第3話
王太子の部下であり、本日は公爵家の侍女に扮した女性は少し渋りながらも会話が聞こえない距離まで下がった。
エルシャはそれを見てホッとしてグラスに口をつける。
「美味しいです」
この前ラッパ飲みしたというワインよりも甘くて美味しい。エルシャにはワインはまだ早かったようだ。まだまだ舌がお子ちゃまである。
「お菓子とも合うのよ。ぜひ召し上がってね」
バクスター公爵夫人はすぐに話を切り出さず、タルトなどのお菓子を勧めてくる。
エルシャは勧められた通りにお菓子を食べながら、バクスター公爵夫人を観察した。エルシャが知っている公爵夫人は義母だ。年齢が違うからということもあるが、バクスター公爵夫人と義母は全然違う。義母や他の公爵夫人は立っているだけで近寄りがたい雰囲気が出ているものだ。家での義母は違うが、お茶会や夜会では義母はそのような雰囲気なのだ。
しかし、バクスター公爵夫人にはそれがない。エルシャにもその気品や威厳のようなものがないから、舐められて突っかかられるのだろう。
そういえば、バクスター公爵夫人は男爵家の出身だと夫が言っていなかったか。エルシャは貧乏伯爵家出身である、そこから公爵家に嫁いだ。伯爵家から嫁ぐのも大変なのに、男爵家からである。さらに大変だっただろう。第二王子だった王弟の元々の婚約を解消してからの恋愛結婚なら余計に。だって、おいそれと離婚できない。
エルシャでもうっかりバクスター公爵夫人に親近感をこの瞬間に感じた。
まさか、この夫人。エルシャにシンパシーを感じてくれているのではないだろうか。可哀想なものを見る目で見られていることだし。
今も夫人は、エルシャがお菓子を食べるのを満足そうに見ている。彼女はわずかしか手を付けていないのに、まるで自分が美味しいものを食べているように。
エルシャはピーンと天啓のようなものを得た。
エルシャは今まで伯爵家ではこんな目で弟妹たちを見ていたに違いない。「なんで私はいつも一人分を食べられないの」とか「なんで私ばっかりいつも譲らなきゃいけないの」と心の奥底で思いながらも、弟妹たちが嬉しそうに食べるのを見るとこちらまで胸とお腹がいっぱいになったものだ。
それならば、エルシャがここで言うべきセリフは一つである。
「こんなに美味しいお菓子は初めて食べました」
「喜んでもらえて良かったわ」
夫人は本当に嬉しそうに笑った。そして会話がまた始まった。
「公爵家に嫁いでから大変だったでしょう」
「覚えることが多くて。お付き合いも格段に多いです。何より規模が違って」
「そうね、実家とは違うもの。カニンガム公爵夫人は……伯爵家のご出身だったわね」
はい、貧乏伯爵家ですね。
「援助と引き換えに女性嫌いの公爵に嫁いだともっぱらのウワサだけど」
夜会でのあの態度を見ていれば、契約結婚の書類が流出していなくてもそのくらいはバレるだろう。誰でも、何で結婚したん? 嫌々ですか? と言いたくなる態度だったもの。まさかその裏に遠ざけて守ろうとする気持ちが隠れていたなんて知らなかった。
「バクスター公爵夫人は大恋愛の末のご結婚だったとお聞きしました。羨ましいです。私はそんなことはなかったので」
曖昧な言葉で濁しておく。でも、伝わるだろう。だって、バクスター公爵夫人にとってエルシャはとっても可哀想な人なのだ。エルシャだって、必死で夫の悪口を言わないように健気に返事をする女性を見ていたらきっと同情する……おっと、なんだか想像して泣きそうになってしまった。
「恋愛結婚なんてね、もって三年よ」
おおぅ……そんな世界の真実をおっしゃっては……。バクスター公爵夫人はエルシャにさらにお菓子を勧めながら遠い目をする。
「あの頃は良かったわ」
皆さん、きっとそうおっしゃいます。エルシャだけは新婚当初ではなく、今のほうがいいけれど。
「最初は世界のすべてが輝いて見えた。この人と一緒なら何だって乗り越えられると思った。でも、現実は厳しいわ。男爵令嬢が王弟に嫁ぐなんて、どうして前例がほとんどないのか立ち止まって考えてみなければいけなかったのよ」
その声は切実さと悲しみに満ちていて、エルシャは思わず俯いた。
会ったばかりのエルシャにこんなことを言うなんて、よほど大変なのか。それともよほどエルシャが自分と重なったのか。何か魂胆があるのか。
「義母には蔑まれるし、社交の場でも笑いものにされる。最初は庇ってくれた夫もだんだん他の女にかまけに行く。そういえば、カニンガム公爵夫人を階段から突き落としたのはうちと関係のあるご令嬢だったわ。あの時は本当にごめんなさい。関係したご令嬢はもう他国に嫁いだから会うことはないわ」
ご令嬢がそんなことになっていたとは。エルシャは高速で瞬きをした。
「あなたを見ると、昔の自分を思い出すようだわ。夫も最初は庇ってくれたのに、今ではもう恥をこれ以上晒すなという態度よ」
やっぱりシンパシーだった。
エルシャは契約結婚なのでスタートは全く違うのだが、バクスター公爵夫人はそのあたりは気にしていないらしい。
