第89話 夜泣き②
我が子は可愛さの
とはいえ先ほどいい雰囲気だった夫としては無念もあった。正直に言えば生殺しである。
ルカは翌日に希望と期待を託した。
(明日こそ……!)
──が、翌日もそんな甘い夜が来ることはなかった。
テオドールはまたしても深夜に泣いて起き出した。わんわん泣きながら両親の寝室を突撃し、いちゃいちゃし始めたばかりの二人を容赦なく引き裂いた。
「そんなぁ……!」
ルカは涙を飲んだものの、可愛い末っ子を放っておけるはずもない。
前日のように抱いてあやし、とんとんと一定のリズムで叩き、眠りに落ちたら夫婦のベッドの真ん中に寝かせる。
そんな誰に見られても困らない清らかな夜は次の日も、その次の日も続いた。
仕方がない。乳母もメイドもいるのだが、任せても多分テオドールは泣きやまない。
両親、特に父親にあやされないと満足しない子なのだ。これもルカに言わせれば、「ちゃんと見分けていてすごい! 偉い! 天才!」になるのだが。
それでもテオドールが朝までぐっすり眠ってくれればまだよかった。厄介なのは、寝付いてからもまた目を覚まして泣くことだ。
「……!」
小さな体が動く気配を感じて、ルカは目を開けた。
不思議なもので、親をしていると子供が泣き出す寸前のふにゃっとした呼吸だけで、自然と目が覚める体質になった。
案の定、テオドールはふにゃふにゃとぐずり始めようとしている。
「テオ、おいで」
ルカはアレクシアを起こさないよう、テオドールを抱いて部屋を出た。
アレクシアはこの家の当主で、当代の辺境伯なのだ。大事な執務を担っているのだから、寝不足にさせるわけにはいかない。
冬の夜空には澄んだ星々が星座を描き、暗い廊下には底冷えのする寒気が満ちている。
ルカは自分の上着をテオドールに羽織らせ、包み込むように抱っこした。
「やー! ぱぱぁー!」
イヤイヤ言いながら泣いているテオドールの手足はあたたかい。発熱しているわけではなく、眠くて体温が上がっているようだ。
「寝たいなら寝ていいんだよ~」
これまでいったい何度こう思ったことだろう。
眠いのに上手く眠れなくて機嫌が悪くなるなんて、人間くらいではないのだろうか。野生動物だったら外敵に見つかって絶滅するはずだ……などと考えながら、ルカはあくびを噛み殺す。
「ぱぱー! ぱぱぁー!」
「パパだよ~。パパここにいるよ~」
「あっこ! あっこぉー!」
「してるよ~。抱っこしてるよ~」
父が対応しているのに父を呼ばれたり、抱いているのに抱っこしろとせがまれたりと、理不尽な要求が止まらない。
まるで大きくて新鮮な魚がぴちぴち跳ねているみたいだった。
もちろんどんなに暴れられても、絶対に落とすわけにはいかない。
ルカは活きのいい息子をしっかりと抱えて、歩き回ったり揺らしたりと、泣き止ませるべく頑張ってみた。上下に屈伸する縦揺れの動きも効果がある。
育児は筋トレだ。子供が生まれてから、以前ほど騎士たちとの鍛練に時間を割けなくなってしまったのだが、不思議と筋肉は衰えないどころか、ますます鍛えられていく。日々重くなる子供を四六時中、しばしば両腕に抱えているためだろうか。
「いや、いやー!」
「そっかぁ、嫌なんだね。よしよし」
何が嫌なのかわからないが、とりあえず共感と予想はしてみる。
テオドールは夜まとまって眠らないくせに、昼寝も拒否するので困っているのだが、思うに姉と兄という存在がいるからのような気がする。
姉はテオドールよりも七歳上、兄は五歳上で、二人とももう昼寝などしていない。テオドールは自分だけが長く寝るのが不服なのかもしれない。
「みんなテオより大きいもんね。テオもみんなと同じようにしたいんだよね」
気持ちだけは姉兄と同等なのに、実際は背も小さくて体力もなくて、すぐ眠たくなってしまうのが悔しいのかもしれない。理想のイメージと現実とのギャップが不本意で、もどかしいのかもしれない。
「大丈夫。焦らなくてもテオもすぐ大きくなるからね。だいじょ……うっ、この姿も今だけだなんてぇぇ……」
慰めるために言ったはずなのに、逆に自分でダメージをくらった。末っ子が大きくなってしまうなんて、考えるだけで寂しい。
