第77話 錬金術師

「それは大変だったな」


 前代未聞のトラブルが相次いだ話を聞いて、アレクシアはそうねぎらった。


「……うん。だから癒して……」


 ルカはここぞとばかりに妻に甘えた。弱った小動物のように、顔をくんくん擦りつけてぎゅっとしがみつく。


 アレクシアの膝は硬い筋肉で引き締まっていて、柔らかくも何ともないが、そこがいい。


 頑丈な膝枕をうっとりと満喫し、頭を撫でてくれる手に幸せを感じながら、ルカはつぶやいた。


「……リリーがこの前ぽつりと、出版の仕事がしてみたいって言っていたんだ」


 リリーはアレクシアから昔もらった絵本に魅せられて、出版関係の業界に憧れを持っているらしい。


 しかし、メイドの仕事しか知らない自分には無理だとあきらめかけてもいる。


「エミールやリリーみたいな若い子が職に就くのを……もっと助ける仕組みを作れないかな?」

「雇用や就労を支援するということか?」

「うん」


 エミールもリリーも母子家庭で育った。食うには困らなかったが裕福ではない。職業選択の自由はあるとはいえ、現実的にも経済的にも苦しいだろう。


「出産に対しての支援は、予想以上に反響があったよね。次は育った子供たちが安定して働くことのできる仕組みを考えていきたいなって」

「確かにそうだな」


 アレクシアがエリザベートを出産した後。リートベルクでは親の居住実績など一定の条件を満たした新生児に対し、祝い金を出す制度を新設した。


 もちろん人をひとり育てるにはとても足りない額だが、それでも他領では家族が増えれば、人頭税を徴収されるのが当たり前なのだ。それがむしろ子供を産めば祝われるようになったのだから、領民の反応はすこぶる良かった。


 人は搾取さくしゅされると反抗したくなるが、支援されると応えたくなるものだ。「領主さまは自分たちを応援してくれる」と民が感じてくれたことは、払う金額以上に実入りがあった。


 領内の出生率は上がり続け、他領からの移民も増え続けている。


 人口が増えれば新たな問題も生まれるが、次に改革の手を入れたいと考えているのは、領地で活動する複数の組合ギルド──いわゆる商人ギルドや工業ギルドだ。


 多くのギルドが内部で徒弟制度を設けているが、どれも独自で閉鎖的なものだ。


 これまではそれでも回ったが、今後はあえて公権力が介入し、一定の規律を課した上でしっかりと技術を伝える仕組みを作っていきたいと考えている。


「そうだな。反発は必ずあるだろうが、軌道に乗れば彼らにも利があるだろう」


 仮に現在のギルド運営が順調でも、事故も災害もいつ発生するかわからないし、疾病も高齢化も誰にでも起こりうる。


 どんな不測の事態に見舞われても、雇用主も労働者も双方が守られるよう、領主が保証する制度を作っていくことが必要なのではないか。


 とはいえ登用に解雇、指導権に販売権。商人たちの有する権利に干渉しようとすれば、反発を招くことは必須だ。


 しかし、そこは金である。金はすべての扉を開く。


「財源なら任せて! 僕かなり散財してるつもりだけど、減らないどころか増える一方だから!」


──たとえば、とルカは一枚の紙を取り出した。隣領との境目に位置する鉱山の権利書だ。


「あの場所を押さえた方が君のためになると思っただけなのに……その後、良質な鉱石が採れることがわかって価値が跳ね上がったんだ。採掘権を売るだけでもかなりの予算がまかなえると思う」

「いつの間に……」


 ルカは「君を想って買ったものはなぜか高騰こうとうするんだよね~」とにこにこしていたが、アレクシアは刮目せずにいられなかった。


 ルカの先祖である初代ヴァルテン男爵は抜群の経営手腕を誇り、手がけた事業をことごとく成功させ、大金を生み出す「錬金術師」とまで言われた人物だったとか。


 その逸話を今、アレクシアは肌で実感している。


 次から次へと強運をつかみ、国内でも指折りの資産家として名を馳せるようになった夫を見ていると、まるで本物の錬金術師を目の当たりにしているような気分になる。


 ありがたいが、上手く行きすぎて少々怖い。

 

