第69話 ローゼリンデとの再会
「……もしかして……ローゼリンデ?」
尋ねたルカの言葉に彼女は刹那、ストロベリーブロンドの髪を震わせた。
「はい、ローゼリンデです。覚えていてくださったのですね……」
ローゼリンデは泣くのをこらえたようだったが、こらえきれずに、
「お久しぶりです、ルカ様。ご健勝のようで……何よりです……」
ローゼリンデはクレーフェ伯爵家の次女として生まれた。
父のクレーフェ伯爵は長女のナターリアを伯爵家の跡継ぎに定め、ナターリアの婿として、ヴァルテン男爵家の令息だったルカを選んだ。
ルカはヴァルテン家の長男だが、後継者ではなかった。彼は男爵が結婚前に作った私生児だったからだ。
ヴァルテン家は平民から成り上がった新参の男爵家。そんな家格の低い家の私生児をクレーフェ伯爵はなぜか気に入り、すすんで長女との婚約を結んだ。
『旦那様は事業の不振に悩んでいらっしゃるもの。援助金目当てで婿を選んだのよ』
『ヴァルテン家はお金持ちだものね。資金繰りを解決してくれる相手なら誰でもよかったのよ』
メイドたちがそんな風にささやいていた噂話を、幼いローゼリンデも鵜呑みにしていた。――ルカ本人に会うまでは。
卑しくて、地位も権威もなくて、貴族の中で一番末端だと思っていたのに。
優しくて、屈託も嫌味もなくて、ローゼリンデの知る貴族の中で一番穏やかな人だった。
当時のクレーフェ家は財政難で、後継者のナターリアはともかく、次女のローゼリンデまで着飾る余裕はなかった。質のいい使用人を雇う余裕もなく、ローゼリンデ付きのメイドはいつも仕事をさぼってばかりいた。
誰からも構われず放置されていたローゼリンデに、優しくしてくれたのはルカだけだった。
『ローゼリンデの名前はとても綺麗で素敵だね。"
ルカはそう言って、薔薇を育てることを提案してくれた。
一緒に選んだ苗の植え付けも、肥料の配合も、病害虫の対策も、花がら摘みや切り戻しの作業も、ルカは何もかも器用で上手かった。
ローゼリンデがはりきって水をやりすぎて、苗を枯らしかけてしまった時も、ルカが丁寧に処置をしてよみがえらせてくれた。
『ルカ様はすごいです……!』
彼の貴族らしくない荒れた手は、まるで植物を上手に育てる魔法の手のようで、ローゼリンデはただ憧れた。
伯爵邸の庭の片隅でルカと薔薇を育てたひとときは、寂しかったローゼリンデの子供時代の中で、まるでそこだけ淡い光に包まれたような、大切な思い出だった。
幸せな時間は長くは続かなかった。
姉のナターリアが突然、ルカとの婚約を破棄したのだ。
ルカは富豪で知られる家の長男なのに、いつも質素で慎ましかった。ナターリアはそんな婚約者が不満だったらしい。
『ルカは優しいけれど、豪華な贈り物の一つもしてくれないの』
『どうしていつも貧相でみすぼらしい格好なのかしら。一緒にいるのが恥ずかしいわ』
『私のことが好きならもっと情熱的に告白してくれればいいのに。まるで愛されていないみたいで物足りないわ』
姉がそう文句を垂れていたあたりで、ローゼリンデも嫌な予感はしていたのだが、案の定だった。
ナターリアは家族に何の相談もなく、独断でルカとの婚約破棄を宣言した。
しかも新たな婚約者は、ルカの弟でヴァルテン家の次男のマティアスだ。
ナターリアはルカが貧相で恥ずかしいと言ったけれど、兄から弟に乗り換えるなんて、そっちの方がよっぽど恥ずかしいのではないだろうか。
それにマティアスはルカとは全然似ていない兄弟で、外見は豪奢だが中身は軽薄な男だった。ナターリアに会いにクレーフェ家に来ておきながら、メイドと浮気している現場さえ目撃したことがある。
幼いローゼリンデには何をしているのかよくわからなかったけれど、とてつもない嫌悪感を抱いたことは忘れられない。