夫と恋愛結婚……考えてみてエルシャはあり得ないなと思った。まず、公爵である夫と出会う場がない。ドレスがないからエルシャはほぼパーティーに行けなかった。夫は女性嫌いでトラウマと秘密持ちなのだから、そもそも恋愛なんてしないだろうし。
こう考えると、夫とは実家が貧乏でないと出会わなかったのだ。女性嫌いでお金のある夫と貧乏伯爵家のエルシャ。本来ならあり得ない組み合わせだ。さらに言えば、夫の秘密が少しでも欠けていたらエルシャとは結婚していなかっただろう。
そこまで考えて、確率の計算なんてできないけれどエルシャはちょっと感動して涙ぐんだ。夫とエルシャが出会ってさらに結婚したのは凄い確率だ、多分。誰か計算して出してほしい。エルシャの白すぎた結婚はまさかの奇跡のような数字だった。
「泣かないでちょうだい」
しまった、バクスター公爵夫人の前で感動して泣いてしまったらしい。
エルシャが出すよりも早く、綺麗でいい香りのするハンカチを渡される。どことなくバラの香りが漂った。彼女はとてもいい人だ。結婚して苦労して、愛されなくて傷ついているだけ。内通なんてしているわけがない。
「もう夫は以前のように私を愛してくれることはないの。それなのに支配はしてくるのよ。どうしてかしらね。自分の方が上だと言いたいのかしら」
「あの……それはバクスター公爵夫人を守るためでは……?」
夫はそうだった。外出禁止も何もかもエルシャを守るためだった。
離婚なんてことも言われたけど……思い返せばきつい言葉を口にした時、夫はいつも苦し気な表情をしていた。最初は厳しい表情にしか見えなかったけれど。
「それはないわ。あり得ない。だってあの人、娼館にお気に入りがいるのよ。足繫く通っているわ」
夫人は冷たい声を出す。そういえば夫がそんなことを言っていた。娼館に張り込んだんだっけ? もし、夫が娼館に定期的に行ったらどうだろうか。そこにお気に入りの方がいたら? そう考えてエルシャの心は軋んだ。ちょっとばかり痛くもあった。渡されたハンカチでもう一度涙を拭く。
「あなたもきっと将来、私みたいになるわ」
なるほど、バクスター公爵夫人の心がほんの少し見えた気がした。みっともなく取り乱すことはなく、淡々としているがここまでエルシャに語るなんて。
「夫人はあまり外出されないのですか? パーティーでもあまりお会いしませんね?」
「えぇ、夫が嫌な顔をするから。それに、あんな場所に行くくらいならバラの世話をしている方が楽しいもの」
ちょっと悲しくなってきたので、話題を変えてみた。しかし、夫人は外出もしていないようだ。さすがにこの家で誰かと会えば張り込んでいて分かるはずだし……やっぱり内通は他の貴族ではないだろうか? それか王弟の側近? 重要な情報に触れられる人は限られる。
エルシャもさすがにバクスター公爵夫人に同情してしまった。まず、恋愛結婚が良くない。最初に盛り上がってあとは下がっていくだけ。熱愛からの冷遇だなんて酷すぎる。
エルシャの場合は義母にも使用人たちにも恵まれたから、夫の秘密を知るまでに二年も耐えられたのだ。でも、夫から冷遇されるのは堪えた。思い出したら泣けてくる。あの時よく頑張った、エルシャ。
「カニンガム公爵夫人はとてもいい方ね。でも、あなたも我慢する必要はないのよ?」
エルシャがハンカチで涙を拭っていると、彼女は優し気に話しかけてくる。
「我慢?」
「えぇ、どの夜会でも仮面夫婦のように過ごしていらっしゃるでしょう。最初だけエスコートをして後は放置。それなのに、お茶会にも飲酒にも夫の許可がいるだなんて。あんまりだわ。あなたは洗脳されているのよ」
酒とお茶会についてはエルシャが悪い。特に酒。
「すべて殿方が悪いのに、どうして妻の方が悪く言われて見下されなければいけないのかしらね」
「それは……」
そういえば、あれって何でですかね?
「あんな夫ならもう要らないと思わない?」
なんだか、話が不味い方向に行きましたね。エルシャは「要らない?」と首を傾げた。
「でも、離婚は困りますから……出戻っても新しい嫁ぎ先なんてないですし」
「カニンガム公爵夫人はお金が心配なんでしょう?」
バレてる。お金のために結婚したとバレバレである。
「私が何とかできるわ」
そんなバナナ? なんだか話がどんどん不味い方向に転がっていく。
「ど、どうやって……そんなお金を」
気になってうっかり聞いてしまった。もしかして新種のバラでも売るのですか?
「簡単よ。情報を売るの。あなたもカニンガム公爵家の情報を持っていけば、お金くらい簡単に用意してもらえるわ」
内通してたよ、この人。もしかして、内通って分かっていない?
「でも……そんな大切な情報なんて私は知らされてなど……」
「簡単だわ。執務室に忍び込んで見ればいいのよ」
さっきまで夫人にシンパシーを感じていたが、もう跡形もなく消え去っていた。
「そして違う国で暮らせばいいわ。そのくらいのことは用意してもらえるもの。私に言ってくれれば繋ぐわ」
やっぱり、この人は内通していた。囁き声ではあったが、バラの説明をするように自然にスラスラと口にした。何にも悪いことだと思っていないように。
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