怒ったことのない彼

内山 すみれ

第1話 怒ったことのない彼


「ねえあなた、怒った顔をしてみてくれないかしら?」


 唐突な妻のお願いに、夫のジークは首を傾げた。


「一体どうしたんだい?クレア」


 ジークは笑みを絶やさず、優しく慈愛に満ちた顔で妻のクレアの様子を伺う。彼女は、ジークが淹れた紅茶に口を付けた。ごくりと喉が動くのをジークは見つめる。


「何でもないのよ?ただ、あなたの怒った顔を見たことがないわと思って」

「僕が君に怒るはずないじゃないか。それとも、君は僕に叱られたいのかな?」


 ジークが悪戯に笑うと、クレアも笑みを浮かべた。


「優しいあなただから、怒っても怖くないと思うわ」

「そうだよ。僕は怒るのが苦手なんだ」

「ふふっ……あなたが顔を真っ赤にして怒る姿を想像したら、可愛くて笑っちゃったわ」


 両手を口元にやり、楽しそうに笑うクレア。そんな彼女をジークは愛おし気に見つめ、彼女の長く艶やかな髪に触れる。


「ジーク?」

「クレア、そろそろ寝ようか」


 丁寧に手入れされた髪は、ジークの手をすり抜けて落ちてゆく。彼の瞳に宿る劣情に、ドキリと心臓が跳ねるクレア。頬を赤く染めて、彼女は頷いた。






 眠るクレアも美しい。穏やかに呼吸をくり返す彼女の頭を撫でて、ジークは彼女の自室を後にした。彼には仕事が山ほど残っていた。だが、仕事を理由に彼女に会わないという選択肢はなかった。どんな状況でも、彼女と言葉を交わし、愛を確かめる。それがジークにとっては生きがいとも言える行為であった。ジークが右手を挙げると、従者がどこからともなく現れた。


「はッ!何か御用ですか」

「クレアの今日のスケジュールを教えろ」

「はい。午前中に庭の散歩をメイドと行い、花畑の見える場所でお茶をしています。午後には勉学に勤しんでいたようですね」

「そうか。午前中、誰かと会わなかったか?」

「新人の執事二人と出会っていますね」

「……クレアが、怒った顔を見たいと言った。そんなことを考えるような女性ではないのに、だ。俺は自分のことは客観視できているつもりだ。噂をしていたのだろうな。俺の」

「……ご明察です。彼らの噂話に驚いた様子でした」

「余計なことを……」


 忌々し気に眉を顰めるジークの瞳は冷え冷えとしている。


「執事二人をここに呼べ。『処刑』してやる」


 クレアの知るジークはここにおらず、代わりに君臨するは残忍な王のみであった。


つづく

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