第75話 母と娘

 ルカが怒涛のごとく舞い込んだトラブルの処理に奮闘している頃。


 エリザベートは母の執務室を訪ねていた。


「……お母さま……」

「リザ? どうした?」


 アレクシアは書類を精査していた手を止めて、娘に向き直った。


 何か悲しいことがあったのだろう。エリザベートは今にも泣き出しそうに青い目を潤ませている。


 ヴォルフリックは気に入らないことがあるとひっくり返って泣きわめくタイプだが、エリザベートは静かにしくしくと泣くタイプなのだ。教えたわけでもなくこうなので、生まれつきの性格としか言いようがない。


「何があった?」


 アレクシアは落ち込んでいるエリザベートを抱き上げて、膝に乗せた。きれいに編まれた髪からは、甘い砂糖と小麦の香りがする。


「お父さまが……」


 エリザベートはしょんぼりと失意の表情を浮かべて、先ほどの父とのやり取りについて母に語った。


『わたし、お父さまとけっこんしたいです。大きくなったらお父さまのおよめさんになります!』


 エリザベートがそう言った時。ルカは時間が止まったみたいに固まったこと。


 その後、息を吹き返して天を仰ぎ、大きく深呼吸をしたこと。


 それから片膝をついてエリザベートに視線を合わせ、ありがとう、とにっこり笑ったこと。


『ありがとう。リザは僕の可愛い可愛い大切なお姫様だよ』


──でも、とルカは首を横に振った。


『僕はもう大好きなアレクシアと結婚しているから、リザをお嫁さんにはできないんだ』


「……って……」

「そうか」


 アレクシアは苦笑をこらえながら、肩を落とす娘をよしよしと撫でた。


 そう言えば、先ほど誰かが廊下をまっすぐ全力疾走していったと思っていたのだ。


 おそらくルカが喜びのあまりヴィクトルのところに報告に行ったのだろう。相当浮かれて、有頂天になっていることは間違いない。


「……わたしはお父さまとはけっこんできないのですね」

「ああ。知らなかったか」


 アレクシアには父親と結婚したいという発想がなかったし、父に限らず誰かのお嫁さんになりたいという願望を抱いたこともなかった。


 それなのにエリザベートは五歳でもう結婚を意識した上、失恋にこんなに悲しそうにしょげるとは意外だった。


(私の産んだ子だが……私とは違う人間なのだな……)


 そこが可愛い。真剣に落ち込んでいるので笑ってはいけないのだが、つい頬がゆるみそうになる。


 アレクシアが背をさすってやると。エリザベートはさらに甘えて母の胸に顔をうずめた。


 エリザベートはヴィクトルやアレクシアの強靭さはあまり似ず、ルイーゼのしとやかさやルカの優しさを受け継いだ娘だ。


 公爵家の血が濃くあらわれた、幼いながらに高貴さのにじむ容姿は、辺境の地で生まれ育っても少しも損なわれていない。


 どんなに涙を浮かべても、ごしごしと目をこすっても、エリザベートの顔立ちはみっともなく歪むどころか、いっそう愛らしさを増した。


 光をはじいて輝くプラチナブロンドに、健康的な桃色の唇。すべすべの白い肌は人形のようで、ぱっちりとした大きな瞳は青い空のよう。


 どの角度から見ても死角のない可愛さを無自覚にまき散らしながら、エリザベートは母をじっと見上げた。


「お母さま、私もお父さまのようなひとにあえるでしょうか?」

「ルカのような男か? うーん……」


 正直、上流階級にはなかなかいないタイプだと思う。


 ルカが働き者なのは冷遇されて育った生い立ちのせいだと思っていたが、大富豪になってからもまめによく働くところを見ると、生来の性格なのかもしれない。周囲の人間、特に家族のために何かすることが好きなのだ。


「どうだろう。同じような男に出会うかはわからないが……もしも将来、おまえが結婚したいと思う相手に出会ったならすればいいし、そうでなければ無理に結婚しなくてもいい」

