第99話 求婚
一心不乱に剣の素振りをしながら、私は筋肉の声に耳を澄ませた。
「……千九十九……千百……!」
筋肉を追い込み、筋肉に語りかける。
向き合えば、筋肉は応えてくれる。
「やはり筋肉……筋肉はすべてを解決する……!」
すがすがしい汗が腹筋を流れた時、使用人が私を呼びに来た。
「リヒャルト殿下。殿下にお客様です」
「客?」
母国グルナートからの使者だろうか、と私は首をかしげた。
帰国を促す要請は何度も入っていたが、私はリートベルクで充実した日々を過ごしているという報告と、もっとこの地で修練を積みたいという希望を伝えて断っていた。
だから業を煮やして迎えに来たのかと思ったが、使者は祖国の人間ではなかった。この国の大物だった。
「ご無沙汰しております。リヒャルト殿下」
「リュディガー殿下!?」
リュディガー殿下はペルレス国王の弟だ。
男の目から見ても惚れ惚れするほど眉目秀麗な王弟は、以前は兄君との不仲がささやかれていたらしいが、今やその噂も根絶しつつある。
兄を主と仰ぎ、忠誠を誓い、公私ともに支えるリュディガー殿下は、私がグルナートからこの国に留学する際、仲介役として世話をしてくれた方でもあった。
だからその縁もあって使者に選ばれたのかと思っていたら、もっと濃い血縁があったらしい。
何でもリュディガー殿下と義母上はいとこなのだそうだ。
「エリザベートの名は私の母が由来なのですよ」
「エリーゼ妃の? そうだったのか!」
リュディガー殿下の母君であるエリーゼ妃は、先代国王の寵愛を一身に集めていたと言われる美女だ。
「母はとにかくエリザベートを溺愛しているのです。それはもう自分の孫娘のように……」
エリザベートにそっくりな肖像画の残る祖母君は、エリーゼ妃の妹だったのか。
「リュディ。グルナートからお預かりした王子殿下がこんなに長く国を空けられて、国王陛下は心配されているのではないか?」
「ああ。それで私が遣わされた」
義母上の問いにうなずいて、リュディガー殿下は私に向き直った。
「アレクシアの言う通り、兄はリヒャルト殿下を心配しています。とにかく一度グルナート王国へお戻りください」
「嫌だ! 私はまだここにいる! もう少しで筋肉の向こう側に到達できそうなんだ!」
「何ですか筋肉の向こう側って」
リュディガー殿下は美麗な顔をひそめた。
「どういうことだアレクシア。どうしてリヒャルト殿下が君の家に住み着いて、筋肉の向こう側を目指しているんだ」
「私にもわからない。どうしてこうなった……」
義母上は額を押さえ、リュディガー殿下は「リヒャルト殿下。いいからご帰国ください。これは決定事項です」と私に詰め寄った。イケメンに詰められるの怖い。
***
そんなこんなで、私はグルナート王国に強制送還された。
エリザベートと離れる悲しみにえぐえぐ泣きながらの帰国だったが、王宮に帰るなり両親に驚かれた。
「まぁ! リヒャルト!?」
母は扇を取り落として、目を白黒させている。私が留学前に比べて見違えるほどたくましくなったからだ。
毎日美味しい食事を摂り、ヴォルフリックに負けまいと武術に打ち込み、テオドールに侮られまいと勉学に励んだ成果は、親の目にも明らかなほど私を鍛え直してくれた。
ただただエリザベートにモテたい一心だったのだが、結果がよければすべてよしである。
「以前とは目の輝きが全然違いますわ。ねぇ、あなた」
「うむ、まったくだ」
父も感嘆しているし、私を幼い頃から知る乳兄弟ですら目を剥いていた。
「すごすぎませんか? 魔法ですか?」
「魔法か。そうかもしれない、恋のな」
乳兄弟はうへぇという顔をしている。失礼な。
しかし不敬を咎めはしない。筋肉がつくと人は余裕が生まれるものだ
私は自分が人生で最も充実した休暇を過ごしたことを両親に語り、エリザベートがいかに素晴らしい女性であるかを力説した。長すぎて途中叱られたがめげずに全部語った。
「いや、リートベルク辺境伯は悪くない。由緒正しい名家で、テュルキス王国が長年欲しがっている要地でもある。何より近年の経済成長ははなはだ
父は前向きに考えているようだし、母も全面的に賛成してくれた。私を急成長させてくれたエリザベートに、早くも好印象しかないらしい。
「きっと素敵なご令嬢に決まっているわ! この国を気に入ってくれたらいいのだけれど……」
「それならば母上、お願いがあります!」
母に頼み、目当ての品を受け取って、私は再び出国した。行き先はもちろんリートベルク辺境伯領だ。
出て行ったかと思えばあっという間にまた戻ってきた私に、辺境伯家の人々は「は?」という顔をしたが、気にしている場合ではない。
私はまっしぐらにエリザベートの元へ向かうと、片膝をついてプロポーズした。
「エリザベート! どうか私と結婚してくれ!」
さし出した箱の中には、真紅の宝石がきらめく純金の指輪。
我が国グルナートの名は「
ガーネットには緑や
燃える炎のような紅の色にちなんで、王族は「赤の城」を意味する「ローテンブルク」の姓を名乗っている。
そしてこの指輪は王妃に代々受け継がれるもの。これまでは母が所有していたが、エリザベートに渡すために譲ってもらった。
熟した
エリザベート。どうか私の求婚を受け入れ、この指輪を受け取ってくれ──!
