第6話

 よくあの状況で眠れるものだ。

 書類上の妻のせいでリヒターは完全に寝不足だった。


 普通、男女が一つのベッドにいるのに平気で無防備に眠るだろうか。この書類上の妻は絶対におかしい。もう少し警戒くらいしてくれ。

 そもそも、普通の人間ならわざわざクローゼットに隠れて、リヒターが横になったところで馬乗りになってくすぐって脅してくることなどしない。


 書類上の妻の予想外どころか斜め上過ぎる行動に振り回された。だから、馬車に乗ってすぐに眠ってしまった。

 結局書類上の妻には全部話すことになり、王都にも一緒に帰る羽目になったのだ。


 眠りが浅くなった時、後頭部に何か感触があった。もう少し覚醒して、どうやら膝枕されていると目を開けていない状態でも分かった。なんとなく目を開けられずにいると、馬のいななきが聞こえて思わず体に力が入る。


 しかし、書類上の妻がすかさず触れてくれたのでパニックは起こさずに済んだ。相変わらず温かい手だった。

 なぜか妻はその後、ペタペタと頬に触れてくる。くすぐったい。そしてその手は唇にも伸びた。さすがに笑いそうになったのでリヒターは書類上の妻の手を取った。


 妻は寝相だの寝言だの頓珍漢なことばかり言っている。

 こんな頓珍漢なことばかりの妻になぜ洗いざらい父のことまで話してしまったのか。リヒターは昨日のくすぐりに屈してしまったことを後悔した。


 今まであれほどリヒターに無遠慮に近づいて来た人間はいなかったのだ。悪戯っぽく「さぁ、吐け」とばかりに輝く新緑色の目を暗がりで見た時に奇妙な感覚になった。


 書類上の妻に迷惑をかけるつもりはなかったのに。

 リヒターにとって貧乏な伯爵家出身の彼女は哀れな存在だった。それなのに、彼女にキラキラした目で見られると自分が哀れな者になった気がするのだ。



「そうそう。旦那様は記憶喪失ということのままがいいと思うんです」

「なぜ?」

「王太子殿下しか記憶が戻ったことは知らないじゃないですか。外から見ても怪我と違って分かりませんし。それなら記憶喪失設定のままで調べた方がいいと思うんですよね。相手も油断するかもしれません」

「それはそうだが……」

「そもそも、内通は王弟殿下じゃないかもしれないんですよね?」

「犯人については殿下が憶測で言っているだけだが、隣国に情報が流れているのは確からしい」


 宿に到着して、妻はこれが当たり前と言わんばかりにリヒターの部屋に付いてきて居座ってそんなことを口にした。それにツッコミを入れたいのだが、おやつのクッキーをさっさと口に入れられてしまった。


「そうそう、王弟殿下の奥様はどんな方ですか? パーティーやお茶会でご挨拶したことなくって。遠目でしか見ていないんです」

「あぁ、もうあの話は下火になったのか。男爵令嬢と当時第二王子だった王弟の恋愛話を知らないか?」

「えっと、私、そういう話には疎くて」

「第二王子だった王弟が当時の婚約者との婚約を解消して、恋人だった男爵令嬢と結婚したんだ。あの世代では有名な話だな。しかし、今では夫婦仲は冷え切っている。子供もいない」


 リヒターよりも少し上の世代では有名な話だが、毎日の生活に必死だった彼女なら知らなくても無理はない。


「じゃあ、私と王弟殿下の奥様は冷遇妻同士仲良くできるかもしれません」

「いや、なぜそういう話になる?」

「え、旦那の方をつついてなかなか尻尾を出さないなら奥様の方を攻めるべきでしょう」

「いや、なぜあなたが仲良くなる話になるんだ?」

「え? むしろ旦那様が記憶喪失設定でいくなら私の出番だと思うのですが」


 話がかみ合わずに無言で見つめ合う。

 クッキーのカスがついていたらしい。目を輝かせた妻の手がささっと唇の端をかすめる。


「なぜ、あなたまで出張る話になっているんだ」

「えぇ!? だって旦那様は話して下さったのに! 契約妻なんですから協力しますよ。昨晩あんなに対策を熱く語り合ったのに!」

「あなたは何もしなくていい。危険だ。そもそも対策はあなたを危険に晒さないために話していただけで」

「でも、旦那様お一人では困りませんか? お義母様が傷つくのは私も嫌です。何より、もうどうせ階段から落とされてるんですから」

「……また狙われるようなことがあれば困るから、あなたにも話しただけだ。分かっていれば対策も取りやすい。とにかく、あなたは公爵邸から極力出ずに過ごしてくれ」

「えぇ! そんな! 私だってほんの少しくらいは役に立ちますよ!」


 なぜか妻はやる気になっている。手がワキワキしているし、目も輝いているが調べる件はお世話とは違う。今度は階段から突き落とされるだけでは済まない。


「役に立つ、立たないの問題ではない。危険だからあなたは手を出すなと言っている」


 思ったよりも冷たい声が出た。

 それは洗いざらい喋ってしまった自分への後悔からだ。決して書類上の妻が悪いわけではない。誰かに縋って喋ってしまえば、こうなることを予想すべきだったのだ。それなのに、リヒターは喋ってしまった。拷問されたわけでもないのに。


「でも、旦那様お一人で今のところ手がかりがないなら」

「……危険で足手まといだから、あなたはこの件に手を出さなくていい。女性なのだから」


 こう冷たく言ってしまえば、妻が傷つくことは分かっていた。

 父親にこう言われて育って来た妻にこんなことを口にすれば、いくら明るくて今まで文句も言わなかった妻でも傷つくだろう。以前認めるような発言をしておいて、リヒターが今日やっていることは突き放しだ。

 だが、この書類上の妻の勢いを舐めてはいけない。何をしでかすか分からない女だ。このくらい言っておかないと。


「あまりに弁えずに私の事情に首を突っ込むようなら離婚してくれ。その場合、援助は打ち切る」


 援助を盾にすれば妻は何も言えないだろう。

 妻はしばらく膝の上で拳を握りしめていたが「分かりました」と小さく呟いて部屋から出て行った。


 契約でも結婚などするのではなかった。守るものが母だけならもっと身軽に動けたのに。彼女を守るためにはああ言うしかなかった。あの温かさに一瞬でも縋ったのが間違いだった。結局、リヒターは彼女を不幸にすることしかできない。

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