第70話 ローゼリンデとの再会②
ヴァルテン家との縁談が消えた後、クレーフェ伯爵は心機一転、別の男爵家と手を結んで新事業を始めた。
ヴァルテン家よりもずっと歴史のあるその男爵家は、特別に裕福ではないが、誠実で信頼できる相手だった。
共同事業は順調で、伯爵家の財政も回復しつある。ローゼリンデに借金を継がせるわけにはいかない、代替わりまでにはもっと立て直すのだ──と父ははりきって働いていた。
ローゼリンデは柔らかく笑んで、アレクシアを見上げた。
「女辺境伯というお手本がいらっしゃるので、心強いです。どうか学ばせていただければ幸いです」
いつの日か爵位を
男性当主ばかりの貴族社会で渡りあっていけるのか心細く感じる中で、先に女辺境伯が誕生したことは素直に頼もしかった。アレクシアに学び、習い、やがては後に続きたいと願うばかりだ。
「ローゼリンデ、本当に大きくなったね……!」
「ルカ様は余り年を取られていませんね」
ルカは昔と変わらず若々しいが、すでに二児の父だと聞いている。
ローゼリンデがそう尋ねると、ルカは満面の笑みをほころばせた。
「うん。娘は五歳で息子は三歳なんだ。二人とも世界一可愛いよ」
これはルカも父親になってから知ったことなのだが、なんと「娘世界一可愛い」と「息子世界一可愛い」は矛盾しないのだ。
もちろん妻も世界一愛している。子供たちは見た目も言動も何もかも可愛いが、一番愛おしい点は妻が産んでくれたことだ。
子供たちを思い出して目を細めるルカに、ローゼリンデも笑んだ。
幼いローゼリンデにも優しかった彼は、さぞかし子煩悩な父親なのだろうと容易に想像できる。
「ルカ様のご家族は、お幸せでしょうね」
「幸せなのは僕だよ?」
ルカが即答した時。ダンスホールから優雅なワルツの三拍子が流れ出した。
ローゼリンデは意を決したように、視線を上げる。
「……女の方からお誘いするなど、はしたないとわかっています。ですがルカ様。どうか一度……たった一度だけ、私と踊っていただけませんか?」
思いがけない申し入れだった。
ルカは一瞬固まったが、アレクシアはふわりと頬をゆるめて促した。
「ルカ、行ってくるといい」
「ありがとう」
若い令嬢に恥をかかせるなどできない。ルカは紳士的に手をさし出した。
「ローゼリンデ、僕でよければ喜んで」
二人は手を取り合って、ダンスホールへと進んだ。
奏でられているのは華やかさの中にもどこか憂いを帯びた曲だった。哀しくも美しいメロディーに乗せて、二人はゆっくりと舞い始める。
ルカはローゼリンデが今まで踊ったことのある男性の誰よりも、抜群にリードが上手かった。
なめらかなスイングに、姿勢を崩さないままのスピン。ホールドをキープしたまま回転させてくれるから、いくらでも安定して回れる。
ローゼリンデは笑顔を咲かせたが、周囲の貴族たちは絶好のゴシップを嗅ぎつけた顔でニヤニヤと舌なめずりした。
「これはめずらしい。リートベルク卿が他の女性と踊っているぞ」
「妻には他の男と踊らせないくせに、自分は若い令嬢を引っかけるとはなかなかやる」
「あのご夫君もすみに置けないではないか。当主となった奥方の目の前で浮気するとは」
『妻が女辺境伯になった晴れの日に不倫するけしからん夫』という目で見られつつあるルカだったが、その当の妻が堂々としているおかげで、冗談の域を出ることはなかった。
やがて曲はフィナーレを迎え、二人は最終歩のステップまで無事に踊り終えた。
「ありがとう、ローゼリンデ」
「いえ、私の方こそ……」
ローゼリンデが感謝を告げようとした時。
一人の若い青年が、ルカの姿を見止めて近づいてきた。
「──リートベルク卿ではありませんか」
「アーレンブルク公爵。ご無沙汰しております」
アーレンブルク公爵フェリクスだった。最年少の公爵であり、王太子妃ベアトリスの実弟でもある。
「ルカ様、どうぞ行っていらしてください」
俊英と評判の公爵を邪魔することなどできない。ローゼリンデがそう促すと、ルカはもう一度ローゼリンデの目を見て礼を言ってから、フェリクスに向かい合った。
