第92話 牛肉のグラッシュ煮込み②
ヴォルフリックが父と共に食堂の扉をくぐると、待っていた家族からあたたかな声が飛んだ。
「おお、来たか」
「にぃに!」
「ヴォルフ、よかった!」
順にヴィクトル、テオドール、エリザベートだ。
食卓には人数分の食器が並んでいるが、誰も食事をした形跡はなかった。一歳のテオドールすら指をあむあむしゃぶりながら、母の膝に座っている。
「ヴォルフの好きなお料理だから、いっしょに食べたくてまってたの。ヨハンにおねがいしてくるわ」
「姉上……」
エリザベートはにっこり笑って席を立った。料理人のヨハンに頼んで鍋を温め直してもらうのだと、父と一緒に調理場へと向かう。
ヴォルフリックは涙をぬぐった。自分の席を通り過ぎて、母の前にまっすぐ歩いていく。
「……母上」
「ん?」
アレクシアはテオドールの首にスタイを結んでいた手を止めて、顔を上げた。
「ごめんなさい……母上がせっかくおしえてくれたのに、泣いたりして……」
ヴォルフリックは漆黒の頭を下げて謝った。せっかく拭いた涙がまたこみあげて、喉が詰まる。
「……母上に……安心してほしかったんだ……」
ヴォルフリックは三歳の時に初めて、騎士団の訓練に参加した。
騎士たちの鍛え抜かれた鋼のような肉体と、研ぎすまされた一流の剣技にすっかり魅せられ、以来足しげく練武場に通いつめている。
リートベルクの騎士団は王国内のみならず、世界でも屈指と
ヴォルフリックはそんな彼らから「逸材にもほどがある」「天才すぎて末恐ろしい」「どうなってんだこの一族の血は」と引き気味の顔で称賛されていた。
アレクシアはこの家の当主で、多忙の身だ。騎士との訓練にも可能な限り顔を出してはいるが、いつも参加できるわけではない。
だからせっかく母が稽古をつけてくれた今日、母にいいところをたくさん見せたかった。強くなったと思ってもらいたかった。ヴォルフリックの成長を感じて、安堵してもらいたかった。
それなのに──全然だめだった。
アレクシアが手加減していることはわかっていたのに、全然かなわなかった。力の差が圧倒的すぎて、まったく歯が立たなかった。何度立ち向かっても最後まで一本も取れなかった。
母に感心されたかったのに、逆にがっかりされてしまったと思うと悔しかった。
ふがいなくて、感情が抑えられなくて、思わず大泣きしてしまったのだ。
「……もっと母上に……ちゃんとできるところを見せたかったのに……」
「もう見せてもらった」
しょんぼりするヴォルフリックに微笑んで、アレクシアははっきりと答えた。
「おまえが想像以上に成長していて驚いた。私はとても楽しかったぞ。十年後には抜かれているかもしれないな」
「本当ですか!?」
「ああ」
ヴォルフリックは六歳とは思えないほど強い。無尽蔵の体力と人並外れた腕力を持ち、
まだ母には勝てないが、それは母が規格外に強すぎるだけだ。
「ヴォルフ、明日は私と手合わせしよう。まだまだ若い者には負けんぞ」
「はい、おじいさま!」
ヴィクトルが言い、ヴォルフリックが元気よく答えたところに、エリザベートがヨハンを伴って戻ってきた。ヨハンは両手にミトンをはめ、熱い鍋を持っている。
「お待たせしました。今お
ヨハンは一人一人の皿に、温め直したグラッシュ煮込みをよそってくれた。
老人ながら卓越した料理の腕を誇るヨハンは、主厨長のハンスが師と崇める男である。
高齢にさしかかり、本人はそろそろ隠居をと望んでいるものの、主人一家からも他の料理人たちからも慕われるヨハンは、なかなか退職させてもらえずにいた。
「どうぞ、ヴォルフリック様。ルカ様が腕によりをかけて作られたグラッシュ煮込みですよ」
「ついでに卵も焼いてきました~」
ヨハンがにこにことさし出した皿の上に、ルカもにこにこと目玉焼きを乗せた。
「うわぁ……!」
いい匂いにつられて、ヴォルフリックの空っぽの腹がぐうっと鳴った。
ひと匙すくって口に含むと、時間をかけてじっくり煮込まれた肉がほろほろと崩れた。たっぷりの野菜が溶け込んだ煮汁はコクがあって、体を内側から癒すような滋味にあふれている。
