第76話 モニカとリリー

 ふう、と一息をついて、モニカは眼鏡の縁を押さえた。


「ルカ様。何とかしのげそうですわ」

「ありがとう、モニカさん。助かったよ」


 ルカも手を止めて、モニカに礼を言った。


 日はすでに暮れていたが、この時間まで奔走したかいあって、何とかトラブル対応のめどはついた。


 建設現場で起きた火災事故については、まず現地の被害状況を確認することを優先。その上で関係者に連絡を取り、工期の見直しと再調整を図ることにした。


 また金を持ち逃げした業者には早急に追っ手をさし向けた。近年いっそう最強の呼び声高いリートベルクの精鋭に狙われて、逃げ切れるとは思わない方がいい。横領したことを後悔するはめになるだろう。


「今日に限ってこんなに事件が重なるなんて、大変でしたわね」


 そう苦笑するモニカは、今もルカの個人資産を管理する管財人として働いてくれている。 


 莫大な富の使途を適切に審査し、必要に応じて配分し、きっちりと運用してくれる彼女は余人をもって代えがたい優秀な秘書でもある。


 モニカ本人いわく「昔も今もヴァルテン家のお金を動かす仕事をしているという点では変わりません」らしい。


 しかしリートベルクに移ってからは、扱う金の多くが近隣の領民のために注がれるようになったことで、さらにやりがいが増したのだとか。


「家を維持するためだけでなく、領地の人々に還元するために働けるのですもの。こんなに張り合いのある仕事はありませんわ」


 そんなモニカを支える最大の理解者は、夫のエヴァルトである。


 エヴァルトは「妻は私よりもずっと有能な人材ですから!」とたびたび公言し、「妻を活躍させないのはリートベルクにとって損失です!」と言い切って、自身も執事の職務を務めるかたわら、家のことや子供のことも率先して分担している。


