第88話 夜泣き

「おじいさま、ただいま!」

「アイストラウム、とても楽しかったです」


 帰城した子供たちは、ヴィクトルに口々にそう報告した。


「おじいさまとも行きたい! 次はいっしょにすべりましょう!」

「ああ、わかった」


 興奮ぎみにねだるヴォルフリックの黒髪をくしゃっと撫でつつ、ヴィクトルは目尻を下げた。


 自身によく似た孫息子は、妻のルイーゼによく似た孫娘とはまた違った可愛さがあって、祖父としては愛しくてたまらない。


 たっぷり体を動かして遊んだからか、子供たちはすでに眠たそうだった。家族で一緒に夕食を囲みながらも、瞼はうとうとと重たい。


 エリザベートとヴォルフリックは何とか食べ終えて着替えに向かったが、テオドールは食事中にスプーンをにぎったまま寝落ちし、父に回収されてベッドに運ばれていった。


「お父さま、お母さま、おやすみなさい」


 眠る支度を済ませたエリザベートとヴォルフリックをそれぞれの部屋まで送り、おやすみのキスをする。


「おやすみ。愛しているよ」


 いい夢を見てね、とささやいて抱きしめ、そっと扉を閉めれば、あとは夫婦の時間である。


 子供たちはただただ可愛いけれど、アレクシアと二人きりになれるのもとても嬉しい。ルカはうきうきとお茶を淹れた。


 乾燥させた数種類のハーブをよく混ぜ、少量の蜂蜜を垂らして熱湯を注ぐ。


 長めの蒸らし時間が必要だが、夫婦で話しながらゆっくりと待つ時間もまた楽しいものだ。


「今日は楽しかったね」

「ああ。子供たちも喜んでくれてよかったな」


 小さな子供たちを連れてのお出かけは疲れるが、それ以上に楽しくて幸せだ。


 外での子供たちは家の中とはまた違った姿を見せてくれて、親ばかな父としては可愛さの再発見がはかどる。


 エリザベートは広場に集まったたくさんの子供たちの中でも別格に可愛くて、みんながこぞって振り返るので、父は心配になってしまったこと。


 ヴォルフリックは自分が勝つまで絶対に引き下がらない負けず嫌いだが、意外と周囲の様子も見ていて、転んだ子がいたら手をさしのべていたこと。


 テオドールは初めて目にする光景──雪の降り積もった市庁舎や、巨大な氷のリンクや、そこに集まる多くの人々に興味津々で、大きな瞳をキラキラ輝かせていたこと。


「まだ改善の余地はあるけれど、アイストラウムは今後も続けていけたらいいな。子供たちもとても喜んでいたし」

「ああ。安全対策は徹底しなくてはならないが。冬の恒例にできたらいいな」


 とりとめもなく話しながら、ルカはじっくりと抽出した茶をカップに注いだ。


「美味しい。体が温まるな」

「良かった」


 隠し味のジンジャーがピリッとしたアクセントになって、冷えた体を内側からぽかぽかと温めてくれる。冬にぴったりなブレンドだ。


「アレクシア……」


 ルカはカップを置いて、アレクシアの目を真正面から見つめた。反らされなかったので、ゆっくりと顔を寄せる。


「子供たちは可愛くて、君は美しくて……僕は本当に幸せだよ……」


 頬に指を添えて、額や瞼、目元や喉にもキスを落としていく。


 高い鼻に、すらりとした首筋に、ルカしか知らない場所にある小さな黒子ほくろに。


 漆黒の髪を持ち上げて、耳やうなじにも唇を這わせると、アレクシアはくすぐったそうに微笑した。


「よく飽きないな」

「君に飽きる日なんて来ないよ」


 間髪入れずに答えて、ルカは触れたままの髪を指で梳いた。──この黒髪の一本さえ愛おしい。


 もう十年近く夫婦でいるのだが、飽きるどころかどんどんアレクシアに惹かれていく。何年経ってもずっと好きで好きで、一番大好きでたまらない。


「僕は死ぬまで君に恋してる。君だけを永遠に愛しているよ」


 凍てつく山々には白銀が降り、閉ざされた寝室にはキスの雨が降る。


 重ねた唇からは、先ほど飲んだ茶の芳醇な香りがした。


 熱い舌を器用に絡めながら、茶葉の優しい甘さを二人で分け合った時だった。


「……待て、ルカ。声がする」

「声?」


 部屋の扉がガタガタと揺れた。ノックというよりも体当たりしているかのような、乱雑な音だ。


 ルカがドアを開ければ、視界の下方には、くるんと寝ぐせのついた蜂蜜色の髪。

 