「先日は実にいい人選をご紹介いただけました。リートベルク卿のお力添えに感謝いたします」
「公爵のお役に立てたなら光栄です」
アーレンブルクの領地では先日の大雨で河川が
被害を聞いたルカが迅速に
「辺境伯領の街道を大改築されていることは存じていましたが、本当によい
そう感嘆するフェリクスは今、才覚あふれる若き公爵として、令嬢たちからもっとも注目を集めている独身男性である。
フェリクスに気がついた若い乙女たちは、きゃあきゃあと浮き足立った。
「アーレンブルク公よ!」
「公爵はご結婚なさらないのかしら?」
リートベルク卿も見た目はいいが、既婚者で子持ち。しかも妻はいかにも気の強そうな女傑だ。とても略奪を企む気にはなれない。
その点アーレンブルク公爵は未婚。さらには王太子エドガーの義弟であり、信頼厚き忠臣でもある。
フェリクス本人は姉のベアトリスを支えるため、自身の結婚はまだ考えられないと言ってかわしているが、公爵夫人になりたいと望む女性は絶えなかった。人気のなかった前公爵とは大違いで、アーレンブルクの家名は高まる一方である。
令嬢たちがフェリクスに熱い視線を送る中。二人の女性だけが熱狂に加わることなく、静かに向き合っていた。
「――リートベルク女辺境伯」
ローゼリンデはもう一度うやうやしく膝を折った。アレクシアの姿を目に焼き付けるように、まっすぐに見上げる。
「あなたのご夫君は、私の初恋でした……」
ルカがリートベルク辺境伯令嬢と婚約したと聞いた日。
初恋が実らなかったことを知ったローゼリンデは一人、涙で枕を濡らした。
『ルカ様にお義兄さまになってほしかった』――姉のナターリアにはそう言ったけれど……本当は違った。
義兄妹としてではなく、ルカと一緒にいたかった。彼の笑顔が、優しいまなざしが、真心のこもった言葉が向けられる先が、ローゼリンデであってほしかった。
けれど、どんなに願いが叶わなくても、忘れることはできなかった。
彼と過ごした過去の記憶を、なかったことにすることはできなかった。
幼いローゼリンデは折に触れてはあの時間を思い出し、心の宝箱から取り出しては見つめ、静かに愛おしんで過ごした。
そして今日、再会したルカは昔と変わらず明るくて、昔よりずっと立派になっていた。
妻を大切そうにエスコートし、子供たちを世界一可愛いと語る彼は、その名の通り内側から光っているように見えた。
「ルカ様がお幸せそうでよかった……」
「ルカもあなたにそう思っているはずです」
ローゼリンデがつぶやき、アレクシアは穏やかに返した。
アレクシアの落ち着いた物腰に見惚れながら、ローゼリンデはつくづくと実感する。
この
ルカを幸せにしてくれた人なのだ。
ルカはこの人だけを愛している。彼の心は揺らぐことなく、妻ひとりだけにある。
それでも先ほど美しい
それで充分だ。
最初で最後のダンスで、ローゼリンデはやっとこの恋を終わらせることができる。
(……)
ふと、幼なじみのことを思い出した。父のクレーフェ伯爵の共同経営者である男爵家の三男だ。
親どうしの縁でクレーフェ家によく出入りするようになった彼は、薔薇の世話というローゼリンデの趣味を地味だと馬鹿にはしなかった。むしろすすんで園芸の勉強をしてくれ、会うたびに知識を披露してくれた。
お互いに成人を迎えた先日、ローゼリンデは彼からプロポーズを受けた。
クレーフェ家の経済状況は回復してきたとはいえ、まだ富裕とはいいがたい。だが彼はかまわないと言った。
──貧乏暮らしでもいい。贅沢など望まない。ローゼリンデと薔薇を育てて生きていきたい、と。
どんな時もローゼリンデだけを見つめてくれる
これからの人生は彼と誠実に向きあい、支えあって生きていきたい。
幼い恋に終わりを告げて、ローゼリンデは濡れた
「リートベルク辺境伯家のご多幸を……お祈りしております……」
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