第2話

 今、夫はエルシャに「エルシャ」と呼びかけなかっただろうか?

 いや、もちろんエルシャの名前はエルシャでしかなく、メアリーでもエミリーでもない。それは当たり前のことなのだが、この夫はいつも「あなた」呼びだったはず。領地に到着して紹介する時にエルシャの名前を口にしたが、呼びかけは初である。


 状況は大変混沌としている。天気も悪く、エルシャは床に座って両手を上げており、夫は立っている。さらに、離婚まで切り出された気がする。


「離婚しよう」


 もう一回言われた。離婚は気のせいではなかった。盗み聞きがお気に召さなかったのだろうか。

 エルシャはうんともすんとも言っていないのに、夫は踵を返す。


「待ってください!」


 エルシャは夫の足に縋りついた。エルシャはこの時ほど、夫の怪我が治っていることに感謝したことはない。もしまだ怪我をしていたら、夫の足をエルシャはこのように掴めなかった。気を遣って手は空を掴んだに違いない。


 しかし、夫はすでに扉の取手に手をかけていて少しばかり足元のエルシャを振り返る。


「実家への援助なら心配しなくていい」

「あ、ありがとうございます。いや、そうじゃなくって!」


 援助は嬉しいけれども! まだエルシャの実家は目途が立っていないから大変助かるけれども!

 夫は扉を開けようとしたが、すぐに扉は引き戻された。何度かそれを繰り返す。


「パトリック!」


 夫が珍しく大きな声を上げた。どうやらパトリックが扉を開かないようにしてくれているようだ。


 エルシャは今度は夫のジャケットの裾を掴んで立ち上がると、夫を扉に押し付けた。


 状況はさらに混沌としている。

 エルシャがやっていることは、壁ドンどころか扉にドンである。しかも身長差があるので、夫の胸のあたりからエルシャは夫を見上げて必死に扉に夫の体を押し付けている形だ。やって見れば分かる、壁ドンは身長差があると最高にカッコ悪い。夫が驚いているのでいいとしよう。


「契約書にのっとって、離婚の説明を求めます!」


 そう、契約結婚の契約書。あれには一方的に離婚OKなんてどこにも書いていない。揉めた場合は双方協議の上なんたらかんたらで離婚の条件決めろ、みたいな文言があったはず。基本条件は書いてあったけれど。公爵家に圧力かけられたら実家は瞬時に終わりだから単に契約書の体として書いてあっただけだとは思う。


 夫の青い目は驚きで大きくなっていたが、すぐに目を伏せる。

 本当にこの人はまつ毛が長い。


「……離婚に際しての条件はあなたが決めるといい。慰謝料も多めに払おう」

「旦那様はいつから記憶が戻っていたんですか?」

「……少し前からだ。全部かどうかは怪しいが」

「どうして、教えてくれなかったんですか?」


 かたくなにエルシャを見ずに、目を伏せてどこかの床を見続ける夫。そんな夫を両腕で動けないようにしているエルシャ。

 おそらく、廊下には必死で扉を固定しているパトリック。


 そんな膠着状態が続いて、廊下から夫とエルシャを呼ぶパトリックではない声が聞こえた。おそらくお昼の時間だろう。


「……整理して、また話す。だがすべては教えられない。離婚の書類は準備しておく」

「ちゃんと説明してくださいね」


 パトリックも大変だと思うので、一応夫を扉にドンから解放した。そそくさと夫はどこかへ行ってしまう。


 エルシャは知っている。あれは話す気などないだろう。

 どれだけ逃げる夫を見てきたと思っているのだ。どれだけ弟や妹たちの嘘を見抜いてきたと思っているのだ。


 多分、明日の朝早くに夫は王都に一人で戻るつもりではないだろうか。調べものをしろと脅されていたようだし。今日はこの天気だから少し難しいだろう。


「旦那様が出かけようとしても、馬と馬車は絶対に出さないでくださいね」


 扉の外で手をさすっているパトリックにエルシャは声をかけた。


「どうされるんですか、奥様。私は状況がよく分かりませんが……」

「鳴かぬなら吐かせてみせようホトトギス、です」

「なんだか物騒ですね、奥様。もちろん協力しますよ」


 記憶が戻ったという会話を聞いて、エルシャはさっきまでがっかりしていた。せっかく、白い結婚と真っ白な記憶が合わさって白すぎる結婚だな、なんてふざけていたのに。夫は完璧ではなく、とっても可哀想な人だったのに。


 でも、考えが変わった。夫は記憶が戻っても可哀そうな人だった。

 王子か王太子に脅されていて、義母相手にも秘密があるらしい。

 それにさっきエルシャに対して適当な嘘でもつけたのに、夫は嘘をつかなかった。


「とりあえず、今夜は夜這いですね」

「わぁ、奥様。積極的。私は今夜も扉を開けて旦那様が逃げないようにしておきます」


 さっきみたいに普通に問い詰めても言わないのなら、吐かせるしかない。

 逃げられたら追いたくなるものだ。エルシャは今、せっかくまた懐いた野生動物に後ろ足で砂をかけられた気分なのだ。

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