第90話 エミールの誓い

 エリザベートは丸い刺繍枠の中にちくちくと針を刺した。多彩な色で染めた糸を用いながら、数種類のステッチを使い分けていく。


「ブリギッタ、こう?」

「はい、そうですとも。エリザベートお嬢様」


 やがて真っ白だったハンカチには花の刺繍が入った。


 つたなさはあるものの、八歳にしては上等の出来である。


「ええ、大変よろしいです。お上手でいらっしゃいますよ」


 ブリギッタの顔は満足そうな笑みであふれ、拳は強くにぎりしめられた。


「これですわ! これ! 私がアレクシアお嬢様としたかったのはこういうことなのですわ!」


 刺繍はレディのたしなみ、淑女教育には欠かせない必須科目だ。


 アレクシアとは実現しなかったブリギッタの夢を、時を越えてエリザベートが叶えてくれた。


「お父さま!」


 完成した刺繍を見せに、エリザベートは父の部屋へと急いだ。


 ルカは一人ではなかった。栗色の髪をした少年とにこやかに話をしていた。


「エリザベートお嬢様。お久しぶりです」


 エミールだった。メイドのマリーの息子で、リリーの兄だ。


 エミールは十八歳。すでに親元を離れ、家具職人見習いとして工房に住み込みながら働いている。今日はルカに会いに来たのだという。


「こんにちは、エミールさん」


 エリザベートはスカートの裾をつまんで、淑女らしくあいさつをした。脇でブリギッタはほくほくと目を細めている。


「これ、お土産です。ご姉弟で使ってくれたら嬉しいな」


 エミールが持参した土産は、天然のひのきを使ったおもちゃだった。


 丁寧に面取りした木の野菜やフルーツは手触りがなめらかで、木目が美しいだけでなく、檜の香りも心地いい。ままごと遊びが盛り上がりそうだ。


 すべてエミールの手製で、薬品を使っていないから、何でも口に入れてしまう年頃のテオドールにも安心である。


「エミールさん、ありがとうございます!」

「よかったですわね、お嬢様。さっそくテオドール様にも見せてさしあげましょう」


 ブリギッタとエリザベートがテオドールの元へ向かうのを見送ってから、ルカはエミールを部屋に招き入れた。


「エミール、お茶を淹れるから座って。ちゃんとご飯は食べてる? 先輩にいじめられたりしてない? 困ったことがあったら言ってね!」


 エミールのことは幼い頃から知ってるだけに、つい世話焼きおじさんと化してしまう。エミールは笑って首を振った。


「心配いらないよ。以前はうちの工房も、技術は殴られながら覚えるのが当たり前だったけど、今はどんどん変わってきてる。……お二人のおかげだよ」


 ルカは二年前、リートベルクの主な商業組合ギルドを一挙に買収した。財源はすべて彼の私費である。


 それまではよく言えば自由、悪く言えば無秩序で閉鎖的に運営されていた各ギルドは、公権力の介入を受けて急速に改革が進められている。


 反発の声もあるが、エミールたちのような若手は大いに恩恵を受けていた。


 頑迷固陋ころうな因習に振り回されることなく、人道的に扱われて正当な報酬も受けられるのだから、やる気も出るというものだ。


「リリーももうすぐ家を出るけど、夢だった出版の仕事を目指せるって喜んでるよ。本当にありがとう」


 エミールとリリーは母子家庭で育ち、経済的に余裕はない。


 けれど今の領内は金銭事情に関わりなく、若者が好きな職業を志願できる時代に変わってきている。


 エミールはルカの目をまっすぐに見つめて、しみじみと礼を言った。


「ありがとう。昔助けてくれて、俺やリリーの面倒をみてくれて、俺たちがやりたいことを学べるように支援してくれて……本当に感謝してる」


 今のルカは女辺境伯の夫で、次期後継者の父親だ。ただの居候だった時代に比べたら、すっかり偉くなってしまった。


 それなのにエミールが思い出すのは、自分たちが小さかった頃の記憶ばかりだった。


 足に怪我をしたエミールを背負って、ルカが初めてこの城の門をくぐった日のこと。


 母のマリーが仕事で不在の夜、眠る前に本を読んでもらったこと。


 一緒に家畜の乳搾りをして、お手製のパンケーキシュマレンに兄妹で舌鼓を打ったこと。


