなければいけない。


「……学園でも言ったと思うけどさ、別に〝女神様〟とお近づきになろうとか、微塵も考えてないから」


「…………」


 〝女神様〟は定まっていなかった瞳をこちらに向けて、俺をじっと見つめている。


「俺は隣に誰が引っ越してこようが、自分の生活サイクルを変えようとは思わないし、正直今はそんなのにいちいち気にしてる暇なんてないし」


 無意識のうちに語気が強くなっていることに気がついて、一旦言葉を区切って、柔らかく話すように心がける。


「校内での知名度とか、見知らぬ町で生活することの焦りとか、色々理解できるから、焦らずにゆっくりこの町に慣れていけば良いと思うよ」


 なんのフォローになっているのわからないような、誰を気遣っているのかわからないような言葉を吐き捨てた。でもこれで充分だと思った。


 その証拠に〝女神様〟はやっと安らぎを得たように、憑き物が取れたように、晴れやかな笑顔を浮かべて頭を縦に振った。


「……それじゃあ、これからよろしくね。佐竹さたけくん」


「……こちらこそよろしく。姫野ひめのさん」


 〝姫野〟は最後にニコリと〝女神〟のように微笑んだ。


 この日惜しくも俺は、〝女神様〟に親近感を覚えてしまった。俺と同じ人間なのだと安心してしまった。


 〝女神様〟のほんの一部にさえ触れなければ、自分の醜さに再び思い悩むことなんてなかったのに。


 自分が掲げる理想を、理想のまま押し留めていられたのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る