第7話

「頭が痛い……」


 エルシャは爽やかではない目覚めを迎えた。

 ズキズキする頭を抱えてむくりと起き上がる。実は習慣でエルシャの朝は早い。実家にいた頃の癖で早く起きてチマチマ動いてしまうのだ。


「うー……」


 昨日は一体何をしただろうか。リチャードに「頑張ってください」と差し出されてワインを飲んで……あれ、あんまり美味しくなかった。補佐官たちに「お、奥様?」と驚かれながらリチャードに促されて執務室に入って、夫と話をした気もする。


 ベッドから下りようと手をついたら、おかしなぐにゃりとした感触が右手にある。

 右側を見ると、綺麗な銀髪が見えた。銀髪を辿っていくと、頭がある。鼻もある。手も胴体もある。


「ひぃ!」


 エルシャは可愛らしくない悲鳴をあげた。隣で夫が寝ていたからだ。

 まさか、記憶が曖昧だが酔った勢いで夫を襲ったのだろうか。こっそり上掛けをめくって着衣を確認する。しっかり昨日の服を着こんでいる。いや、まさかね。夫とワンナイトした後でしっかり服まで着込んで寝たということはないでしょう、うん。

 いやいや、夫とワンナイトね。夫とそういうことになったところで法律上でも倫理上でも何の問題もないのだけれども。けれども!


 エルシャが一人でワタワタしていると、吹き出す音がした。

 隣を見ると、夫が体を震わせて笑っている。


「旦那様! 起きてたんですか!」


 夫の体を揺すると、彼は笑い続けながらやっと目を開けた。


「なんで私、旦那様のお部屋で寝ているんですか!」

「あなたが私に抱き着いたまま泣いて大変だったからだ。『離したらまた逃げる気でしょう』とか『また避けられるなんて嫌』とか『もう離しませんから』とか叫んで離れなかった」

「キオクニゴザイマセン」

「あなたまで記憶喪失になったのか」


 夫は寝転がったままクスクス笑っている。この人、こんなに笑うのね。



「あなたは酒を飲まない方がいい」


 起き上がって、エルシャに水を差し出しながら夫はそう言った。この人、気も遣えるのね。


 ベッドの上でむくれながらエルシャが水を飲んでいると、夫がエルシャの側に腰掛けた。バツが悪くてエルシャはベッドの隅に向けてモゾモゾ移動する。夫はエルシャがせっかく動いた分だけ距離を詰めて座り直すので、またエルシャはモゾモゾ動く。何度かそれを繰り返して、エルシャがとうとうベッドの隅から落ちかける寸前で夫はまた吹き出した。


「何ですか。私は気を遣って旦那様から離れているのに」

「あなたこそ昨日はあんなに抱き着いてきたのに」

「キオクニゴザイマセン」


 水を一気に飲み干す。


「水はいいが、ワインのラッパ飲みはやめた方がいい」

「そんなお行儀の悪いことしてません」

「していた」

「してません」

「していた」


 夫はテーブルの上の空のワインを指差す。


「あれはすべてあなたが飲んだ。ラッパ飲みで」

「そんなバナナ……」


 頭がズキズキして、うっかり弟たちとふざけるような言葉を使ってしまった。夫はまたも吹き出す。今朝だけで何度吹き出す気だろうか。この人はクールな夫ではなかったのか。そんなにエルシャは面白いことをしているというのか。


 大声も上げるわけでも大口を開けるわけでもなく上品に貴婦人のごとく笑い続ける夫を眺めていると、不意に頭にある状況が蘇った。


「あなたが生きてさえいてくれたら、役になど立たなくて良かった」


 んん?

 視界は暗いが、震える手にエルシャは抱きしめられている。しかも紛れもなくあれは夫の声だ。

 え、この前「役になど立たなくていい」って言われたのはそういう意味? 役に立つことなんて期待していないくらいどうでもいいお飾りの存在って意味じゃなかったの?


 言葉が足りないにもほどがある。まるで真逆の意味に聞こえるではないか。まるで……エルシャのことが大切であるようなそんな言葉に。


 そこまで気付いて、エルシャは硬直した。ベッドの隅で落ちないように気をつけながら。そんなエルシャに構わず夫は口を開く。


「そういえば、昨日興味深いことをあなたは言っていた。王弟夫人であるバクスター公爵夫人が絡んでいるのではないかと」

「そんなこと言いましたっけ?」

「酔っていたから覚えていないのは仕方がないが、あなたはそう口にした」


 バクスター公爵夫人は明らかに冷遇されているようなのに、公爵つまり王弟のことを好きであるようだった。あの震えるようにおずおずと伸ばされて結局落ちた手が物語っていた。そんな夫人が何か絡んでいる……可能性としては低いがあり得そうなことだ。


「王弟からはもう何も出てこないようだから夫人の線も調べてみることにする。娼館でも何も出ないようだし。夫人は冷遇されていて、さらに元男爵令嬢だ。そもそも女性が内通や税の誤魔化しに関わってきた例がほぼないから勝手に除外していたが……」

「え、旦那様は娼館に行かれたんですか?」


 エルシャが聞くと、夫はハッとしてきまり悪そうに視線をそらした。


「いえいえ、そんな。男性なんですからそういうこともありますよ」

「ない。父のようなことはしない。それに調査で入っただけだ」

「へ、へぇ」

「父のようなことはしない。あんなことは……吐き気がする」

「そ、そうですか。旦那様はてっきり愛人さんでもいらっしゃるのかと」

「そんなものはいない」


 夫があまりにきっぱりと言うので、エルシャは頷いて黙った。

 そういえば、バクスター公爵夫人は飲みすぎて公爵に「情けない姿を晒すな」と冷たく言われていた。でも、夫はエルシャの情けない姿を昨日見たはずなのに平気で笑っているようだった。


「あなたを守るために遠ざけていたのに。私はそれしかできなかったから。それなのに、あなたは人の世界を壊すのが得意だ。平気で私の世界にズカズカ入って来る」


 これは褒められているのだろうか。

 エルシャは空のコップを持ったままベッドの端で首をかしげた。その拍子にベッドから転がり落ちかけた。


 夫の腕が伸びて来て、空のコップは残念ながら床に落ちて割れたがエルシャは落ちずに済んだ。落ちたところで大した怪我はしなかっただろうが。


「あなたは昨日からよく物を割る」

「すみません」


 夫はエルシャを抱き寄せながら大きく息を吐いた。夫の手は震えている。しばらく、その手の震えをエルシャは眺めていた。まるでエルシャのことを大切に思っているような、失うことを極度に恐れているようなその震えを。


「私だって……遠ざけてでも、閉じ込めてでもあなたを守りたいと思っている」


 エルシャの場合は少し違うかもしれないが、お互い記憶喪失になったのは良かったのかもしれない。エルシャはそっと夫の服の裾を握った。避けられることなく、バクスター公爵夫人の手のように何も掴めず落ちることもなかった。


 これまでの関係が確実に変わったことをエルシャは感じていた。


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