第4話 自分だけがゲームの世界に居る

「場所は?」


 Sの出動要請から間髪を入れずに茶髪の男がそう聞いた。心なしかその言葉には余裕が感じられず、先ほどまでの温厚な雰囲気はもう無い。それは周りも同じようで、座って会話をしていた人達も、一斉に立ち上がってSの情報を待っている。

 ……どうやら未だ迷いを持っているのは自分だけのようだ。


「東京都庁舎付近と、国会議事堂前だ」


「数は?」


「前者3。後者14。合わせて17だ」


「じゅ、17!?」


 突然と言っていいだろう。Sによると、いきなり大量の怪人が現れたようだ。転化というのは、こんなにも同時に起こり得るものなのだろうか?

 今朝の自分は、あの怪人1体を相手にしただけで死にかけた。それが17体……今は自分の他にも戦える人間が居るが、それでも約3倍もの敵が居る。下手をすれば、今朝の戦闘よりも苦戦を強いられるかもしれない。……もしかしたら、死ん――。


「俺は議事堂に行く」


 不吉な想像をしていた自分は、力強いその台詞に正気を取り戻す。こんな状況でも茶髪の男は冷静さを失っていないようだ。……全く羨ましい限りである。


「これを付けろ。情報は私が伝える」


 Sがそう言うと、テレビの砂嵐の画面からインカムのような物が出て来た。ご丁寧に人数分が用意されており、急いで拾い始める周りの動きに釣られ、自分もそれを拾うと直ぐに身に着けた。

 耳にインカムを嵌めた途端、ピー、というモスキート音のような音が流れたと思うと、今度はSの声が聞こえてくる。


「既に、警備に当たっていた警察等の犠牲者が出ている。急いだ方がいい」



 ――ドゴォン!!


 突然、目の前に大きな光の柱が現れた。轟音と共に出現したそれが段々と消えていくと、中からアメリカンコミックに出てきそうなヒーローが姿を現わした。体のラインに沿った赤色のコスチュームが筋骨隆々な体を強調している。

 マスクで顔は見えないが、見覚えのある茶髪が目に付いた。


「先に行っている」


 茶髪の男はそれだけ言うと、凄まじい速度で飛翔した。間違いなく、テレビで見た空を飛ぶ超人は彼だろう。


「はぁ、バイクとか無いんだもんなぁ」


 そうぼやいた少年は、遊園地の出口の方へ向かって走っていった。……何かこう、変身のようなものは無かったが、まさか徒歩で現場まで向かうのだろうか?


「行くぞ、ココア」


「うん」


 不良の男とその妹が、少し開けた場所まで歩いていく。

 勿体ぶった行動に思わずその様子を目で追っていくと、不良の男に厄介者を追い返すような感じで手を払われた。


「危ねえから離れとけ! ……よし、やるぞ」


 不良の男がそう言うと、妹が手を差し出し、男がその手を取った。

 すると2人の体が光に包まれ、段々とそのシルエットを大きくしていく。正確には不良の男の体が大きくなっていくように見えた。


 ……そうして不良の男は巨人に変身した。目測で30メートルはありそうなその巨体からは、全体的にロボットのような無機質さを感じる。特徴的なのは、まるで鳥をモチーフにしたような頭部と、胸の真ん中に光るひし形の物体だ。そういえば、妹の方の姿が見えない。もしかして、2人で1人みたいな話なのだろうか。


「ウオォォオオオオオ!!!」


 その巨人が雄たけびを上げると、背中から翼のような物が生えて来た。巨人が強風を起こしながらその翼をはためかせると、段々とその巨体が宙に浮き始める。

 一際大きな風を起こし、巨人はそのまま街の方へ飛んでいく。その光景を目に焼き付けた自分は唖然としていた。感動を覚えてしまうほど、凄まじい迫力だったのだ。


「夏代遊来、君も早く現場に向かえ」


 Sにそう言われ、呆然自失気味だった意識がハッと覚醒する。

 気が付けば、取り残されたのは自分ひとりだった。もう既に現場へ向かったのか金髪女子の姿が見当たらない。

 もはや躊躇していられないと自分も変身しようとする。……そういえば、先ほどは元に戻れたと喜んでいたが、いざ戦うとなると変身のコマンドが分からない。冷静にそんな事を考え、段々と不味い事態なのでは、と焦り始めた。