「ぱぱ……」
テオドールはにわかに声量を落とし始めた。気持ちをわかってもらえたと感じたのかもしれないが、ぼやく父が哀れになった可能性もある。
「まぁ……大きくなってもずっと変わらず可愛いのは、リザとヴォルフでよくわかったけど……」
エリザベートは最初の子だし唯一の女の子だからとても可愛い。
ヴォルフリックは初めての男の子で妻や義父似だから非常に可愛い。
テオドールは末っ子だから何もかも可愛い。ひたすら可愛いしかない。
みんな違ってみんな可愛い。我が子は何人いようが全員一位である。
そんなことを考えていれば、厳寒の夜でも心はあたたかい。ルカはあと一息で眠りそうなテオドールを抱いてゆらゆらと揺れた。
「ルカ」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
名前を呼ばれて振り返ると、アレクシアが外套をルカの肩にかけてくれた。
「交代するか?」
「大丈夫。もう落ち着くと思うから、アレクシアは先に寝ていて」
テオドールはまだぐずぐずと抵抗しているものの、力はほとんど抜けている。
「こうも毎晩泣かれては、ルカが睡眠不足になるのではないか?」
「大丈夫だよ。可愛いし」
「可愛いだけで済むのか?」
子育てはちゃんと関われば関わるほど、楽しいことばかりではないものだ。
睡眠がまともに取れなければ人間は衰弱する。毎晩のようにこま切れでしか眠らせてもらえない現状は、心身ともに追い詰められてもおかしくないだろう。
「よくイライラしないな」
「するはずないよ。テオは僕を困らせようと思って泣いてるわけじゃないから」
テオドールはこの世に生まれてまだ一年なのだ。何もかも知らないことだらけ、できないことだらけで当たり前だ。
「小さな子のぐずりやイヤイヤは、いい大人の悪意のある攻撃とはまったく違うよ。困ることはあっても、嫌だと思ったことは一度もない」
「……」
ルカはさらりと言ったが、アレクシアは胸を
ルカが明るいからつい忘れそうになるが、彼はずっと実家で理不尽に虐げられて育ったのだ。
可愛くもなんともない赤の他人からさんざん非常識な目に遭わされたルカにとって、可愛くてたまらない実の子の泣き声など、少しも苦ではないらしい。
「僕は会った瞬間から君のことが好きで好きで大好きで、奇跡が起こって結婚してもらえたんだから。君が産んでくれた子のお世話なんて、ただのご褒美だよ」
アレクシアに片想いをしていた頃。
この恋が叶う日など、来ないと思っていた。
それなのに。
あんなに恋い焦がれていた人が結婚してくれて、世界一可愛い子供を三人も産んでくれて、ずっと一番そばにいてくれている。
そう思えば睡眠不足さえ幸せだ。夢が叶った未来に今、生きている証拠なのだから。
「……ルカ」
「何?」
「愛している」
ルカは心肺停止した。
「私の子供たちの父親が、ルカでよかった」
アレクシアは微笑んで、ついに陥落したテオドールの蜂蜜色の髪を撫でた。
──ルカが子供に背中を見せるのではなく、子供と向かいあう父親でよかった。
「……いつか私たちの間に、手のかかる小さな子供がいなくなる日が来ても……ルカが子供たちのためにしてくれたことを、ずっと忘れずに覚えておきたい」
たとえば熱を出した子供たちをかいがいしく看病して、一晩中でもずっと付き添っていたこと。
少食の娘のためにさんざん工夫して幼児食を作って、食べてくれたら大喜びしていたこと。
体力のありすぎる息子に付き合って、炎天下でも氷点下でも満足するまで遊び相手になっていたこと。
夜泣きする末っ子が眠るまで、嫌な顔一つせず優しく根気よくあやし続けていたこと。
ささいなことを毎日積み重ねて、親子の絆は育まれる。夫婦の信頼も築かれて、この相手でよかったと思える。
たとえ子供たち本人に記憶は残らなくても、自分がすべて覚えておこうと誓いながら。アレクシアは魂の抜けたままのルカを促して寝室へと帰った。
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