第79話 秋の祭り③

――そう言えば、とルカはあたりを見回した。


 今日はエヴァルトとモニカ夫妻も、子供たちを連れてこの祭りに来ているはずだ。


 敏腕執事のエヴァルトと有能管財人のモニカには、日頃から世話になっている。


(せっかくの休日だし、家族でお祭りを楽しんでくれているといいけれど……)


 ルカは走り出そうとする息子を体を張って止めつつ、そう願った。




***




「モ、モニカ!? モニカじゃないか!?」


 中年の男から通りすがりに名前を呼ばれて、モニカははっと息を飲んだ。


「えっ……! まさか……?」


 記憶よりも一段と薄くなった頭頂部が、秋の夕陽を浴びててかてかと光っている。腹まわりには贅肉がたくわえられ、顔も一段と丸くなっていたが、人相はかろうじて判別できた。


 モニカが王都に暮らしていた頃、結婚していた相手。要するに元夫だ。


「久しぶりだなモニカ! こんなところで会うなんて……運命だな!」


 すっかり老けて太った元夫にモニカは言葉を失ったが、彼は嬉しそうに声をはずませて近寄ってきた。


「おまえも観光か? この地方の祭りは特に盛況だって言うからな。一度見てみたいと思っていたんだ」

「……いいえ。私はこの近くに住んでいるの」

「そうなのか? なかなか連絡が取れないと思っていたが、こんな遠方に移住していたとは……そんなに俺と別れてショックだったんだな……」


──何か勘違いされている、とモニカは眼鏡を曇らせた。そもそも別れたのになぜ連絡を取ろうとするのかもわからない。


「ここで会ったのも何かの縁だな。モニカ、一緒に祭りを見て回らないか?」

「え、嫌です。どうしてあなたと?」


 モニカは反射的に拒絶して、元夫から距離を取った。


「あなたには離婚する前から別のお相手がいたでしょう? その方と回ったら?」

「し……知ってたのか?!」

「当たり前でしょう」


 そう、元夫は婚姻中から他の女に手を出していたのだ。すでにモニカの心は冷め、離婚を決意していたこともあって、あえて不倫を追及することはしなかったが。


「ち、違うんだ、モニカ! やっぱりあんな若いだけの女はダメだ! 学歴も教養もなくて話が合わないんだ。おまえの方がずっと稼ぐし、家事の手際もいいし……」


 元夫は必死に弁解するが、言えば言うほどモニカの目は冷たくなっていく。


「父さんも母さんもあの女にはうんざりして、やっぱり優秀なモニカの方がよかったって言っていたんだ。良かったな! 今ならおまえのことも許してくれるぞ!」

「許してくれる? 何を?」


 有責者は元夫だ。許すとしたらモニカの側だが、そもそも二度と関わる気はない。


「あなたにもご両親にも、許しを請うことなんて何もありません」


 モニカが素っ気なく答えると、元夫は気分を害したようだった。「おい、強がるなよ」と顔をひきつらせる。


「おまえも別れて俺のありがたみがわかったんじゃないか? 離婚歴のある年増の女をもらってくれる男なんているわけないし、一人で生きていくのは寂しいだろ? ほら、過去のことは水に流してやるからさ、もう一度俺とやり直そう」


 モニカはため息を吐いて、痛む頭を押さえた。


(私……なんでこんな人と結婚していたのかしら……)


 いや、以前はまともな人だったのだ。これでも。


 かつてはもっと痩せていて、優しくて、尊敬できる人だったのだ。結婚後に本性を現すまでは


「モニカ、おまえが前に働いていた男爵家は高給だったよな? おまえなら同じような職にまた就けるだろう? 家のことは手の空いた時にやってくれればいいからさ。父さんと母さんも一緒に住めるように大きな家を借りて──」