「おいしい!」
上に乗せた目玉焼きも絶妙な塩加減で美味しい。黄味を割ってソースと混ぜても美味しい。付け合わせのパンをちぎって浸しても美味しい。
「いつもよりとろっとしてて、すっごくおいしいです!」
とろりとした粘度のあるソースはそれだけでも食べごたえがあって、夢中でぱくぱく食べてしまう。ルカは嬉しそうに破顔した。
「そうそう。今日は芋をすりおろして加えてみたんだ。よくわかったね!」
きっと食べやすいだろうと思ったのだが、ねらい通り子供受けがよくてよかった。
「おかわり!」
ヴォルフリックが空になった皿をさしだすと、ルカは希望を伝えたわけでもないのに好きな具材を多めに、ぴったりの適量で注いでくれた。
「たくさん食べて大きくなってね、ヴォルフ」
優しく言う父の朗らかな笑顔と、鮮やかな赤色で満たされた皿を交互に見比べて、ヴォルフリックは何かの決意を固めた顔をした。
「父上」
「何?」
「ぼく、大きくなったら父上とけっこんする!」
「え!?」
突然の宣言に、ルカは目を白黒させた。
(ど……どこかで聞いたような気がする……!?)
そうだ、エリザベートが五歳だった時にも言ってくれたのだ。
『わたし、お父さまとけっこんしたいです。大きくなったら、お父さまのおよめさんになります』
あれも一緒に
美味しいものを食べると結婚したくなってしまうのか? 愛は胃を通るとは言うけれど、もしかしてうちの子たち……食いしん坊なのか……?
心配しつつ、ルカは冷静を装って深呼吸をした。
「ありがとう、ヴォルフ。僕はね」
「母上とけっこんしてるんでしょう? だから、りこんして!」
「!?」
「エドが言ってた。エドのお母さんはりこんしたことがあるんだって」
エドとはエドアルドの愛称である。
エドアルドの父は執事のエヴァルトで、母は管財人のモニカ。知性派の夫婦から生まれたエドアルドは両親を越えるほど賢い子供で、神童と騒がれている。
ヴォルフリックとは同い年で親しいのだが、そんなエドアルドから得てくる情報は、年齢に見合わず高度なことが多かった。
「エドのお母さんはりこんしてから、エドのお父さんとけっこんしたんでしょ?」
「そ、そうだけど……」
確かにモニカには離婚歴がある。エヴァルトと再婚した後、エドアルドを含む二人の子を授かったのだ。
しかし、そんなことを子供どうしで話しているとは思わなかった。
たじたじになったルカに、ヴォルフリックは名案を思いついた顔で迫る。
「りこんすればべつの人とけっこんできるんだよね。だから、父上も母上とりこんして!」
「しないよ!? しないからね!?」
離婚なんて絶対にしたくないし、した瞬間に絶望して衰弱死する自信がある。
仮に百万歩譲って離婚したところで、ヴォルフリックと再婚はできない。親子だし男どうしだし、何もかもが無理である。
「じゃあ、母上にゆずってもらいます」
「待って! ヴォルフ! 譲ってもらうってどういうこと!?」
狼狽する父を尻目に、ヴォルフリックは再び席を立った。
「母上、父上をぼくにください!」
堂々と請われて、アレクシアは笑いを噛み殺した。
三年前、エリザベートがルカにやんわり振られた時は、しゅんと肩を落としてアレクシアの部屋を訪ねてきたのに。
姉弟でも反応は違うものだ。同じ状況でもヴォルフリックはくじけない。
めげることなくアレクシアに対して、ルカを譲れと迫っているのだ。見上げた根性である。
アレクシアはわざと挑発するかのように、余裕の表情を浮かべた。
「ダメだ。私の男だ」
自信に満ちた発言が、負けず嫌いの少年に火を点けた。
「母上にけっとうをもうしこみます!」
「やめて! 僕のために争わないで!」
こんなセリフを言う日が来ようとは、夢にも思わなかった。
最愛の妻と息子に取り合われ、義父から「娘だけでなく息子にまでプロポーズされるとはうらやましい……!」と羨望の視線を浴びながら、ルカは盛大におろおろするのだった。
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