「いいえ。受け取れません」
可憐なかぶりが横に振られた。
愕然とする私を見つめて、エリザベートは静かに言った。
「リヒャルト殿下。私の父の母……つまり祖母は平民なのです」
「知っているが、それが何か?」
義父上の出自はとっくに聞いた。すでに廃絶となった男爵家の私生児だと。
義父上の父君はその男爵家の最後の当主で、母君は婚姻関係にはない平民の女性だったのだと。
「私は平民の孫です。王家に嫁ぐことはできません」
「関係ない。その方がいなければ君は存在しなかったのだから何の不満もない。感謝しかない」
エリザベートの両親が結ばれたことは、私にとって最大の
身分差に悩んだこともきっとあっただろうに、義父上はよくぞ義母上をあきらめないでくれた。義母上はよくぞ義父上を選んでくれた。いくら感謝してもしきれない。
二人の愛がエリザベートをこの世に誕生させてくれたのだ。
もしも義母上が他の男と添っていたなら、私はエリザベートと出会うことはできなかった。
「どんな血筋だろうと君がいいんだ。君だけを愛している、エリザベート。……だが……」
平民のお祖母様も、その血を引く義父上も問題ない。エリザベートが生まれるために欠かすことのできなかった、かけがえのない方々だ。
そこではない。私が気にしていることは別にある。
「……私は君より……二歳も年下なのだ……」
そう、私はヴォルフリックと同い年。エリザベートの二歳下なのだ。
どんな権力があろうと、いくら大金を積もうとも、年齢は変えられない。
私は気にしないが、エリザベートにとってはどうだろうか。
弟と同じ年齢の男など頼りないと、恋愛対象として見られないと思われてしまうのではないか。
私が苦悩していると、エリザベートはかすかに笑んだ。
「リヒャルト殿下、私の父は母よりも三歳年下です」
蒼穹のような目が細められる。花の
「そして私は、両親のような夫婦になりたいとずっと思っていました」
彼女の内側から淡い輝きがこぼれる。初めて出会った日に私の心を撃ち抜いた、あの麗らかな光だ。
「お母様のように一人の男性に一途に愛し抜かれたなら、どんなにか幸せだろうと……」
「私が叶える! 約束する!」
力強く言い切って、私はエリザベートの手をにぎった。
「まずは正式に婚約しよう。そして私が学園を卒業したらすぐに結婚──」
「お友達でいましょう」
優しくも残酷な通告が、私を絶望に突き落とす。
「……お……ともだち……?」
血の涙を流しながら、私は義父と仰ぐ人の姿を心に思い描いた。
──義父上とてたやすく義母上を射止めたわけではないはずだ。
平民の血を引く男爵家の私生児が女辺境伯の婿に収まるまでには、きっと並々ならぬ苦難があったはず。
それならば、王族の私が弱音など吐けはしない。
私は義父上に比べたらはるかに恵まれた地位にいる。この程度で折れたりはできない。
この胸に燃える愛の成就を、義父上がつかんだ奇跡を、私もきっと叶えてみせるのだ。
「わかった、エリザベート。きっと君を振り向かせてみせる──!」
道のりは遠い。まだまだ遠い。
だが、これでいい。
エリザベートを知らずに生きるよりも、どんな困難が待っていようと、彼女に出会えた人生の方がずっといい。
一目惚れなどという言葉を、信じたことはなかった。
それなのに。彼女を見た刹那、私は身をもってその意味を知った。
最愛の女性とめぐり会えた、私の人生は希望に満ちていた。
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