第5話

 帰宅しながら悩んだが、やはり夫に今日の件を伝えておくことにした。エルシャ一人で処理しきれることではないし、義母にも言えない件だ。


 急に話をしに行って追い返されるのが怖いので、エルシャはまず「伯爵家のお茶会であるお話を聞いたので旦那様にお話したいです。お時間をください」と手紙を書いた。

 同じ屋敷に住んでいるのに手紙でやり取りである。初々しいカップルなら問題ないが、夫婦で手紙でしか意思疎通ができないのは問題しかない。


 侍女に頼んで届けてもらうと、神妙な顔をした家令のリチャードが返事を持って来た。夫も律儀に手紙で返事をくれたようだ。

 さて、何時なら空いているんだと手紙を開くとそこには「書面で説明するように」と書かれていた。思わず、手紙を軽く握りつぶしてしまう。


 私の書き方が悪かった? 報告にかこつけて離婚条件でも話し合いたいと思われてる?

 王弟夫人が伯爵家の使用人を買収して伝言をしてきたので、お話をさせてくださいって書くべきだった? だってこれ、手紙で書いてリチャードに持って行ってもらって……そうしたら「一体どういうことだ?」ってなるわよね。この前のお茶会の招待みたいに。それでまた手紙が来てってどれだけ面倒なの? なんてバカバカしいの? 話をすればすぐに終わるのに!


「奥様」


 まだ神妙そうな顔をしたリチャードに呼びかけられてハッとする。


「あぁ、ごめんなさい。返事を書くわね」

「最近、旦那様は外出なさっておられません。短時間ですぐお戻りになられます。本日もすでにお戻りで、さらに外出される予定はございません」


 何が言いたいのだろうか、リチャードは。思わず首をかしげる。


「旦那様は今、執務室にいらっしゃいます」

「それは、私に会いに行けということ?」


 そう口にしてから、夫がエルシャに歩み寄ってくれたことはないなと気付いた。守ろうとはしてくれているのは分かっている。でも、夫から歩み寄ってはくれない。夫は徹底的に他人を遠ざけて守ろうとするやり方なのだ。


 エルシャは夫が記憶喪失になる前から散々歩み寄っていたつもりだ。そして記憶喪失を経て少し距離が近付いたと思っても、またダメだ。夫はエルシャに決して歩み寄ってはくれない。二人の間には見えない溝でもあるようだった。近付いたら溝の深さに気付いたとでも言うべきか。破れない薄い膜でも張っていると言うべきか。


 なぜ、毎回エルシャだけが歩み寄らなければいけないのだろう。エルシャはいい嫁を辞めた時のように疲れてしまっていた。エルシャだけが頑張って、エルシャだけが傷つく、そんな状況に。なんで私ばっかり、となってしまう。これは弟妹のお世話をした時、たまに感じていたことだ。こんな感情を感じていたら何もできなくなるから、蓋をしてまたお世話の日々に戻ったけれども。


「旦那様は大旦那様を亡くされて以降、心を閉ざしてしまわれました。大奥様もお子様を亡くされてなかなか旦那様のケアまでは……」


 それは知っている。くすぐって脅迫して聞いた。


「旦那様は心を閉ざしてずっと働いておられるので、人と向き合うことができません。だってご自分の感情が分からないのですから」

「それは、見れば分かるわ」

「しかし、それは奥様も一緒ではございませんか?」


 どういう意味だろう。そんなことはないはずだ、あの夫と同じなんて。

 エルシャは夫ほど悲惨な経験はしていない。貧乏だったが、家族仲はいい。父がエルシャの話を聞いてくれないのは仕事に関することだけだ。この契約結婚だって、打診されてすぐ泣きながら申し訳ないとエルシャの意見だって聞いてくれた。


「奥様はあれほど他人のために動かれる方なのに……ご自分のためには一切動かれないではないですか。それは心を閉ざしているのと同じではありませんか」

「え?」

「この老いぼれのリチャードから見ればお二人とも一緒です。旦那様は他人と極力関わらずに自分の殻に引きこもっておられます。奥様は明るく動くようで他人のためにしか動けません。今はお二人とも傷つくのが怖くて踏み出しておられないだけです。お二人とも、とても傷ついてこられたのです」


 他人のために動くのは当たり前ではないだろうか。そもそも、自分のためって?

 エルシャは傷ついてなんかいない。というか、エルシャを傷つけたのは夫だ。


「奥様は旦那様のことを大切に思ったから踏み込めなくなったのではありませんか? それまではグイグイと近付いてお世話をしていらっしゃったのに。旦那様に嫌われることなんて怖くなかったでしょう? それなのに怖くなったのは旦那様が特別だからではないですか」


 確かにそうだ。元々避けられていたのだから今更何をしてもいいじゃないの精神だった気もする。夫が可哀想だったし。夫に踏み込むのが怖くなったのは、夫に父を感じてからだ。てっきり、父と重なるから拒絶されたら嫌なのかと思っていた。だって、夫のことはタイプではないから。


「離婚書類の件はこの屋敷でまだ私しか知りませんが、奥様はこのまま離婚で良いのですか? 復縁について言っているのではありません。このまま旦那様に何も言わずに離婚という終わらせ方でよろしいのですか? 奥様の心は何と言っていますか? 大きな声では言いづらいですが、旦那様を叩いたっていいのですよ?」


 モノクル越しのリチャードの目が潤んでいる。

 それはエルシャも同じだった。


「だって、怖いもの。自分と向き合うのは」


 お世話している方が、自分の心と向き合うよりもずっと楽だ。

 なんで私ばっかり弟妹の世話をしなくちゃいけないのか、なんで弟の話は事業に取り入れて私の話は聞いてくれないのか、私のケーキはなぜ譲らなければいけないのか。なぜ弟は本を買い与えられて勉強させてもらえて、家事は免除なのか。そんなこと感じていたら生きていけない。家族愛で誤魔化して、そして長女だからで我慢するしかない。


「奥様、他人も自分も愛するということは怖いことなのですよ」


 リチャードはそっと笑った。


「あなたはどうして私に向き合ってくれるの。契約結婚って知っているのに」

「さぁ、これは奥様に語っているようで実は自分に言っているのかもしれませんね。若かりし頃に向き合えなかった自分自身に」

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