 いや、とりあえず変身した所で移動手段は無い。ひとまずは走りながらコマンドを試していくしかないだろう。……さっきは少年が徒歩で向かうのに驚いていたが、よくよく考えれば自分も全く同じだった。今後、移動手段は何か必要になるだろうし、色々と考えておかねば。


「行ってきます」


 焦っていたのか、自然と自分の口からそんな言葉が出て来た。まるで家を出る時のような声掛けに誰よりも自分が驚き、一瞬で羞恥心が沸き上がる。学校の先生を母親と間違えた時のような恥ずかしさに、自分は急いでその場を離れた。

 Sからの返事は無かった。しかし、まるで呆れられているように感じたのは、気のせいだと思いたい。



「変身、はぁ、スタート、はぁ、パワーオン、はぁ、起動、はぁ」


 そんな言葉を口にしながら自分は必死に山の道を駆け下りる。車が滅多に通らないアスファルトの上は走りやすいが、こんなものでは到底、現場に間に合わない。

 やはり変身状態でないと、あの身体能力は手に入らないらしい。久しぶりにも感じる自分の運動不足な体に嫌気が差してしまう。馴染みある体の筈なのに、体調不良を疑ってしまいそうだ。


「――はぁ、はぁ、コンテ、ニュー……!」


 息が尽きかけた時、ようやく当たりを引いた。

 コンテニュー、と自分が口にすると、見覚えのある青いパーティクルが自分の体に集まり始め、もはや見慣れた黒い服が身に着くと、最後にヘルメットが形成された。

 そして少し懸念のあったインカムは、身に着けていた制服とは判定が違うのかそのまま耳に残っている。恐らく、頭部のヘルメットの障害にならなかったのが影響しているのだろう。


 ようやく本調子を取り戻した自分は、走る足を加速させた。ヒーローについて未だ決心が着いてないが、正直、この身体能力は惜しいと感じてしまう。流石に虫のいい話が過ぎるだろうか。

 だが、それでも現場までは遠く感じてしまう。……道のりを走っていては駄目だ。方向感覚を失う恐れが大いにあるが、目的地が分かっている以上、木々の間をすり抜けて行った方がいいだろう。もし迷ったらSから指示が入る筈だ。


 そうして森に入った自分の耳に、インカムから声が入る。


「現場急行中、失礼します。兄が、どうして一度に複数の転化が起こるのか質問したいみたいです」


「? 自分の口で言えないわけ?」


「その、変身すると身につけていた物が無くなるみたいで……それにその、喋ったりも難しいみたいです」


「ふーん……まあ、妹の方が意思疎通できるなら問題ないか」


 不良の妹と金髪女子の会話が耳に流れて来る。このインカムは全員と通信が出来るみたいだ。てっきりSからの報告をひたすらに受け取る物だと認識していたもので、驚きで少し体がビクッと震えた。


「それには2つ理由がある。一つ、生物兵器による影響が現れ始めたばかりの為。一つ、その現場に大勢の人間が集中していた為」


 不良の男の代弁をした妹の質問に、Sが簡潔に答えを返す。

 ひとつ目は何となく理解できる。初めての転化は今朝起きたばかりだ。心底嬉しくない話だが、これからもっと多くの転化が波のように襲ってくるのだろう。

 ふたつ目に関しては……何故だろう。これだけの大事だし、不安に駆られた政治家が多かったのだろうか?


「なぜ議事堂と都庁なんだ?」


「今回の事態を受け、政府の陰謀を疑う民間人によるデモがあったみたいだ。現場の様子を窺うに、精神的に不安定な人間が転化を起こしたものとみられる」


 デモか……特に珍しいものでは無いが、確かに例の生物兵器とは相性が悪そうだ。不満のある人間の集まりで、中には攻撃的な姿勢を見せる人達も居るだろう。現場の様子を見たわけでは無いが、話を聞く限り、あまり気分が良いものでは無さそうだ。


「提案がある。今のうちに自己紹介をしておきたい」


 そう言ったのは茶髪の男だった。その言葉の意味が脳に到達するまで多少のラグを感じる。……自分は、そこで初めて名前を名乗っていなかった事に気が付いた。

 言われてみれば、先ほど広場で話していた時も、誰かの名前らしい単語は出てきていなかった。遅く到達した自分が居ない内に、皆で名乗り合いを済ませているだろうと思っていた……いや、そんな考えは無かったな。単純に自己紹介というイベントが頭から抜け落ちていた。コミュ障の自分の頭では考え付かなかったのである。


「俺は獅子堂ししどう正尋まさひろだ。不測の事態に備えて連携が取れるようにしておきたい」


 そう理由を付けて、獅子堂正尋は名を明かした。自分からは聞けない性質なので、正直ものすごく助かる。

 すると、続々と簡潔な自己紹介が始まった。


「えっと、私は鳥畑とりはた心愛ここあで、兄はらいと、と申します。あっ苗字は一緒です」


「俺は真野まの大護だいごです! あー趣味はヒーロー番組を見る事です!」


「……保坂ほさか水緒みおです」


 鳥畑兄妹に真野くん、と保坂さん……よし覚えた、よな?

