第4話
「暗殺者じゃありませんから! 安心してください! ほら、服もちゃんと着てますし!」
「……は?」
以前は頑張ってちょっと薄い服装で夫の寝室に行ったんだよね。今日は着込んでます。
「明日の朝、旦那様はお一人で帰るつもりでしょう?」
夫はさらに驚いたように目を見開いた。なぜあれでバレないと思っているのか。
「今夜は洗いざらい吐くまで寝かせませんよ!」
夫の上に乗った状態で夫の脇腹をくすぐる。夫は身をよじって抵抗するが、エルシャが馬乗りになっているので有利だ。
「なっ!」
「お、弱いのはここですか?」
「ちょっ! やめっ!」
「なるほど、ここが弱いんですね」
「あはっ、はははっ」
ふっふっふ。弟妹たちもこのくすぐりで悪事を全部白状するのだ。
あんなにクールぶった夫でもくすぐりには弱いらしい。身をよじりながらエルシャの下で笑っている。
しばらくくすぐってからエルシャは動きを止めた。エルシャの息は上がっているが、夫もそうだ。走った後のように二人でハアハアいっている。暑くなったので、エルシャは上着を脱いで床に放った。
「さぁ、旦那様が吐くまで続けますよ。私に記憶が戻ったことまで内緒にして! しかもなんで高貴な人に脅されてるんですか! 結婚とりやめって何ですか! さらに言えばいきなり離婚なんてその心は?」
「っ! やめっ! あはは!」
夫の服の中に手を突っ込んで引き続き脇腹をくすぐる。
エルシャはくすぐりながら冷静に考える。夫の記憶が戻ったことに気付かなかった自分にもエルシャは腹が立っていたようだ。こんなに近くで過ごしていたのに、夫の変化に気付かなかったなんて。しっかりした長女失格である。
もうしばらくくすぐって、疲れてきたのでエルシャは手を止めた。二人の息遣いだけが部屋に響く。
夫が手首を掴んできた。あれ、と思う暇もなく夫の体の上に覆いかぶさるように引き寄せられた。息を乱した夫の胸が大きく上下しているのを感じる。エルシャはなんとなく、夫の心臓の音を探した。
「階段から落ちた時みたいですね」
「あれは、あなたが突き落とされたんだ」
そういえば、こんなに近づいたのは階段から落ちたあの時だけだ。お世話の時は密着なんてしていない。息が落ち着いてくると、夫はエルシャの脇腹を遠慮がちにくすぐった。他人をくすぐったことなどないようだ。
「ふっふっふ。私は弟妹たちで鍛えているのでそんなのでは笑いませんよ?」
夫はしばらくエルシャの脇腹をくすぐったが、エルシャから思ったような反応がないせいでくすぐるのをやめて顔を覆った。
「あなたといると調子が狂う」
「褒めてます?」
「褒めてない」
エルシャは再度脇腹に手を伸ばしたが、夫の手に阻まれた。両手首を掴まれて、視界が反転する。今度は夫がエルシャの上になっていた。
「くすぐり対決なら受けて立ちますよ」
夫ははぁと大きなため息をつくと、エルシャの首筋に顔を埋めた。
解放された手でエルシャは夫の頭をポンポン撫でる。
「降参ですか? さぁ、吐いてください」
「……話してしまえばあなたも巻き込むことになる。だから離婚しようと言ったのに」
「契約妻なんですし、別に良くないですか?」
「危険な目に遭うかもしれない」
「もうすでに遭ってますよ。旦那様が庇ってくれましたが」
「……そうだな。あんな目に遭わせるつもりはなかった」
「結婚を取りやめる話もそれですか?」
「……もう結婚を周知していたから、取りやめにはできなかった。だが、私と仲が悪いと知られていればあなたは狙われないと思っていた。もし相手に私が嗅ぎまわっていることがバレたとしても、どうせあなたは何も知らないと思われて危険な目には遭わないと。外出も制限していたしあなたには護衛もつけていた」
おおぅ……エルシャはちょっとばかり感動した。夫が今どんな表情をしているのか分からないが、彼の声は震えている。
どうやら夫はエルシャを守ってくれようとしていたのだ、あの避け続ける冷たい態度で。
「誰から守ってくれていたんですか?」
夫はしばらく迷っていた。
こそーっと脇腹に手をやると、夫の体がビクリと動く。
「……王弟殿下だ」
「大物ですね」
「あぁ。だから危険だ。階段から突き落とした令嬢たちも王弟の派閥だったから……嫌な予感がしたんだ。偶然だったようだが」
「旦那様はよく調べられましたねぇ」
「私は王弟殿下の税の誤魔化しくらいしか調べられていない。話を持って来たのは王太子殿下だ。まさか内通まで手を出しているなんて」
王太子殿下なら夫を脅せますよね、うん。
そして王弟殿下は内通までするということは王位を狙っていらっしゃる?
「記憶が戻ったことを話してくださらなかったのはどうしてですか? やっぱり脅されていたことは嫌ですよね。調べるのがよほど嫌だったとか? 本当に断片的にしか記憶が戻っていないとか?」
エルシャが信用されていない、という可能性も考えたがさすがに口にはしなかった。守ってくれていたと判明した後でそれを口にするのは失礼だろう。
夫は沈黙した。首筋に夫の息がかかるのでくすぐったい。
しかし、負けるわけにはいかない。エルシャはまた脇腹をくすぐるべく手を伸ばしたが、阻止された。
夫は起き上がるとエルシャと視線を合わせてくる。
暗闇でも関係ないほど近い距離だ。夫はエルシャの額にそっとキスをした。エルシャが訳も分からず高速で瞬きしていると、夫はまた首筋に顔を埋める。
「あなたの世話焼きがなくなるかと寂しく思った。あなたの目は私が怪我をしている時と記憶喪失の時に如実に輝いていたから」
そんな目を輝かせていたつもりなんてありませんけれども。
エルシャはまた瞬きをして、夫の言葉を咀嚼する。
「健康になったら、あなたを失うかと思った」
え、この人今日は自分から離婚を切り出したくせに。
エルシャは内心そんなツッコミをいれつつ、夫に顔を向けた。夫は肩に顔を埋めていたが、くすぐろうと手を移動させるとすぐにエルシャの方を見た。
そういえば、エルシャは誰かを守るばかりで守られたことなどなかったかもしれない。そのことに気が付いて胸がモヤモヤした。
夫の手が脇腹ではなく、エルシャの唇をなぞる。急なその動作に今度はエルシャが驚いた。
「あなたは可哀想なものが好きだろう?」
そう告げる夫は可哀想であり、可哀想ではなかった。
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