第3話
昼食の時も夕食の時も夫は何も話さなかった。予想通りである。
エルシャの視線を避けるように夫は食事をそそくさと終えて、執務室に戻る。まるで記憶喪失になる前のようだ。かたくなにエルシャを避けるその姿勢。
「奥様、旦那様が荷造りを始めました。明朝出発するおつもりのようです」
「分かったわ。私も荷造りをしておくわね」
夫が執務室にまだいるのを確認して、使用人にエルシャの分の荷造りを頼むとエルシャはさっさと夫の寝室のクローゼットの中に隠れた。
あの夫のことだ。寝室に入ってしまったら鍵をかけるに違いない。そして早朝に王都で用事ができたとかなんとか言って一人でさっさと帰るつもりだ。エルシャのことは置いて。そして次に届くのは離婚の書類だろう。それか、王都の公爵邸に戻った途端に離婚の書類を差し出されるのだ。
夫が怪我をして記憶喪失になる前までは、養子選定もし始めていたしいい嫁も終了していたし、正直エルシャから言わないだけで離婚も仕方ないよねとは思っていた。
エルシャは完璧で完成されたものに興味などなかった。夫が女性のことを苦手でも、それでも完璧に見えていたから。
でも怪我と記憶喪失を通じて分かった。夫は完璧な人じゃなかった。優秀な人ではあると思うが。
馬車事故でパニックを起こし、夜にはうなされることもある。
しかも、高貴な人から脅されるような弱みもあるようだ。記憶喪失で脅されていることを忘れていたのだろう。
エルシャはそんなことを考えながら、少し冷えるのでモコモコに着込んだ状態でクローゼットの中で座り込んでその時を待つ。
結婚して一度だけ、夫の寝室には行ったことがある。弁えるようにと言われていたが、契約結婚の契約には跡継ぎを作る努力も含まれていたから。もちろん、丁重に追い出された。
あの時は実家に援助してもらっているという負い目がとんでもなく大きかった。いい嫁も終了していなかったし、図太くはなかった。夫の記憶が戻っているなら、夫はあの時のことを覚えているだろうか。
さすがにあの時はエルシャも傷ついた。義母と使用人たちが優しかったのは救いだったけど。あれで使用人にまで冷遇されて、義母にいびられていたら一体どうすればよかったのだ。まぁ、過去のことをネチネチ言っても仕方がない。
そんな怒りも確かにあった。でも、夫は何かを隠している。それを記憶を失って忘れていたのだ。
エルシャとの契約結婚を取りやめようとした何か、脅されるような何かを。そもそも階段から落ちるエルシャを庇わなくて良かったのに、あれにも関係あるのだろうか。
公爵で、あんなに完璧に見えるのに。何だろうか、この胸が痛むほど可哀想な感じは。父が亡くなった事故のことを思い出してパニックになるほど苦しんで、それなのに脅されて。もしかして夜遅くまで帰ってこなかったのは脅されて調べものをしていたせいだろうか。夫はなんだか一人で苦しんでいるみたいだ。
エルシャとしては、可哀想なものは救わなければいけない。だって、可哀想なんだから。
長女に生まれたなら弟妹たちを助けるのは当然のことだ。彼らは弱くて小さく後に生まれたから経験も少ない。彼らが可哀想な目に遭わないようにするのは当然のことだ。
夫は小さくはないが、傷だらけで脅されていて一人で頑張っていて可哀想だ。そんな人は報われなければいけない。だって、そんな人ばかりが損をする世界なんて許せない。
ガチャリと扉が開いて、夫が寝室に入って来た。
案の定、扉に鍵をかけている。エルシャは自分の予想が当たって思わず口角を上げた。
一緒に過ごして少しは夫のことを理解できた気がした。夫はきっと優しくて不器用な人だ。
息をひそめて待って、ベッドが軋んで夫が身を横たえた音がした。
もうしばらく待つ。パトリックが扉の外に物でも置いて、扉を開かないようにしてくれているはずだ。
なかなか夫は寝息を立てない。
エルシャもじっとしていると寒くなってきたので、もう決行することにした。
クローゼットの扉をゆっくり開くと、コソコソと這い出る。気分はネズミかゴキブリにでもなったようだ。
弟妹たちとかくれんぼをした時によくクローゼットには隠れた。
そんなことを思い出しながら、足音を立てないようにベッドに忍び寄る。
何か気配を感じたらしい。
夫は眠れないようで寝返りを打っていたが、ピタリと動きを止めた。そして身を起こそうとする。
横たわっている状態がベストなので、エルシャはそこで夫に飛び掛かった。いや、正確には夫の上に飛び乗った。
夫は体をこわばらせて抵抗する。
「あ、旦那様。安心してください、私です」
「は?」
すっかり暗闇に慣れたエルシャの視界で、夫の青い目が大きく見開かれた。
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