第100話 一度しか生きることはできない

 この国には「人はこの世で一度しか生きることはできない」ということわざがある。


 ことわざとも言えないかもしれない。そのまま「人生は一度きり」という意味である。


 人間の生涯はたった一回だけ。


 生まれ変わることも、時を逆行することも、人生をループすることもない。他者に憑依することも、本の中に入り込むことも、異世界に転移することもない。


 人と人は一期一会。時間は未来へと流れるのみで、決して過去に巻き戻ることはない――。




***




 王宮の最上階に広がる玉座の間は、球状の天井と半円形の床に囲まれた厳粛な広間である。


 丸みを帯びた天井は天空を表し、輝く黄金は太陽を表し、ちりばめられた螺鈿らでんは星を表し、幾何きか学模様を描く床は大地を表す。


 玉座の間はいわば、ひとつの世界である。吊り下げられた巨大なシャンデリアは王冠の形を模して、その真下に立つ国王が神と人との間に位置する至高の存在であることを示していた。


「──ローゼリンデ・ハンナ・クレーフェ伯爵令嬢を、クレーフェ女伯爵に叙する」


 国王エドガーの声が朗々と響く。


 ローゼリンデはしずしずと前へ進み出た。国王より直々に下賜かしされる剣を受け取り、剣先を真下へと向ける。


つつしんでお受けいたします」


 ローゼリンデは顔を上げると、神の加護と王の聖名みなのもと、誠心誠意、己の役目を果たしていくことを誓った。


「国王陛下が私の誓いを受け取ってくださることを願います」

「受け取ろう。クレーフェ女伯爵」


 史上初の女辺境伯が誕生してから、十三年。


 十年ひと昔と言うが、この年月の間に女性当主に対する風向きは明らかに変わってきた。


 その最たるものが、初の女性の王太子だ。現国王エドガーが即位した際、長女のマルゴット王女が次期王位継承者として定められたのだ。


 国王エドガーと王妃ベアトリスにはマルゴットを筆頭に三人の王女がいるが、王子はいない。


 だから王弟リュディガーを次期国王にと推す声もあった中で、強く反対したのはその当の王弟自身だった。


――男も女も関係ない。兄の子こそが正統な後継者だ、と強固に主張したリュディガーは、マルゴット王女にとってもう一人の叔父にあたるアーレンブルク公爵フェリクスとともに、初の女性王太子の擁立をなし遂げた。


 二人の叔父という強力な後見を得たマルゴット王女の地位は盤石ばんじゃくそのもの。通っている学園でも身分におごることなく研鑽けんさんを積み、他生徒の模範となっている。


 父の愛情深さと母の慎み深さを受け継いだ利発な王女は、いずれは王国初の女王として、至尊の玉座に就くことになる。


 そして今日、この国に新たな女性当主が誕生した。クレーフェ女伯爵ローゼリンデだ。


 無事に叙勲を受けたローゼリンデはうやうやしく一礼を捧げ、ドレスを優美にさばきながら戻っていった。涙腺が決壊しそうになるのを耐えながら、彼女を見守っていた夫の元へと。


 ほっと安堵した顔で微笑みあう娘夫婦を、元伯爵となった老父はまるで肩の荷を下ろしたような、穏やかなまなざしで見つめていた。


 この日、新当主として爵位を受けるのはローゼリンデ一人だけである。


 しかし叙勲式はまだ終わりではない。もう一人、国王より新たな爵位を授かる者がいるのだ。


「アレクシア・ルイーゼ・リートベルク女辺境伯」

「はい」


 エドガーが呼び、アレクシアは凛と顔を上げた。


 アレクシアが受けるのは襲爵しゅうしゃくではない。陞爵しょうしゃくである。


「──貴殿をこれより女公爵と同位とし、リートベルク辺境伯家をこれより公爵家と同格と認める」


 先代辺境伯ヴィクトルは、かつて伯爵から侯爵へと陞爵された。


 そして今、娘のアレクシアが侯爵から公爵へと陞爵されようとしている。


 親子二代続けての陞爵は、ペルレス王国始まって以来の快挙である。


 もっとも父は戦場での軍功を評価されての叙勲であったが、娘は違う。


 かつては不便で辺鄙へんぴな僻地と見なされていた辺境地帯を、他領の追随を許さないほど発展させた功績を称えてのことだ。


 大街道を備えたリートベルクは交通の要として重宝され、多くの商業施設によって富み、大国テュルキスからの文化が伝播でんぱする玄関口としても栄えている。


 増大する一方の税収は、筆頭公爵家すらも上回って久しい。その経営手腕はアーレンブルク公爵のような能ある重臣からも一目置かれ、辣腕らつわんで知られるノルトハイム侯爵さえも味方につけている。


 王国の最端でありながら最先端を行くリートベルクは、もはや独立国としておこってもおかしくないほどの一大勢力なのである。


 過去には力を持ちすぎた辺境伯家が、実際に中央政府を離れて独立した例もあった。


 ならばいっそ見合った地位を与え、正当な家格に列した方が、ペルレス王国からの離反を防ぐことができる。


 実際、国境を接するテュルキス王国からは再三、傘下に加わらないかとの招請しょうせいが舞い込んでいるらしい。


 もしもリートベルクが招きに応じれば、先方は破格の厚待遇をもって迎え入れることだろう。それはペルレス王国の国力が大きく削がれることを意味する。


 ここまで辺境を躍進させた功績を素直に称える思いが半分、テュルキスには決して渡さないという決意が半分といった風情で、国王エドガーはアレクシアを正視した。


「──国王陛下」


 アレクシアは黒いかぶりを振った。


「当主は私ですが、我が領の繁栄は私一人で築いたものではありません」


 きっぱりと告げる言葉が、空を模した天井と大地を模した床に響く。


「この陞爵の誉れは、夫とともに受けることをお許しください」

「許そう」


 エドガーは穏やかに笑んだ。


 アレクシアは颯爽ときびすを返し、ルカに手をさしのべる。


「――ルカ」


 ルカは信じられないという顔で、水色の眼を大きくまたたいた。


「……!」


 一瞬の沈黙の後、二つの手がそっと重なる。


 夫婦は手を取り合って、国王エドガーの前へと進んだ。


 襲爵ではないため佩剣はいけんの儀式はない。だが寄り添う二人こそが、まるで一つの剣のようだった。


 妻のまとう強い覇気を、夫の温厚な雰囲気が受け止めている。あたかも研ぎ澄まされた鋭い剣と、それを収めるためにあつらえられた特製のさやのような、しっくりと似合う夫婦だ。


「リートベルク辺境伯夫妻に、神のご加護があらんことを──」


 国王が唱えた祈りの言葉が、シャンデリアの王冠を通って天へと昇っていく。


 白い手袋に包まれた手が音を立てた。ローゼリンデだ。


 ローゼリンデが、彼女の夫が、前クレーフェ伯爵が、国王のとなりで微笑む王妃ベアトリスまでもが晴れやかに拍手を贈る。


 あたたかな祝福に包まれて、史上初の女辺境伯夫妻はこの日、史上初の女公爵夫妻に叙せられた。

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