『マティアス様とは結婚しないで! お姉さま!』
思わず姉の部屋に行ってそう訴えたけれど、聞き入れてはもらえなかった。わがままを言うなと叱られただけだった。
『ルカさまがよかったの! ルカさまにお兄さまになってほしかった!』
――もう一度ルカと婚約し直してほしい。ローゼリンデはそう懇願したけれど、願いは叶わなかった。
年が離れていたこともあり、もともと良かったわけではない姉妹仲には、さらに決定的な亀裂が入った。その溝は今なお修復できたとは言いがたい。
ナターリアは「マティアスこそ運命の人なの!」とか「私は真実の愛に出会ったのよ!」とかうっとりと酔いしれていたが、その「真実の愛」とやらはすぐに破綻した。
伯爵家と男爵家の意向が折り合わず、二人の結婚話は遅々として進まなかったし、「運命の人」だったはずのマティアスは悪質な事件を起こして、有罪判決まで受ける事態になった。
マティアスが罪人になったことで、ナターリアは彼に見切りをつけ、婚約を破棄した。
ローゼリンデは子供心に「お姉さまは真実の愛を貫かなくていいのかな……?」と思ったが、ナターリアは迷うことなくルカに会いに行った。
あの時、姉とルカ、そして父の間でいったいどんな会話がかわされたのか、ローゼリンデは知らない。
しかし、話し合いの末に伯爵邸に帰ってきた時。父はクレーフェ家の跡継ぎはローゼリンデだと改めて宣言した。ナターリアを廃嫡とし、正式にローゼリンデを後継者の座に据えると。
ナターリアは廃嫡されたショックが大きかったのか、王都を出てクレーフェ家の領地に移り住んだ。
二度に及ぶ婚約の破談で、外聞が悪かったのもあるのかもしれない。人目を避けて領地に引きこもったナターリアは、ローゼリンデともほとんど顔を合わせることがなくなった。
後継者に指名されたローゼリンデはとまどったが、父の期待を裏切る気持ちにはなれなかった。
『ローゼリンデ。ルカ君がおまえに謝っていた』
これまで仕事にかかりきりで、ローゼリンデに構ってくれたことのなかった父が、はじめて向き合ってそう話してくれたからだ。
『ルカ君はおまえとの約束を守れず申し訳ないと詫びていたよ。おまえと一緒に薔薇を育ててていこうと言ったのに、果たせなくなってすまないと……』
涙があふれた。
ルカは約束を覚えていた。ローゼリンデを忘れずにいてくれた。
ルカともう会えなくなったことは悲しかったけれど。ローゼリンデの大切な思い出は彼の中にもちゃんと残っていたのだと、そう知れたことがとても嬉しかった。
その日、ローゼリンデは生まれて初めて、父とゆっくり語り合う時間を持った。
実は父もルカの人柄を気に入って、純粋に息子に迎えたいと願っていたらしい。
ヴァルテン家の援助目当ての婚約だとばかり聞いていたので驚いたし、自分と父は意外と似たものどうしだと知って面白かった。
『お父さまも……? そうだったのですか……?』
『ああ、まさかおまえも同じように思っていたとは……』
照れくさそうに語った父は、それまでの近寄りがたかった姿とは別人に見えた。
一緒に残念がり、一緒に姉にぶつぶつと文句を言い、父と娘の距離は急速に縮まった。
ローゼリンデが伯爵家を継ぐために精一杯努力することを誓うと、父は嬉しそうにうなずいて、頭を優しく撫でてくれた。
それから七年近く経った、今。
伯爵家の後継者として研鑽を積む日々の中、ローゼリンデは成人を迎えた。
そして今日。ついに参加できるようになった公式のパーティーで、ようやくルカと再会することができたのだ。
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