 コミュ障は気を抜くとすぐに人の名前を忘れてしまう為、少し意識して人の名前を呼ぶ必要がある。でも許してほしい。碌に人との付き合いが無いのだ。

 ……ただの自己紹介だぞ、自分。大したことは無い。とっとと終わらせるんだ。


「え、と……夏代遊来、です」


 そう言って自分は自己紹介を終えた。

 少しぎこちなかったが及第点だろう。思ったより緊張はしたが、周りの反応を窺うに、そこまで変な事は言っていない筈だ。

 ……もっと堂々と話せるようにならないとな。


 そんな事を考えながら森を駆け下りていくと、街に近づいているのか公道が散見するようになって来た。

 それに伴ってか、人影らしきものが目に映る。未だ山の中ではあるが、流石に人の気配が増えて来た。乗用車ならまだしも、歩いている人間相手となると、こちらの姿を見られるリスクが高い。Sが居る廃遊園地の特定に繋がってしまうだろうし、接触は控えたい。


「カメレオン」


 民間人が自分の方へ目を向ける。しかし、こちらに気付いた様子は無く、そのまま素通りして行った。音も発生していないし、問題なく作動しているようである。

 今の所これといったデメリットは感じられないし、これからは最初から使っておくようにした方がいいかもしれない。


 ……いや、こんな事を考えている暇は無かった。

 ここから議事堂のある千代田区まで一体どれほどの距離があるのだろうか? 都庁の新宿区までは? ……詳しい距離は分からないが、まだ半分も移動できていないだろう。


 ……ここで有用なスキルが手に入ったりしないだろうか。

 そんな奇跡を一心に望みながら、全力で現場へと向かった。



「……! ……! ……!」


 吐いた息に音は無い。だが無音なのが不自然なほど、自分の呼吸が乱れているのが分かる。間違いなく体力も超人並みになっているが、それでもこの距離を全力疾走は流石に骨が折れる。

 毎度毎度この調子ではヒーローどころではない。こんな思いはもう二度と御免だ。今すぐにでも本格的に移動手段を考えなくては。


 だが、その疲労の甲斐あってか、大した時間をかけずに目的地までたどり着けた筈だ。間違いなく最速記録を叩き出していた。……時間にして30分といった所か。

 車より速かった自負がある。だが人助けを前提にするならば、大遅刻もいいところだろう。……あの廃遊園地を拠点に活動すると考えると、どう足掻いても不便すぎるとしか思えない。


 既に事態が収束しつつある現場を見て、無気力ながらそう思った。


「はぁ……」


 そう息を吐いたのは、怪人らしき異形にトドメを刺した青い魔法少女だった。

 テレビで見たその後ろ姿には覚えがあり、あそこに居たメンバーから考えると……彼女は保坂で間違いないだろう。

 特徴的だった金髪は水色に染まり、目元は華やかな仮面で隠れている。手に握られた魔法の杖らしき物の先端には、色褪せた血のような物が滴っている。……まさかとは思うが、あれはただの鈍器なのだろうか。


「いやぁあ!!」


「シャー!」


 突然の悲鳴に目を向けると、道の端で敵に襲われている民間人の姿が目に入った。

 現場はかなり落ち着いていると思っていたが、まだ生き残りが居るらしい。


「!」


「ジャ!」


 透明状態からの奇襲に成功した。すると自分の体が輪郭を帯び始める。

 間違いない。透明化の解除方法、というより条件は、ゲームで言う所の通常攻撃だ。恐らく、透明化の時間制限が無い代わりに一方的な戦闘が出来ない、そんなステルスアクションゲームに似た仕様なのだろう。もしかしたら他に解除方法があるのかもしれないが、これならほとんど問題なく使える。


