第6話

 リチャードが手紙を持ってリヒターの執務室に戻って来た。


「お一人で読まれた方がいいかと思います。どうやら伯爵家のお茶会でおかしなことがあったようで」

「母は何も言っていなかったが……」

「奥様がお一人の時に起きたようです」


 あの書類上の妻はなぜこうもいろいろ引き当てるのか。今日のお茶会を主催した伯爵家の夫人はとても正義感が強いから、彼女の前では何も事件は起こらないだろうに。それに王弟派閥の人間はいなかったはずだ。


 リチャードはリヒターの机に妻からの手紙を置くと、補佐官たちに部屋の外へ出るように促している。


 早く読んだ方がいいのだろう。離婚書類だって妻に確認してもらわなければいけないのに、一向に準備が進まない。以前よりも忙しくはないはずなのに、なぜか離婚書類だけは遅々として準備ができない。どうしてか手が止まる。忙しすぎたせいだろうか。


 もう、王太子には王弟は関与していないと報告してしまおうか。

 王弟は娼館に通っているようだが、特にその娼館に怪しい点もない。ただの浮気……というか貴族男性ならよくあることだろう。父を思い出して吐き気がした。


 全員が部屋から出て行くのを確認して、リチャードが持って来た手紙を開く。


「は?」


 思わず、そんな声が漏れた。

 なぜかというと、妻ではなくリチャードの字でこんなことが書いてあったからだ。


「老いぼれの余計なお節介ですが、夫婦がこじれた時は第三者の介入が必要な時もございます」


 リチャード、どういう意味だ?

 そう言いたくなって顔を上げると、扉の所に胸の前で何かを抱えた書類上の妻が立っていた。


「は……?」


 またもそんな間の抜けた声を出してしまった。すぐに、これがリチャードのお節介だということが分かる。きっと手紙を持って妻も連れてきていたのだろう。


 妻は胸の前に何かを抱えたまま、勢いよくこちらに近付いて来た。その勢いと気迫に気圧されてリヒターは持っていたリチャードの手紙を取り落とす。


 妻はリヒターの前まで来ると、ドンと胸に抱えていた何かを机に置いた。すでに封の開いたワインの瓶だった。


「……酔っているのか?」


 出て行くように言うべきだが、リヒターの第一声はそれになってしまった。


「私を避ける旦那様に話しかけるのに、とても素面ではいられません」


 妻はそう答えると、ワインの瓶を持ち上げてラッパ飲みをする。リヒターはギョッとして何も言えなかった。リチャードが妻に渡したであろうそのワインはなかなかにお高いもので、そんな飲み方をすればワイン好きが黙っていない代物だ。

 妻は飲み終わると手の甲で唇を拭う。実に男らしい仕草だ。その後でハンカチを出して手の甲を拭いている。なぜ、最初からハンカチを出さない? 口を最初から拭けば良かっただろう?


「伯爵邸で使用人に話しかけられました。お茶会に参加して欲しいと。返事がなく心配していると。きっと、カニンガム公爵夫人のお力になれます、と。そしてキャデラック領のシードルはお口に合うはずです、と」


 妻はやや話し方がおかしいものの一息に言い切ると、今度は近くのイスをズリズリと引き摺って近くまで持って来る。そしてワインを抱えたままどっかりとイスに座った。


 リヒターは妻の様子に気圧されたのと、放たれた言葉に何と言っていいか咄嗟に思いつかなかった。


「……力になれるとは……どういう意味だ?」

「分かりません。私は何もしていないのに。もしかしたら、冷遇妻仲間だと思われているのかも。旦那様、お茶会の欠席の返事は出しましたか?」


 リヒターは以前妻がやっていたように高速で瞬きをしてしまった。そして、紙をインクまみれにした後で欠席の返事を書いていなかったことを思い出した。


「……出すのを忘れていた」

「そうですか。では、それで誤解を生んだのかもしれません。妻をお茶会に行かせない酷い夫と判断されたとか」


 妻はハキハキと喋っている。目も据わっている。酔って呂律が回らないなんてこともない。それきり妻は黙ってしまった。

 リヒターも突然のことで何も言えずに黙っているので、シーンと執務室は静かになる。


 書類上の妻に王弟夫人の息がかかった者から接触があったということだ。お世話をして気に入られたのか? リヒターの態度で妻とは仮面夫婦と知られているから、自分のところと同じだと王弟夫人に思われたということだろうか。あそこは夫婦仲が冷え切っていて子供もいない。