 やり直すなど一言も言っていないのに、元夫は着々と復縁プランを進めていく。


「勝手なことを言わないで! 私は──」


 さすがに我慢できず、モニカが反論しようとした時だった。


「失礼。モニカさんに何かご用ですか?」


 エヴァルトが二人の間にさっと割って入った。


 知人かと思って今まで様子を見ていたが、モニカがいかにも不快そうなので、もう黙ってはいられない。


「な、なんだ、おまえ!?」

「モニカさんの夫です。私の最愛の妻に何かお話が?」

「はっ……はあ? モニカの夫!?」


 エヴァルトとモニカを交互に指さしながら愕然とする男を、エヴァルトは眼鏡の奥から冷たく睨んだ。


「モニカさん、この方が前のご主人ですか?」

「ええ、そうです。当時はこんなに頭が寂しくはなかったのですが……」

「頭のことはいいだろう!」


 元夫はあわてて頭を手で隠しながら、憤然といきり立った。


「う、浮気だ! 俺という者がいながらそんな男と浮気しやがって!」


 モニカはくらくらする頭を押さえた。


 エヴァルトと出会ったのは元夫との離婚後なのに、何がどう浮気だというのだろう。自分が不倫していたからといって一緒にしないでほしい。


「あなたと別れて本当に良かったわ。優しくて素敵な夫と出会えたもの。私は幸せに暮らしていますので、それでは」


 まともに相手をするのもばからしくて、話を断ち切ろうとすると、元夫は嘲るように笑った。


「おい、モニカ! それは詐欺だぞ!」

「詐欺?」

「不妊のくせに若い男を騙して再婚に持ち込むなんて、詐欺に決まっているだろうが! おまえは自分が子供を産めない体質だってこと、この旦那に隠して──」


 わめき立てる元夫のだみ声に重なって、純粋無垢な子供たちの声が響いた。


「おかあさーん!」

「ママぁ~!」


 手をつないで戻ってきたのは、三歳ほどの男の子と二歳ほどの女の子だった。


 男の子はエヴァルトとモニカの息子のエドアルド。女の子は娘のトリシアだ。二人ともほかほかと湯気の立つ紙袋を手に持っている。


「はい。おつり。ちゃんとシアの分とふたつ買ったよ」

「ありがとう、エド。よくできたわね」


 エドアルドは神童と言われるほど賢い子だ。三歳だが大人顔負けの会話ができるし、読み書きもぐんぐん覚えつつある。父のエヴァルトは常々「モニカさんの子なのだから天才に決まっています!」と公言していた。


 今もエドアルドは自分でスノーボールシュネーバルを買いたいと言い出して小銭をもらい、妹のトリシアの手を引いて屋台に並んでいた。両親は少し離れたところから、子供たちのおつかいを見守っていたのだ。


「モニカ……そ、そ、その子たちは……?」

「私の子供たちです」

「お……おまえ、不妊じゃなかったのかよ!?」

「私もそう思っていたのだけれど、今の夫と結婚してすぐに授かりました」


 モニカはかつて元夫との間に子供ができず、彼も彼の両親からもひどく責められて離婚した。


 しかしエヴァルトと再婚後、あっという間に妊娠したのを見る限り、どうやら原因はモニカではなかったらしい。


「そ……そんな……!」


 元夫は打ちひしがれながら、まじまじとエドアルドの顔を見つめて膝を打った。


「待ってくれ、モニカ! この子は俺の子じゃないのか?」

「はぁ!?」

「離婚した時、おまえは実は妊娠していたんじゃないか? ほら、この子は賢そうな顔をしてるし、本当は俺の血を引いているんだろう?」


 モニカはわなわなと身震いした。


 今すぐエドアルドの生年月日を突きつけて、前夫と離婚した時期とは三年近く隔たりがあることを教えてやりたい。


「おまえ、俺の幸せを願って身を引いたのか? バカなことを……」

「バカなのはあなたです! 息子も娘も正真正銘、夫の子ですから!」


 モニカは声の限りに言い切って、申し訳なさそうにエヴァルトを見上げた。


「ごめんなさい、エヴァルトさん。ここまで変な人ではなかったはずなのですが……」

「あなたを手放したら運にも見放されてしまったのでしょうね。私は絶対にそんな愚かな真似はしませんが」


 エヴァルトはモニカを引き寄せて肩を抱くと、冷ややかに元夫を見下ろした。


「二度とモニカさんに近付かないでください。彼女のことは私が一生大切にしますので、どうぞご心配なく」


 冷静沈着頭脳明晰な敏腕執事の鋭い牽制けんせいが吹き荒れる。


 氷雪のような視線に刺された元夫は、体の芯まで凍るほどの恐怖を感じずにはいられなかった。


「エド、シア。行きましょうね」


 モニカは息子と娘の手を取った。子供たちに挟まれ、エヴァルトに背後をがっちりガードされながら、振り向きもせずに立ち去っていく。


「モニカぁ! 俺が悪かった! 戻ってきてくれ……!」


 未練がましくすがる声が、晩秋の木枯らしにかすれて消えていった。

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