 尻もちをついていた女性が逃げていくのを横目で見ながら、自分は警戒を怠らず、相手の前に立ち塞がった。


「シャ、ァ!!」


 不意の一撃を喰らった相手が、こちらを睨みつけて来た。威嚇のような声を上げるが、何故か立ち上がろうとする様子は無い。

 そうして相手の風貌をまじまじと見つめると、それが怪人では無く、あのゾンビもどきのような敵である事に気が付いた。当たり前なのかもしれないが、以前見たものとは姿が全然違う。

 怪人ほどの力がある相手ではないので、そのままトドメを……。

 そこまで考えたところで、この人達も元は人間である事を思い出した。今朝はある種の狂気に駆られ、躊躇などしなかったが、今は抵抗感を覚えてしまう。


 しかし、自分に出来る事は何もない。このまま放置してしまえば、これからも他の人を襲ってしまうのだろう。

 これは遊びじゃない。ましてやゲームでもない。今朝の狂気がどれだけ罪深い事か今になって理解した。……もはや覚悟するかどうかの話では無く、そんな選択肢は自分に無かったのだ。


 覚悟があろうが無かろうが、自分はこの業を背負わなければならない。


「……ごめんなさい」


 自分は心からの謝罪を口にし、その命を奪った。



「あんた何やってんの?」


 少し意気消沈している所に声を掛けられた。振り返ると、仮面の上からでも分かるほどの顰め面を浮かべた保坂が居た。何故かは分からないが、ご立腹のようである。


「は、はい?」


「来るの遅いわ、無線にも反応しないわ、やる気あんの?」


 ……怒られてしまった。確かに到着までかなりの時間をかけてしまったが、こっちはベストを尽くしたつもりだ。……言い訳でしかないのは分かっている。だがこうも面と向かってダメ出しされると流石にへこむ。もうちょっと、こう、何か手心みたいなものを頂けたりしないだろうか……。……無理、か。

 ……あれ? 無線? 今一度、相手が言っていた言葉を思い出し、身に覚えのない指摘に疑問を抱く。


「あの、遅れたのはすいません……けど、無線って何のことですか?」


「?? 無線はあんたも聞いてるでしょ? 何で反応しなかったの?」


「……?」


 無線、というのはこのインカムの事だろう。それ以外は考えられない。

 だが思い当たる節は無い。自己紹介を終えた後、連絡どころか、誰も何一つ話などしていなかった筈だ。急いでいたとはいえ、流石の自分でも聞き逃すとは思えない。

 ……あ。もしかして、カメレオンのせいだろうか。自分から発する音を消す能力があるが、もしかしたら身に着けていたインカムの音まで消すのかもしれない。


「す、すいません。心当たりありました。ここまで来るのに透明になってたんですけど、それのせいかもしれないです」


「透明? ……何でもいいけど、とりあえずそれ禁止。分かった?」


「は、はぃ」


 始まって早々、上下関係が形成されつつある。やはりというべきか、ここでも自分の立ち位置は下の方が向いているようだ。……こういうのには慣れている筈だが、涙が出てきそうで逆に笑える。

 しかし遅れた分は取り返さないといけない。まずは状況を把握しなければ。


「すいません、無線が聞こえてませんでした。今どうなってますか?」


「……到着はしたみたいだな。こっちはもう少しで終わる」


 返って来たのは獅子堂の声。いつから戦い始めているのかは分からないが、そろそろ決着が着く頃合いのようだ。

 遅刻した分際で厚かましいかもしれないが、今回は何事も無く終わりそうで、ひとまず安心した。


「ほら、突っ立ってないでこっちも終わらせるよ」


 保坂の声に釣られ、辺りを見回す。すると例のゾンビのような敵がうじゃうじゃと居る事に気が付いた。まだこんなに居たのかと驚いてしまう。ただそこら辺を彷徨っている彼らは、ほとんどが同じ姿形をしており、一見……3種類に分類できそうなほど個性が無い。

 結局この敵は一体何なのだろうか? これも怪人なのか?


