第4話
リヒターの前には足を組んだ偉そうな若い男がいる。実際彼はその地位と血筋から偉い。
「君がとうとう結婚するとは驚いたよ。誰だっけ、名前」
「伯爵家の令嬢です」
「あぁ、確か災害が起きた……バートリ伯爵家か」
「はい」
「ふぅん。ああいうのがタイプだったとはね」
「カニンガム公爵家はこれ以上権力を持つ必要はありませんし、貴族同士で助け合いは大切でしょう」
「まぁ、いいや。これを調べてくれるよね?」
差し出された紙の内容を見てリヒターは顔をしかめた。
「なぜこれを私に?」
「君と私は接点がほぼないと思われているから良いんだよ。相手がなかなか尻尾を出さなくてね」
「しかし……これなら早く言ってもらえれば結婚など先延ばしにしましたのに」
「調べてくれるだろう? 馬車事故の時にあのメイドの存在はわざわざ消してあげたんだから」
目の前の男はそう言ってリンゴを行儀悪く丸ごとかじった。
その件を持ち出されると、リヒターは何も言えない。これはほとんど脅迫だ。リヒターが調べないならば、この男は母にあの事実を知らせるだろう。そうすれば、母は今でもどれだけショックを受けるだろうか。
しかも、母は父が浮気していたこととリヒターが隠していたことの二つで今回は傷つくかもしれないのだ。あの時の自分の判断がこうやって返ってくるなんて。
しかし、もう結婚は周知してしまったから中止などできない。
リヒターはわずかに拳に力を込めた。
ハッとリヒターが目を開けると、暗い部屋だった。
現状把握にしばらくかかって、何となく予感がして横を見た。
「あ、旦那様。うなされてましたよ」
やはり、神出鬼没の書類上の妻がいた。夜中らしいのに異様にキラキラした顔で、手には絞った清潔なタオルを持っている。
もう彼女がいることに驚きもせず、何ならいること予測までしていた自分の感覚の変化に驚く。
「お熱はないみたいですが、顔を拭きましょう。さっぱりしますよ」
思わず手を伸ばして彼女の腕を握った。その細さにまたも驚く。
「はい、では拭き拭きしますね~」
顔を赤らめることもなく妻はさっさとリヒターの顔を拭く。リヒターが腕を掴んだのは寝ぼけているか、顔を拭く催促とでも思われているのだろうか。
顔を拭いて、リヒターを起こして水を飲ませてと動く妻を見てリヒターは後悔した。
「どこか痛いところないですか?」
「大丈夫だ」
「何か食べます? 眠れそうですか?」
「眠れそうだが……あなたはどこで寝るんだ?」
「私はどこでも眠れますから!」
「いや、それはあまりにあなたに悪いだろう」
妻は昼から領地を歩き回っていたはずなのにやたらと元気だ。
「まぁまぁまぁ、旦那様は調子が悪いんですから細かいことは気にせずに」
ベッドに押し込められる。
むこうのソファにタオルケットが用意されているのが見えた。
「私がソファで寝るからあなたはここを使うと良い」
「いやいや、何言ってるんですか旦那様。私、寝相が悪いのでソファの方がいいんです。あのソファ、ふっかふかなんですよ? すごくないですか」
どういう理屈だ、それは。
しかし、怪我をしていない方の肩に手を添えられてしまったのでリヒターはそれ以上言うのを諦めた。明らかにその手は軽く添えられているだけなのに「起き上がるな」「寝ろ」と主張している。
書類上の妻がこんなにキラキラした顔で世話を焼くのは、リヒターが怪我をして記憶喪失だからだ。
自分でもまだ混乱しているがもし今、記憶が戻ったことを告げれば妻はどんな反応をするだろうか。
この腕の怪我が治ったら恐らく妻との関係は元に戻るだろう。あの調べものをして、公爵としての仕事をして。
完全に以前のように戻らないかもしれないが、妻のあの怪しい手の動きやこの異様にキラキラした表情や、リヒターには経験がなかったこのやや押しつけがましいものの甲斐甲斐しい看病はなくなるのだ。
リヒターは想像して、なぜかこれらがなくなることを寂しく感じた。
母が父を亡くしてから、リヒターは母にも頼れなくなった。明らかにリヒターよりも母が苦しんで頑張っていたから。
リヒターは熱が多少あっても何も言わず普段通り過ごしたし、母にも知らせることはなかった。だから、こんな風に甲斐甲斐しく看病されたことなど久しくなかった。使用人はある程度はしてくれるが、目が覚めて誰かが横にいるのは珍しい。
手をおずおずと出すと、書類上の妻はすぐに握ってくれた。
彼女は温かい。リヒターは彼女から温もりを奪っている気分になる。
「子守歌いります?」
「あぁ、頼みたい」
「えへへ」
書類上の妻は嬉しそうな顔をした。その表情を見て、リヒターはまた後悔した。
この二年間の記憶を思い出さなければ良かった。
契約結婚した理由はおおむね予想通りで女除けのためだったが、妻を避け続けた理由は今思い出した。
彼女に危険が及ぶかもしれないから。本当に自分は女性を悲しませることしかできない。
記憶を思い出さなければ、この温かさに無邪気に縋っていられたのに。
いや、待ってくれ。
あの男だってリヒターが記憶喪失になったことは知っているはず。城で怪我をしたのだから。それなのに、催促の手紙も使いも来ていない。自分で尻尾を掴んでいるんだろうか。
それなら、もういいんじゃないか。もう少し、記憶のことなど忘れてこの温かさに縋っていてもいいのではないだろうか。そんなことを考え始めた自分にリヒターは驚いていた。
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