第2話
新婚らしさも夫婦らしい雰囲気もなく、使用人たちが夫婦の割にはなんかこう、花も飛んでいないし雰囲気が……と頭をウンウンさせる中。
エルシャは車いすに夫を座らせて庭を散歩していた。
領地には全く訪れていなかったからと、夫は到着してすぐに書類だの帳簿だのを確認していたのだ。
これは良くない。全く療養ではない。
エルシャは馬車事故と聞いただけで調子のおかしくなった夫を見て、鼻息荒く思ったのだ。
この人は私が守らなければいけない、と。
なんなのだ、この可哀想で可愛い生き物は。怪我をして記憶もなく体調も良くないのに、追い立てられるように仕事をしちゃって。まるで、自分の傷を仕事で埋めようとしているようだ。
とりあえず、夫を車いすに乗せて無理矢理にでも庭に連れ出す。この人は放っておけばすぐ部屋にこもりきりでお仕事をするのだ。二年の記憶が抜け落ちてもこの辺りは変わらない。
馬車から下りた時のようにエルシャが終始エスコートしてもいいのだが、夫は腕を骨折している。その状態でエルシャが反対の腕を取って歩くと危ないだろう。一緒にこけたら目も当てられない。
ということで、車いすだ。
夫はエルシャの勢いに押されて車いすに大人しく乗ってくれたものの、キョロキョロして困惑している。
「なぜ、庭に?」
「お散歩です。ずっとお部屋にいては良くないでしょう。こうやっていろいろなものを見れば記憶が戻るかもしれませんし」
車いすを押しながらエルシャは答える。記憶は戻らなくっていいんだけどね!
「公爵邸の方が立派な庭がある」
「それはそうですが、広すぎて大変じゃないですか。散歩を途中でやめようと思ってもやめられないです」
「……あなたは最近特に楽しそうだ」
「こちらの方が実家の雰囲気に近いからでしょうか。土の香りもしますし、緑も多いですから!」
「……そうか」
相変わらず大した会話ではないが、以前に比べたらとても進歩を感じる。
「お仕事で手伝えることがあったら何でも言ってくださいね」
「今は過去の書類を見ているだけだからな。ずっとこちらはユーグに任せきりだった。今はその息子が後任としてついていて一緒に見ているところだ。大した仕事ではない」
「そうですか」
しょぼんとした空気が伝わったのか、夫は少しばかり気を遣った言い方をした。
「あー、領地にはなかなか来れないだろうから。その、見回りを任せていいだろうか」
「もちろんです! やります!」
「領民も公爵夫人直々に来てくれれば喜ぶだろう」
「やります!」
「使用人に話しておくから、行くときは誰かに声をかけるように」
「わかりました! 早速午後から行きます! 旦那様はお仕事あるでしょうし」
「そんなに張り切らなくてもいいと思うが」
鼻歌を歌い始めたエルシャを見て、夫はやや呆れた声を出した。
***
書類上の妻はよほど動いて働いていたいらしい。午後から本当に使用人を伴ってどこかへ出かけて行った。公爵邸でいつも妻は何をしていたのだろうか。
領地の書類仕事は特に手伝ってもらうほどの量はないので、ユーグの息子であるパトリックと一緒に確認して処理していた。
王都の公爵邸でも、リヒターが絶対に踏み入って欲しくない仕事部分には妻は踏み入ってこなかった。そこまで弁えていないわけでもないようだ。食事などのお世話ではグイグイくるのだが……。
もしかすると、彼女の父親が女は仕事に口を出すなという姿勢だったから仕事に関しては遠慮しているのだろうか。手伝うと言いながら、お世話ほどグイグイ踏み入っては来ない。ただ、何かを任せると異様に嬉しそうにする。
「奥様はどんな方なんですか? 昨日は戻りが遅かったのでまだ奥様に挨拶しかできていなくて」
ぼんやり考えているとそうパトリックに聞かれて、リヒターはさらに考え込んだ。
「まず、明るい」
「確かに奥様は大変明るい方ですね」
「そしてうるさい」
「賑やかな方ですね。さっきお庭でも奥様が楽しそうに喋っていらっしゃいました。旦那様も嫌ではなかったのでは」
「なぜか気付くと隣に立っている」