「この人達も、怪人に変わっちゃった人達なんですかね」


「……あーそっか。あんた聞いてなかったと思うけど、さっきアイツがまた偉そうに説明してたよ。何だっけ……転化の要因? が転化後の怪人に対する恐怖とかだと、こういう反応を起こすみたい」


「……怪人とは別、って事ですか?」


「らしいよ。怪人の手下になった雑魚ってところじゃない? 親玉が死んでから碌に動こうとしないし、怪人の操り人形みたいなもんでしょ」


「ざ、雑魚って……」


「……何? 文句?」


 ……やらかしてしまった。自然と会話を始めた時に限って、自分はこういう地雷を踏んでしまう。思わず口に出てしまった言葉に、保坂は不機嫌そうに反応を示した。

 だが、本心は本心。もう助からないとはいえ、元は人間である人達に向かって雑魚呼ばわりは、ただ聞いている身としても、あまり気分がいいものでは無い。……今朝の自分の行動の事もある。もうあんな思考に戻ってはいけない。


「……この人達も元は同じ人間じゃないですか。好きでこうなった訳でもないのに、そんな扱いだと……俺は不謹慎だと思います」


「……はぁぁぁぁ」


 自分はマトモな事を言ったつもりだが、保坂は心底呆れたと言わんばかりに大きな溜め息を吐いた。

 その様子を見て自分は眉間に皺を寄せる。自他ともにコミュ障であると認めている自分は、普段から的を得ない発言をする事が多い。だが、こればかりは自分が正しいという確信がある。

 この女、人の命を何だと思っているのだろうか? 怒りまで込み上げてきそうだ。


「あんた委員長タイプなの? ただの陰キャだと思ってたわ」


「……自分の被害者への態度、何もおかしいと思わないんですか?」


「チッ、うっさ」


 自分にしては、かなり踏み込んだ発言をした。しかし、その言葉は保坂に届かず、ただうるさいと一蹴される。……納得がいかない。


「っ、何様の――」


「!! ちょ、邪魔!!」


 突然、自分は保坂に突き飛ばされ、尻もちをついた。すると先ほど自分が居た場所に、敵の影が勢いよく通り過ぎる。

 ……思っていたよりも、自分は頭に血が上っていたらしい。ここまで周りが見えなくなるとは想定外だった。責め立てようとしていた相手に命を救われ、深い負い目が胸に突き刺さる。

 だが、そうだ。これは自分が悪い。今は話をしている場合では――。


「――あんたみたいな偽善者、大嫌い」


 戦おうと立ち上がった自分に、保坂の冷たい目が注がれた。抱えた怒りが急激に冷めていくのを感じ、思わず冷や汗をかいてしまう。


「あんたにはが、人間に見えるの?」


 そう言って保坂は転んだ敵を踏みつけた。彼女の靴の裏にある敵の頭からミシミシと嫌な音が響き、目を瞑ってしまいそうになる。

 だが、自分は目を離してはいけないと思った。自分は何か、これから大切なものを学ばなければならない。そんな使命感に駆られた。


「あんたが被害者だと言ってるコイツらが、別の被害者を生むの。じゃあ何? あんたはこの人達をどうすんの? 元に戻せる? ……無理でしょ。どうせ殺すしかないのに、善とか悪とか気にしてる場合? ……あぁ、とかの話、本気にしてるわけね」


 保坂はそう言い、持っていた杖を敵の胸に突き刺した。赤い血が飛び散り、敵は声を上げずに絶命した。……普通に考えれば惨い死に方だ。

 だが、自分も似たような形でこの人達を殺す。……それは間違いない。


「あんたの意味わからないその躊躇で人が死ぬ。この人達はもう人間じゃない。……別に私も、わざと雑魚って貶そうとしてるんじゃない。コイツらより、今生きてる人の方が大切ってだけ。それをいちいち指摘してっ……! ……はぁ、ちょーうざい。時間の無駄だわ、あんた」


 急に興味を失ったように、保坂は背を向けた。……きっと、もう自分が何も言えない事を悟ったのだろう。彼女は彷徨う敵の方へ歩き出す。


 彼女の主張が正しいとは思えない。だが……間違ってはいないと思ってしまった。

 きっと考え方次第なのだ。正義なんて人それぞれだし、保坂が過ちを犯したわけでもない。自分と、彼女とで価値観が違うんだ。


 ……自分には我が無い。学校生活でもそうだった。言われた事をただやるだけ。

 だからだと思う。自分の考えに自信が持てないのは。保坂と自分が違うだけだと頭では分かっているのに、自分が間違っているという考えが沸々と湧き上がる。

 自分は嫌々、このをしようとしている。……本当に、それでいいのだろうか?


「……親切心から言うけど、向いてないと思うよ」


 誰に、とか、何に、とかそういう言葉は無かったが……保坂のその言葉は自分に向けられたものであり……それがこの戦いについての事だとは、流石の自分でも想像がついた。



「――緊急連絡。君達が居る現場付近で更に転化が確認された。現在、23体」


 空っぽになってしまった自分の脳に、Sからの報告が虚しく響いた。

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