 子供のこと。──そう、今のモニカは育児中の母親でもあるのだ。


「エド、迎えに来たわ。帰りましょう」

「おかあさん!」


 城内の一室を開けると、モニカに似たとび色の髪の男の子が元気よく立ち上がった。


 いかにも賢そうな顔立ちをした男の子は、エヴァルトとモニカの長男のエドアルドだ。愛称はエド。


 父のエヴァルトと似た響きであるが、名前の由来は次の国王となる王太子エドガーである。


 エドガーと妻ベアトリスの名は若い親たちに大人気で、類名るいめいを付けられる子供が急増していた。


 エヴァルトも実は王太子夫妻の隠れファンだったらしい。一昨年は第二子の長女も生まれたが、ベアトリスにちなんでトリシアと名付けた。


 モニカはかつて前夫から子供ができないことを責められて離婚したのだが、エヴァルトと再婚した途端にあっさり妊娠した。


 偶然かと思いきや二人目もすぐに授かり、今では年子の兄妹の母をしているのだから、人生は何があるかわからない。


 エリザベートが五歳、エドアルドとヴォルフリックが三歳、トリシアはまもなく二歳の可愛いさかりだ。


 みんな年齢が近いし、エヴァルトもモニカもこの城が職場なので、いつでも子連れで出勤してかまわないと伝えている。


 今日も突然のトラブル対応でモニカには急に登城してもらったので、連れて来ざるをえなかったエドアルドのことは手の空いた者が子守りをしていた。


 モニカはまとわりついてくるエドアルドを撫でながら、丁寧に礼を言った。


「エドと遊んでくださってありがとうございました。──リリーさん」

「いいえ、お仕事お疲れ様でした」


 エドアルドの遊び相手をしていたのはリリーだった。メイドのマリーの娘だ。


 ルカが初めて会った時は泣き虫の幼女だったリリーも、もう十三歳。


 最近は母に習ってメイドの仕事も板についてきたし、年下の子供たちの世話もすすんでしてくれる、優しい少女に育っている。


「絵本を読んでくださったのですか? 素敵な本ですね」

「ええ、私の宝物なんです。エドもいい子に聞いてくれて嬉しかったわ」


 リリーは読み終えたばかりの絵本を大切そうに閉じた。立派な装丁をした本は年季は入っているが、レースの背表紙は今なお繊細で美しい。


「これは昔、アレクシアお嬢様が……ご主人様が私にくださった本なんです」


 エミールとリリーの父は、二人がまだ幼い時に事故で急逝した。


 母のマリーは突然夫を亡くし、幼い子供たちを抱えて途方に暮れた。


 路頭に迷う三人の身元を引き受けてくれたのは、マリーがメイドとして働く城の主とその令嬢だった。


『……おとうさん、どこ?』


 急に立派なお城の一室に住めるようになったものの、まだ幼かったリリーには父親がいなくなったことが寂しくて、心細くてたまらなかった。


 しくしくと泣いてばかりいたリリーの前に現れたのが、この城の「おじょうさま」と呼ばれている人だった。


 真っ黒な髪に天空のような青い目をした「おじょうさま」は、長い足を折って目線をリリーの高さを合わせ、優しく語りかけてくれた。


『リリーのお父様は、私のお母様と同じ場所にいる』

『おじょうさまの……おかあさま?』


 おじょうさまはリリーがこれまで会った中で、一番きれいでかっこいい人だ。


 だから「おじょうさまのおかあさま」がいる場所は、決して悪いところではないような気がした。


『これをリリーにあげよう。お母様が生前よく読んでくださった本だ』


 アレクシアがくれたのは夢のように美しい絵本だった。立派な装丁にレースのついた背表紙。リリーは思わず涙を拭いて、吸い込まれるように絵本に見入った。


「後から知ったのですが、この本はオステンブルク公爵家からの贈り物だったそうです」


 アレクシアの母方の祖父母である先代のオステンブルク公爵夫妻が、孫娘にプレゼントした絵本。


 リリーのような平民が持つには不釣り合いに豪華な品で、母のマリーはしきりに恐縮したが、アレクシアはリリーが喜んでくれれば嬉しいと言って返品を受け付けなかった。


 当時のリリーはまだ字が読めなかったけれど、きらびやかな挿し絵を見るだけでも胸が高鳴った。


 母のマリーにもくりかえし読み聞かせをねだったし、ルカにも寝る前に読んでもらったことがある。兄のエミールに「またその本かよ」と文句を言われながら。


 毎日夢中で絵本をながめるうちに、リリーは一言一句そらんじられるほど、すっかり中身を暗記してしまった。


「……いつか私も、こんな本を作る出版のお仕事がしてみたい。そう思うんです」


 リリーはしみじみと言ったが、すぐにごまかすように笑った。


「なんて、分不相応な願いですよね」

「いいえ。素敵な夢です」


 モニカは笑わずに、はっきりと言った。


「リリーさんの未来は、たくさんの可能性に満ちていますわ」

「……そう……でしょうか?」


 リリーは一瞬うつむいたが、顔を上げてモニカを褒めた。


「モニカさんは本当にすごいですよね。母ともよく言っているんです」


 モニカは産後しばらく休みを取っていたが、娘のトリシアが生後半年を過ぎた頃から少しずつ仕事に復帰し、今では産前と変わらないペースで働いている。


 リリーにとって女性の職業といえば、メイドや乳母が主流だった。母のマリーもそうして自分たちを育ててくれたことに感謝しているし、リリーもいずれは同じ仕事を継いでいくのだろうと考えていた。


 しかしモニカは管財人だ。女性が高い学歴を修め、上級職に就き、二人も子供を産みながらも男性以上の優秀さで働いているというのは、いい意味で驚きで衝撃だった。


「とんでもありません。皆さんに支えていただいているおかげなので……」


 モニカはそう謙遜しつつ、にっこりと笑んだ。

 

「ここは私が移住してきた時から働きやすい職場でしたが、このたびアレクシア様が当主になられたことで、さらに心強くなったと感じています」


 トップが女性であることはモニカにとっても動きやすい。仕事と育児の両立は大変だが、居心地のいい環境に恵まれたことはありがたかった。


「リートベルクに生まれた女の子は幸運です。だって領主様が女性なのですもの。女だって立派に活躍できるということを体現されている方が、こうして身近にいらっしゃるのですから」


 リリーの目を見つめて、モニカは自信たっぷりに断言した。


「大丈夫。リリーさんは何にだってなれます。私が保証しますわ」

「何にだって……なれる……」


 かすかに震えるリリーの腕が、美しい背表紙の絵本をぎゅっと抱きしめた。

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