 書類上の妻に視線を戻して、リヒターはまたもギョッとした。さめざめと音もたてずに泣いているからだ。

 その姿は父を亡くした後の母と嫌でも重なってしまう。母は気丈に振舞っていたが、一人になった時に泣いていた。

 リヒターは胸が潰れそうに苦しくなった。どうしていいのか、あの時も今も分からない。母の時も全く分からなかった。声さえかけられなかった。


「……なぜ泣く」


 彼女をどんなに避け続けてもリヒターの前で泣くことなどなかったのに。いや、避けていたからこそ彼女の顔を大して見ていなかった。ハンカチを差し出したが、その手をぺチリと叩いて払われた。ハンカチが今度は床に落ちる。


「旦那様は公爵様で偉いから何をしてもいいと思ってるんですか」

「そんなことは思っていない」

「旦那様は、中途半端です。私に秘密を喋っておきながらすぐ仲間外れにして! ちょっと踏み込んだからってあんなに避けなくてもいいのに! 私は傷つきました。しかも困ったらすぐ離婚って!」

「あれは、あなたがくすぐって脅すからだろう。それにあなたに危ないことはさせられない」

「でも……契約結婚で夫婦になって避け続けて、中途半端に近づいてまた避けるなら何で近付くんですか!」

「最初に近付いてきたのはあなただ」

「じゃあその時に離婚か激しく拒絶すれば良かったじゃないですか! 一回受け入れるなんてしないで!」


 妻は泣きながらムッとした顔で、またワインをラッパ飲みする。勢いだけはあるが、それほど飲めていないらしく減りは少ない。彼女はそれほど飲まないタイプなのだろう。


「もうやめておけ」


 彼女の手からワインを取り上げようとしたが、抵抗された。机越しに取り合いをしているうちにワインが今度は床に落ちる。派手な音を立てて、カーペットがワイン色にジワリと染まる。


「立ち上がるな」


 妻がすぐに立って何かしようとしたので、リヒターが慌てて彼女の側に行く。幸い、ワインの瓶は細かくは砕け散ってはいなかった。

 妻が急に腰の辺りに抱き着いてくる。


「っ!」


 驚いてリヒターの体は大きく跳ねた。これほど近付いたのはあのくすぐり脅迫の時くらいだ。


「旦那様はっ! 避けて離婚して私を守ってるおつもりでしょうけど! 私だって旦那様を守りたいです!」


 守りたい? どうやって? この妻に何ができるんだ?

 そんな当たり前の疑問と同時に、リヒターの頭は殴られたような衝撃を受けていた。妻はエグエグと泣きながらリヒターの腹と胸の間あたりに顔を押し付けている。

 しばらくしてその衝撃の理由が分かった。リヒターは守りたいと言われたことなどなかった。自分が守らなければならないとばかり思っていた。


 視界の端で扉が少しばかり開く。

 ワインの瓶が割れた音を聞きつけたらしく、リチャードが心配して僅かな隙間から顔を出していた。心の中で「助けてくれ!」と叫びながら強い視線を送ったが、リチャードは妻が抱き着いている状況を見て頷いてさっさと扉を閉めてしまった。


 あれでは援軍は見込めない。

 エグエグ泣いていた妻が不意に顔を上げた。目と鼻は赤くなっている。一般的に見れば泣いて喚いてワインをラッパ飲みして不細工な顔なのに、リヒターにはそれがとても可愛く見えてしまった。


「私だって、旦那様のことが大切なんです!」


 ポロポロと涙をこぼしながら書類上の妻はそう叫んだ。

 またリヒターは頭を殴られた気がした。妻は引き続きリヒターに抱き着いたまま、エグエグ泣いている。

 リヒターは妻の頭に手を伸ばした。妻の髪には初めて触れる。フワフワした栗毛の感触が心地良い。


「私は……あなたを失いたくない。父のようになったら嫌だ。母のように悲しませるつもりもなかった」

「……でも離婚はいいんですか」

「良くないが、あなたが生きていてくれさえすればそれでいい」

「なんですか、それ」


 妻の手が脇腹をくすぐる。その手を掴んで妻の両手を片手で拘束してから、彼女を抱きしめた。


「あなたが生きてさえいてくれたら、役になど立たなくて良かった」

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