「全部君のおかげだよ。――僕の幸運の女神」


 まっすぐに見上げてくる瞳は、昔と少しも変わらない。


 富も権力も何もない、純粋で心優しい青年だった頃のままだ。


「愛している。君が僕を幸せにしてくれたんだ」


 顔と顔が近付いて、唇と唇が触れあう。最初はわずかにかすめるだけで。二度目はゆっくりと吐息を分けあって。


 甘い口づけに、脳の奥がじんと痺れる。アレクシアの体から力が抜けた瞬間、ふっと腰が浮いた。体勢を反転させられたのだ。


 アクアマリンの瞳に見下ろされる。黒髪を愛おしそうにくしけずられる。


 ゆっくりと乗せかけられる体重に、アレクシアが目を閉じた瞬間だった。


「ちちうえー!」


 バーン! と勢いよく扉が開いて、ヴォルフリックが飛び込んできた。エリザベートも一緒だ。


 エリザベートは両手でバルーを抱いていたが、バルーは普通の猫よりも数段大きいため、体はだいぶ腕からはみ出している。


「父上、なにしてるの?」

「そ、その……アレクシアがいい匂いだから……吸いたくて……」


 動揺するあまり意味不明なことを口走ってしまったが、ヴォルフリックは「そっかぁ!」と納得してくれた。


「じゃあ、ぼくもバルーをすいたい!」


 エリザベートが足元の絨毯にそっとバルーを降ろすと、ヴォルフリックはすかさず寝転んで顔を近づけた。


 バルーは仕方ないと言いたげな諦観のにじむ表情で、腹を見せてごろんと仰向けになる。


 ヴォルフリックがモフモフの毛並みに顔を埋めて、心地よさそうに吸っている間、エリザベートは慣れた手つきでバルーの喉元を優しく撫でていた。


 飼い慣らされているとはいえ、本来は気性の荒いバルーが猫吸いを許すのは、この世でアレクシアの子供たちに対してだけだ。


 ひとしきりバルーを吸ってから、ヴォルフリックは思い出したようにぱっと顔を上げた。


「あのね。あねうえが作ったさとうのパンツッカーブロートたべたよ! おいしかった!」

「うん、リザは天才だよね」


 息をするように褒める父に、エリザベートは照れたようにはにかんだ。


「つぎはパンケーキシュマレンがいいな。あねうえ、作ってくれる?」

「パンケーキの泡立ては大変だから僕がやるよ。リザは焼くのをお願いしてもいい?」

「はい。お父さま」


 親子で次のおやつ作り計画を立てつつ、ふとルカは気が付いた。


「……あれ? ヴォルフ、口がべたべたしてない?」


 ヴォルフリックの口まわりは、溶けた砂糖でべたついている。砂糖のパンツッカーブロートを食べた後、顔を洗わずにそのまま来たのだろう。


「ヴォルフ、拭くからこっちにおいで」


 おいでと言いつつ自分から息子を捕まえて口元を拭いながら、ルカはもう一度気が付いた。


「……ってことは、バルーも?」


 案の定だった。バルーの褐色の腹には溶けた砂糖がべったりと絡み、毛がもつれてしまっている。


「ごめんね、バルー! すぐきれいにするからじっとしてて!」


 バルーはやれやれやっと気付いたかという顔をし、低い声で鳴いた。子供たちもどたばたとバルーを取り囲む。


 にぎやかな三人と一匹をながめながら、アレクシアは相好を崩した。


 ルカは先ほど、アレクシアが自分を幸せにしてくれたと言ったが。


 アレクシアも彼に対して、同じことを思っている。


 自分が誰かと結婚するなんて、昔は考えたこともなかった。


 子供を授かる日が来るなんて、想像したこともなかった。


 けれど今、彼の子供を二人も産んで、家族で笑って暮らしている。


 今ある幸せはすべてルカのおかげだ。彼が夫でよかったと思いながら、アレクシアはバルーの肉球をぷにぷにと押した。

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