第91話 牛肉のグラッシュ煮込み
工房へ帰るエミールを見送ってから、ルカは調理場へと降りた。
ヨハンやハンスら料理人たちと協力しながら、夕食の仕込みに取りかかる。
本日のメインはこの地方の郷土料理の「牛肉のグラッシュ煮込み」だ。グラッシュとは野菜のパプリカのことである。
まずは牛肉を食べやすい大きさに切り、塩と胡椒を揉み込んで小麦粉をまぶす。
それから鍋に油を熱し、肉の表面に焼き色をつけていったん取り出す。刻んだ
じっくりと弱火で煮詰めるから、安価な
今日はすりおろした芋を加えるアレンジに挑戦してみた。ぐつぐつ浮かび上がる
「アレクシアとヴォルフ、遅いな……」
ルカは首をかしげた。いつもならもう戻ってきている時刻なのに、二人とも帰りが遅い。
ルカはヨハンたちに鍋の番を頼んで、調理場を出た。
斜めに傾きながら落ちていく夕陽が、リートベルク城の北に広がる巨大な駐屯地を茜色に染めていく。
「ヴォルフ、アレク……あっ……」
案の定と言うべきか。ルカが練武場の門をくぐる前から、息子の泣き声が聞こえてきた。
「わあぁぁぁーーーん!」
ヴォルフリックは練武場の地面に五体投地して、力の限りに泣いている。
アレクシアはその脇に立ちすくんだまま、深いため息をついていた。
「……」
手がつけられないほど大泣きしている息子と、お手上げ状態で閉口している妻を見て、ルカもおおよその事情は察した。
「すまない。
肩をすくめて謝るアレクシアによると、ヴォルフリックは剣の稽古で母から一本も取れなかったとのこと。
はじめは不屈の闘志で何度でも立ち向かってきていたのだが、日が暮れるまで一矢も報いることができず、ついに心が折れた模様。
疲れも手伝って悔しさが極限に達したらしく、大泣きの大絶叫に至った――というのが現状だそうだ。
「そんなに本気で戦ったの?」
「いや、ちゃんと手は抜いた」
「それもいやだぁぁぁ!」
こそこそと小声でかわした会話もばっちり聞こえていて、ヴォルフリックはさらに泣きながら地面に突っ伏した。
「アレクシア、僕に任せて。君は先に帰っていてくれる?」
「わかった」
勝者のアレクシアにいくら慰められても気持ちは収まらないし、謝られたところで火に油だろう。ここは交代した方がいいと判断する。
アレクシアが立ち去ったのを見届けてから、ルカは泣きじゃくる息子の後頭部に向かって声をかけた。
「ヴォルフ、ご飯の時間だよ」
「たべない! いらない!」
「今日はヴォルフの好きな牛肉のグラッシュ煮込みだよ」
うつ伏せの体が一瞬、ピクッと動いたが、顔は上がらなかった。
「たべない……いらない……」
声量は落ちたものの、まだ曲げた
ルカは両手をさしだして尋ねた。
「ヴォルフ、抱っこしてもいい?」
ヴォルフリックはもう六歳だ。ハグとキスは毎日欠かさずしているけれど、抱き上げて運んだりする機会は減った。
ヴォルフリックは拗ねたまま、ぷいっと顔をそむける。
「……僕、テオみたいな赤ちゃんじゃないから」
「わかってる。ヴォルフはもう大きいお兄さんだもんね。でも僕はヴォルフのことが大大大好きだから、どうしても抱っこしたいんだ! だから、お願い!」
「……」
しばし、父と息子の交渉は続いた。
やがてヴォルフリックは抱っこは嫌だが、おんぶならいいと折れてくれた。顔を合わせるのが気恥ずかしかったのかもしれない。
夕闇が迫る中、父子はゆっくりと城にきびすを返した。
背負い背負われた二人の影が、暮れなずむ
「悔しかったんだね。その気持ちがあれば、ヴォルフはこれからもっと強くなるよ」
「……ほんとう?」
「もちろん! ヴォルフのミドルネームは義父上からいただいたんだから。きっと義父上のように大きくて強くて立派な大人になるよ!」
自信満々に断言するルカは、ヴォルフリックが生まれた時、絶対に義父の名の「ヴィクトル」をミドルネームにしたいと主張したらしい。
「……」
ヴォルフリックは父の肩に顔を埋めた。
──家族だからよくわかるが、父は婿に入った身だから遠慮しているのでもなければ、舅の機嫌を取ろうと媚びているのでもない。
ただ、祖父のことが大好きなのだ。
父は祖父に憧れ、心から尊敬している。ヴォルフリックに祖父のような強い男に育ってほしいと、媚びや
「父上もおじいさまから名前をもらったんでしょう?」
「そうだよ~。あの時は本当に嬉しかったな~」
孫が祖父母の名を授かることはあるが、婿が舅の名を授かることはめったにない。めったにというか、ルカの他には誰もいないだろう。
何でもルカは貴族でありながら、ずっとミドルネームを持っていなかったらしい。平民のように名と姓だけを名乗っていたのだという。
だから婚約した際に、ルカはヴィクトルの名をミドルネームとして冠した。
その時からずっと大事に名乗っているだけでなく、辺境伯家の後継者であるヴォルフリックにも同じミドルネームを与えたいと強く望んだ。
ヴィクトルは逆にルカの名をミドルネームにしろと主張したようだが、ルカは譲らなかった。
だから二人はまた男の子が生まれたら、次は必ず父親の名を付けると約束したそうだ。
その約束は果たされた。弟のテオドールのミドルネームは「ルカ」である。
父の名を与えられた弟を、ヴォルフリックは少しだけ羨ましく思ったこともある。
けれど、父が祖父を敬愛しているのと同じくらい、祖父は父を信頼し、こよなく愛でている。
二人はしょっちゅうべたべたいちゃいちゃしながら、母や自分たちがいかに尊くて可愛いかを延々と語り合っていた。
父と祖父はまるで本当の親子のようで、血がつながっていないとは思えないほど気が合っていて──そんな二人を見ていると、まぁいいか、とヴォルフリックも思ってしまうのだった。
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