「けっこんしなくてもいいのですか?」

「ああ」


 驚いたように聞き返す娘に、アレクシアははっきりと答えた。

 

「別に相手が王侯貴族でなくてもかまわない。地位や身分の高い男を選べなど、私が言えるはずがないだろう?」


 エリザベートも最近知ったのだけれど、どうやら父はかなり身分の低い出自らしい。


 別に隠すことではないからと教えてくれたのだが、父の母は平民の女性だった。父自身はぎりぎり貴族だが、最下位と言っていいほど末端中の末端だという。


 けれど母はそんな父を選んで結婚した。家格の低い、平民の血を引いた、無位無冠の男を。


 今の父は資産家だが、それは母と婚約した後に相続したらしい。それまで資産は一切持っていなかったとか。


 そして父は今でも無位無官である。夫婦のどちらかが爵位を有している場合、配偶者が別の家の爵位を持つことはできないからだ。


 アレクシアは長いまつ毛を伏せた。


(……ルカは望めば男爵になることはできたのだがな……)


 だが、相続を辞退してアレクシアを選んでくれた。アレクシアを辺境伯にするために、ルカは自らの爵位を受け取らなかったのだ。


 それほどの想いを捧げてくれる男と出会えたことを、奇跡だとアレクシアは思っている。


 身分違いの格差婚だとそしられることは尽きないが、恥じたことは一度もない。どんな時もアレクシアを尊重してくれる、自慢の夫だ。


「エリザベート。おまえが大人になって、結婚したければすればいいし、独身でいたければそれでいい。結婚した後に事情が変わったり、耐えられない状況になった時は離婚すればいい」


 エリザベートはつぶらな瞳をまたたいた。


 まだ五歳の子供には「結婚してもしなくてもいいし、結婚後に離婚してもいい」というのはピンと来なかったようだ。


「私とルカの願いは、おまえたちが幸せであることだけだ。結婚は幸福の必須条件ではない」


 アレクシアが言い切ると、エリザベートは小さな首をかしげた。


「でも、お母さま。女の子はけっこんするのが"おやこうこう"だと、みんなが言っていました」


 みんなというのは乳母やメイドだろう。アレクシア自身も幼い頃から幾度となく同じことを言われてきたから、想像はつく。


 別にその考えが間違っているわけではない。特に貴族に生まれたからには、地位と格式のある相手と縁を結んで、領地を盛り立てるのは大事なことだ。


 しかし、アレクシアには娘の結婚で家を豊かにしようという発想はない。夫にも父にも皆無だろう。


「リザもヴォルフも無事に生まれてきてくれて、大きな病気や怪我もなく元気に育ってくれている。それで充分だ。親孝行はもう済んでいる」

「もう?」

「ああ」


……これはヴォルフリックには言いにくい話だが、初めての経験は何でも強く印象に残るものだ。


 子供たちのことは平等に愛しているつもりだが、やはり第一子に関する記憶は忘れられない思い出として残っている。


 正直、二人目は記憶があいまいで「いつの間にか大きくなっていた」とすら思う。


 初めて妊娠した時の絶望的に苦しかったつわりも、人体の設計ミスではないかと思うほど痛かった陣痛もよく覚えている。


 エリザベートが生まれて、夫と父がどんなに喜んだかもはっきりと覚えている。


 エリザベートの成長の一つ一つに二人がどんなに感動して、いちいち泣いていたかも、昨日のことのように覚えている。


 初めて口にした離乳食に不思議そうな顔をしていたこと。


 初めて話した言葉が「ぱるー」で、夫が崩れ落ちていたこと。


 初めて自分の足で歩いた日に、使用人たちが総出で祝ってくれたこと。


 親としてのたくさんの「初めて」を、エリザベートは経験させてくれた。

 

 どんなに流暢りゅうちょうに話せるようになってもあの可愛らしい初語を忘れないし、どんなに速く走れるようになってもあの危なっかしい最初の一歩を忘れない。


「おまえは生まれてきただけで私たちを幸せにしてくれた。親孝行は考えなくていい。──自分の好きなように生きなさい」

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