第3話

 離れていても夫の顔が瞬く間に青白くなっていくのが見えた。そしてゆっくり倒れる。もちろん、側にいたパトリックという使用人が支えたので頭は打っていない。


「だ、大丈夫でしょうか。旦那様」


 医者を呼ぶ間に落ち着かずエルシャが手をワキワキさせていると、なぜかパトリックも不思議そうな顔で真似してくるので慌てて両手を後ろに隠した。

 さすがに医者が診る前にベタベタ触るのも良くないし、以前階段から落ちているのであまり動かすのも良くないかと思ったのだ。


「旦那様は頭が痛そうにしていらっしゃったので、何か記憶が戻ったのかもしれません」

「えぇぇ!? そんな!?」


 夫の記憶が今更戻ったところでどうするの?

 あーんな夫の姿やこーんな夫の姿も見てしまったから……記憶が戻らない方がいいんじゃない?


「奥様、なぜ記憶が戻ることをそんなに嫌そうに……?」


 思わずショックを受けたような声を上げてしまったエルシャは、パトリックに不審な目で見られて慌てて口をつぐむ。

 記憶が戻ったら今は可哀想で可愛い夫がまた完璧な可愛くない夫に戻りそうだから嫌、なんて口が裂けても言えない。


 あーんな姿を見せられているので、完全に元の完璧な夫に戻ることは難しいだろう。しかし、過去に対する羞恥を見せられるよりも、現在の恥じらいを見せられる方がエルシャとしては可愛く感じるのだ。


「記憶が戻ったらまたお仕事ばかりされるのかなと思って。過労になったらと心配で」


 なんとか誤魔化せただろうか。

 チラリと見るとパトリックは「奥様はお優しい」と頷いている。よし、騙せたらしい。


「ところで奥様はなぜそのような格好になったのですか」

「あぁ、ユーグさんにお会いして。腰が痛くて畑で困ってらっしゃったので畑仕事を」

「……」

「何でしょうか?」

「父の家までここから歩いたのですか? かなり距離があるのですが」

「皆さまと仲良くなろうと思って。私、足腰丈夫なんです。あなたはお母様によく似ていらっしゃいますね」

「何で母にも会ってるんですか。そもそも……いや、だからついて行ったメイドがあんなに疲れて……おかしいと思った」

「畑仕事を手伝ったら、お茶とリンゴをいただきました」


 パトリックは壁に頭を引っ付けてため息をついている。


「いけませんでしたか? 流行り病や移るものではないと聞いたのですが」

「いえ、奥様の手を煩わせてしまったので……本当は私がやらなければいけないのですが、最近忙しくて顔を出せず。申し訳ありません」

「旦那様の周りの方は皆さん働きすぎですね」

「すみません。休みにすぐ顔を出しますから」


 パトリックは平謝りしてくるが、エルシャは久しぶりに畑仕事ができて大変満足していた。

 嫁ぐ前まではよくやっていたのだ。やはり、土を触るのは良い。ここの土はミミズもたくさんいたから良い土だもの。


 エルシャが作業していたら恰好で目立ったらしく、通りかかった方々が色々助けてくれたので想定よりも早く終わった。

 お礼にということで、畑のものはまだ収穫できないからリンゴをたくさんもらったのだ。


 医者の診察中に着替えて手足や顔を拭いて戻る。

 夫に異常はないそうだ。熱もないがしばらく安静にしろと言われている。


「旦那様! 大丈夫ですか?」

「あぁ」


 夫は医師の診察中に起きたらしく、今も半身を起こして頭を押さえている。


「頭が痛いなら寝ていてください」


 無理矢理夫をベッドに横たえるが、夫から物言いたげな視線を感じた。


「どうしました? お水ですか? ご飯? 体拭きましょうか? リンゴですか?」

「いや」


 夫の視線は一瞬、テーブルの上のリンゴにいったがすぐにそらされた。やっぱり、リンゴかな? 旦那様、リンゴはお熱の時によく食べていたもの。


「もしかして、何か記憶が蘇ったりしました?」

「いや、何も」

「そうですかぁ。でもお仕事にそこまで支障はないんですから、焦る必要ありませんよ。たった二年くらいの記憶が抜けているだけですから」


 長く生きていたらどんどん忘れて行くんですし、と続ける。

 夫は頭が痛いせいか難しい顔をしていた。エルシャは喋りすぎただろうかと口をつぐんだ。


 夫が寝息を立て始めると、パトリックが小声で話しかけてきた。


「奥様。実は奥様のお部屋の寝具がダメになってしまいまして」

「え、私が飛び跳ねたのがいけなかったんですか?」


 パトリックの顔を見て不思議に思う。新しい場所のベッドで飛び跳ねるのってお約束でしょう? エルシャは嫁いできて夫に「弁えておくように」と言われた後で飛び跳ねてみたのだが、あれは良くなかったのだろうか。フカフカのベッドを見たら飛び跳ねたくならないだろうか。


「いえ、虫とネズミに驚いた使用人がバケツの水を撒いて濡らしてしまい」

「あら。その方に怪我はないの?」

「ご心配ありがとうございます。大丈夫です。ですので、奥様はどうかこの部屋でお休みいただければと。ネズミ退治もありますから。それに、旦那様が頭の痛みでうなされるかもしれませんし……」


 被せるように夫が「う、ん……」と声を上げた。


「明日、いえ明後日、いえいえ明々後日くらいまでにはなんとか寝具を調達しますので、それまでは何卒! 我々も頑張ります!」


 寝具調達の日数は遠ざかっているのだが、お世話で寝ないのは平気なのでエルシャは頷いた。

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