「テオドール!? どうしたの?」


 真夜中の廊下に、泣きながら立っていたのはテオドールだった。


 ルカが手をさし出すとテオドールは倒れるように飛び込んできたので、抱き上げて部屋の中へと運ぶ。

 

「よくここまで来られたね。天才だ~!」

 

 同じ階とはいえ、テオドールの部屋と夫婦の寝室は離れている。


 似たような扉がいくつも続いている廊下の中で、よく迷うことなく的確に両親の寝室を訪ね当てたものだ。


 なんて賢いんだ! とルカは褒めたが、テオドールはそれどころではなかった。父にしがみついて、全力でわんわん泣き続けている。


「ご機嫌ななめだな」

 

 アレクシアは泣きわめく息子に苦笑した。


 姉や兄と同様、順調にパパっ子に育っている末っ子が、ルカに抱っこされても泣き止まないのはめずらしい。

 

「よしよし、テオ。今日はみんな一緒で楽しかったからね。気がついたら一人で、寂しくなっちゃったのかな」


 そういえば今日のテオドールは夕食の最中に寝落ちしたのだった。家族に囲まれてにぎやかに過ごしていたはずなのに、ふと目覚めたら自分の部屋に一人で寝かされていて、驚いてしまったのだろうか。


 目をつぶりながら大泣きしているテオドールは、半分起きていて半分寝ているという様子だ。中途半端に覚醒してしまって、うまく入眠できないのだろう。


「大丈夫だよ、テオ。一緒に寝ようね」


 こういう時、夫から父にすぐ切り替われるのがルカのすごいところだと、アレクシアは密かに思っている。


 水を飲ませて落ち着かせたり、抱いてゆらゆら歩き回ったり、小声で子守唄を歌ったり、背をリズミカルにとんとんと叩いたりするうちに、テオドールの泣き声は徐々に小さくなっていった。


「どう? 目をつぶってる?」

「まだだな。なかなかしぶとそうだ」


 父の首にぎゅっとしがみついたテオドールは、意地でも離れまいとばかりに睡魔と戦っている。素直に寝ればいいものを、なぜ抗うのかわからない。


 赤ちゃんの時は姉や兄にされるがままだった末っ子だが、最近は自我が芽生えてきたようで、一筋縄ではいかなくなった。


 言うことは基本聞かないのに、やってほしくないことは大抵やる。二言目にはイヤイヤ言い、何でも自分でやりたがり、それでいて上手くできなくて大泣きしている。


 腹を痛めた我が子ながら、閉口してしまうこともあるアレクシアだが、ルカはその点「自己主張できるようになって偉い! 賢い! 可愛い!」と全肯定するタイプである。

 

「リザもヴォルフもこういう時期はあったからね。成長の一環だってわかってるし、いつかは終わるのも知ってるから」

 

 三人目ともなると、対応にも慣れるものだ。


 年を取ると体力的には衰えるが、心の余裕は増える。たいていのアクシデントは経験済みだし、子供の成長もある程度は先の見通しがつくようになるため、最初の子の時のような不安はなかった。


 夜泣きも吐き戻しも頻繁な発熱もイヤイヤ期も無限に続く抱っこの要求も、渦中にある時は永遠のように思えても、いつかは終わりが来る。


 深刻に悩んだことも、気が付けばいつのまにか過ぎ去っていて、なつかしいと感じられる日が必ず来る。


「あ、重くなった。寝たかな?」


 しばらく抱いて揺らし続けるうちに、テオドールの体からはふっと力が抜けた。涙の跡の残る顔を父にこすりつけながら、すやすやと寝息を立てる。


 あんなにわけもわからず泣いていたのに、寝顔は天使のようだ。


「可愛いな」

「可愛いよね」


 育児の疲れは育児で癒される。不思議な話だが、本当にそうなのだ。


 何人目でもただただ可愛いと思いながら、夫婦はそろって頬をゆるめた。

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