「今日はただあいさつに来ただけだから。恩返しはここからだからね」


 エミールは親指を立てて、胸に押し当てた。


「俺、ただの職人では終わらないよ。しっかり偉くなる予定だから。ギルドでも上の地位まで昇りつめて、領主様の意向がスムーズに伝わるよう、風通しをよくするつもり」


 いい意味で貪欲さのあふれる野心的な瞳で、エミールは誓った。


「今の代はもちろん、ヴォルフリック様が大人になって辺境伯になった時にも、俺がきっとお役に立ってみせるから」

「エミー……ルぅ……」


 ルカはうるうると目を潤ませた。しかし、


「……ところでさ……さっきお会いしたエリザベートお嬢様なんだけどさぁ……」

「う、うん」


 と、話題が愛娘に変わったので、涙が引っ込む。


「はっきり言って……可愛すぎない?」

「そうなんだよおぉぉ!!!」


 全力で肯定するルカに引き気味の顔をしつつ、エミールは続けた。


「いや、赤ちゃんの頃からすごく可愛い方だったけどさ。会うたびにますます美人になってて、毎回びっくりするんだけど……」

「だよね! そうだよね! 僕の親バカじゃないよね!?」

「親バカは否定しないけど」

「アレクシアが世界一美人だから当然といえば当然なんだけど、それにしてもリザは本っっ当に可愛くて……僕はもう心配で心配で心配で……」

「さらっと惚気のろけるのやめてくれる?」


 突っ込みを入れつつ、エミールも心配そうに眉をしかめた。


「俺はエリザベートお嬢様が生まれた時から知ってるし、十歳も離れてるからそういう目で見たりはしないけどさ。同年代の男子だったらヤバいんじゃない?」

「だよね! 本当にそう思うんだ! リザは会ったばかりの男に一方的に一目惚れされて、好き好き言われちゃうんじゃないかって……」

「自分のこと言ってる?」


 エミールは突っ込みが忙しいが、ルカの目は本気である。


「僕や義父上は本当に心配してるんだよ! でもアレクシアは余り危機感を持ってなくて……」

「あー、そうかもねぇ」


 アレクシアは武には長けているが、恋愛には疎い。娘を可愛いとは思っていても、男に惚れられて困るとは案じていないらしい。


 ルカは神妙な顔で打ち明けた。


「実は……うちの子たちが学園に通うかもしれない話があるんだ。すぐにではなくて、数年後のことになるけれど……」


 現在、王都では貴族階級の子女が通う学び舎として、国立の学園の建設が進められている。


 これまで平民には基礎的な読み書きや算盤を教える学校があったが、貴族にはなかった。貴族は自邸に家庭教師を招き、個別で教育を受けるのが一般的だ。


 しかし家庭教師による指導はどうしても質にばらつきがある。レベルの高い教師は高位の家が独占してしまうし、経済的にゆとりがなければろくな教育が受けられない。


 そこで優秀な教師はいっそ国のお抱えとし、学園という場で教鞭きょうべんを取ってもらうことで、教育格差を是正しようというのが王家の考えだ。


 入学対象者は爵位を持つ貴族の家の令息令嬢なので、通学期間を通して親交を深め、絆を育むことも目的である。


 指揮を執っているのは王太子エドガー。今は学園の校舎や付属の寮を建てている最中だが、いずれ開校したら自身の娘であるマルゴット王女も入学させるつもりだという。


 だから王女と同い年のエリザベートもぜひにと、王太子からリートベルク家に直々の誘いがかかっていた。


 話を聞いたエリザベートは「学校にかよってお友だちをつくりたいです!」と無邪気に楽しみにしているのだが、父と祖父は胃が痛くなるほど心配していた。


『リザみたいに可愛い子が学園に通ったりしたら、周囲の男がみんなリザのこと好きになっちゃうから! 偶然留学してきたどこかの国の王子様に見初められて求婚されちゃうから! だから絶対ダメ!』


 ルカは本気でそう力説したのだが、妻からは「ルカは何を言っているんだ?」とあきれられ、娘からも「お父さまは何を言っているのですか?」ときょとんとされて終わった。


 苦悩するルカの肩を叩いて、エミールは苦笑する以外にはなかった。

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