「守護霊的存在ということですか?」
「手指の怪しい動きが多い」
「それって俺が聞いていいことですか?」
「そういう意味じゃない。なぜかこうしながら近づいてくることがある」
指をワキワキさせる妻の動きを真似ると、パトリックは吹き出した。
パトリックとは小さい頃一緒に遊んでいたので、他の使用人よりも年齢も距離も近い関係だ。二人しかいない時はやや砕けた話し方になる。
「それにしても、あの奥様のことだけ綺麗さっぱり忘れるんですね」
「妻のことだけじゃない、二年間の仕事の記憶もない」
「そうですかぁ。旦那様の結婚式には父しか参加していなかったので、うーん。俺としては何か記憶が戻るきっかけになることは何もお伝え出来ません」
「ユーグは元気か」
「父は元気なんですが、母の調子が悪くて。それでなかなか旦那様がこっちにいるってのに顔が出せないんです」
そんな会話をしながら、リヒターは屋敷がなんだか騒がしいのに気付いた。
「何かうるさくないか?」
「あぁ、掃除の音が響いているだけですよ」
「こんなにか?」
「はい、ただの掃除の音です」
ドタドタとひと際大きな音が響いた。
「見に行こう」
「大丈夫ですよ、旦那様。このままお仕事をなさっていてください。怪我もされているのですし、療養中なのですからそんなに心配なさらなくても。むしろ、俺が見てきますから」
なぜかパトリックから「大人しくしとけ」という笑顔の圧を感じる。
書類上の妻からも圧を感じるが、あれとはなんだか違う。どこがと具体的に言えないが何かが違う。
パトリックは様子を見に行って戻って来た。
「虫とネズミが出たそうです」
「虫とネズミ」
「それで驚いた使用人が寝具に水をぶちまけてしまったらしく」
「なんでそうなる?」
「雑巾とバケツを持って移動中だったもので。しかもそれが奥様のお部屋の寝具なのです」
「取り換えられるのか」
「もちろんです。しかし、日数がかかりますし奥様が使う寝具ですので使用人と同じものというわけにもいきませんし……今から干しても間に合わないので……ちなみに最近雨続きで使用人の寝具も大して干せておらず……」
言いたいことが分かったリヒターは頭が痛くなってこめかみに手を当てた。
「しかし、よく考えたらご夫婦なのですから大丈夫でしょう?」
契約結婚のことを知っているのはごく少数だ。母とリチャードと妻と妻の実家。使用人の大半は知らない。王都の公爵邸の使用人たちは不仲に気づいていただろうが大抵の貴族の家はあんなものだろう。
リヒターはなぜだか深夜まで仕事をしていたようだし。抜け落ちた記憶の中に愛人がいたかもしれないなんて自分でも思いたくない。
「あ、奥様が戻られました」
頭痛を感じていると、パトリックがそう声をあげた。
なんとなく窓の側に近付いて驚いた。書類上の妻は一体何をやってきたのか、土汚れを服にたくさんつけてリンゴの入った袋を抱えている。
「奥様、ワイルドなことになってますね」
リンゴの収穫にでも行ったのか?
しかもリンゴをかじりながら帰ってきている。とてもではないが公爵夫人には見えない。
一体何をしてきたんだと見ていると、彼女と視線が合った。
かじったリンゴを手に、妻はニコニコしながらこちらに手を振った。反射でなんとなく手を振り返しかけて頭が痛む。さっきの寝具云々のせいだろうか。
いや、違う。
頭の痛みが酷くなってきた。頭の中で誰かがかじりかけのリンゴを持っている。でも、誰だか分からない。それは妻ではない。服装からして男だ。
「旦那様?」
パトリックがリヒターの様子がおかしいことに気付いて側に駆け寄って来る。
何かをリヒターは忘れている。とても重要な何かを。
その記憶に頑張って手を伸ばそうとして、頭の痛みに耐えきれなかった。
「旦那様!」
窓の向こうで書類上の妻の口がそんな風に動くのがよく見えた。近くにいるパトリックの叫びしか聞こえなかったはずなのに、妻の声の方が聞こえた気がした。
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