第85話 再会

「……しまった……」


 シロツメクサの咲く丘で、私は途方に暮れた。


 私の左右では、エリザベートとヴォルフリックが草を枕にしてすやすやと眠っている。


 子供たちだけで知らない町をさまよった疲れが出たのだろう。無事に四つ葉のクローバーを見つけた安堵もあったかもしれない。


 私が二人にもらった花に感動して、うっかり過去の思い出に浸っている間に、二人とも力尽きたように眠り込んでしまったのだ。


「ど……どうしたものか……」


 一人を先に家まで運ぶことも考えたが、もう一人を短時間でもこんな野外に置いていくことはできない。


 覚悟を決めてエリザベートを背負い、ヴォルフリックを抱き上げる。


(お、重い……)


 こんなに小さいのに、力の抜けた体はとても重たく感じる。


 眠った子供は重いのだということを、私はこの時初めて知った。


(げ、限界だ……!)


 腕が悲鳴をあげている。膝が完全に笑っている。腰に至ってはもう死んでいる。


 自慢ではないが私はこれまで力仕事などしたことがないのだ。富豪の家に生まれ、経済的に不自由したこともなく、肉体労働とは無縁の人生を歩んできた。


 しかしここで投げ出すことはできない。この腕が折れようと二人だけは守らなくてはと、必死に歯を食いしばる。


「う……おぉぉ……」

 

 息を切らして道を歩き続け、ようやく家に帰りついた時は、心の底からほっとした。


「はぁ……はぁ……」


 整えてあったベッドに二人を並んで寝かせ、肩まで毛布をかけた時点で、体力のすべてを使い果たした気分だった。


 当たり前のように何人も子供を育てている近所の住民たちに尊敬の念が湧いてきた。こんな重労働を毎日こなしているなんて、みんな超人なのだろうか。

 

 だが規則正しく寝息を立てている孫たちをながめていると、疲労さえも心地よく感じられるのだから不思議なものだ。


 身びいきではなく、エリザベートもヴォルフリックも美形である。いや本当に孫だから言っているわけではなく、二人とも客観的に見てとても整った容姿をしていると思う。


──いつまでも見ていられるな……と感じた時だった。


 石畳を駆け抜ける足音が路地に響いたかと思うと、コンコンと鋳鉄のドアノッカーをたたく音がした。


「……やっと来たか」


 そろそろと立ち上がると、扉の向こうから声がした。


「夜分にすみません。うちの子たちがこちらの住所にお世話になっていると──」


 聞き覚えのある声だ。使用人に任せるかと思ったが、自分で来たらしい。


 黙って扉を開けてやった途端、水色の双眸が大きく見開かれた。明るいハニーブロンドの髪が、夜の暗がりの中にもはっきりと目立っている。


「……父……上……!?」

「久しぶりだな、ルカ」


 最後に別れた日から何年も経っているのに、息子の見た目はあまり変わっていなかった。さらに精悍になったような気がするが、童顔なのは相変わらずだ。


「父上!? どうし──」

「静かにしなさい。二人が起きてしまうだろう」


 指を口に当てて声を低めると、息子はすぐに子供たちを見つけたようだった。


「リザ! ヴォルフ!」


 名前を呼んで、ベッドサイドに膝をつく。子供たちに怪我や異変がないかを確かめてから、息子は私を振り返った。


「父上……」

「何も話すことはない。早く行きなさい」


 私は胸ポケットに入れていたハンカチを取り出した。


 包んだハンカチを開けば、先ほど摘んだばかりの四つ葉のクローバー。


「この子たちがせっかく見つけたのだ。適切に保存の処理をすれば、リートベルクまでもつだろう」

「これは……? 子供たちが……?」


 息子は驚いた顔をしたが、子供たちがなぜ四つ葉のクローバーを探していたのかも、誰に渡したいと思っているのかも、すぐに察したようだった。


「……良い子たちだ。おまえが幸せに暮らしていることはよくわかった。……それで充分だ」

 

 二人とも素直な子だ。よく笑い、朗らかで、屈託もなく人見知りもしない、本当に愛らしい子供たちだ。


 私の息子もそうだった。こんな情けない父を持ったというのに、素直で心優しい子に育ってくれた。


 それなのに、私は何もしなかった。


 このわずかな時間でエリザベートとヴォルフリックにしたようなことを、私は息子に何もしてやらなかった。


 息子の望みを聞いてどこかに出かけたことなどなかった。

 眠った息子を背負って、重みに耐えながら帰ったこともなかった。

 親として盾になって守ることさえ、一度もしようとしなかった。


「すまなかった……私はおまえに父と呼ばれる資格はない」

「……」


 先ほど「何も話すことはない」と言ったが、本当は違う。


 積もる話はいくらでもある。だが、私には息子に合わせる顔がないのだ。


「おまえの父は前辺境伯だけだ。これからもあの方を大切にしなさい」

「はい」

「あと、いい年をしてだいしゅきとかきゃわゆすとか言うのはやめなさい。前辺境伯を巻き込むんじゃない」

「何を聞いたんですか!? 巻き込……?」


 私がそっぽを向くと、息子は片手にエリザベートを、もう片手にヴォルフリックを抱き上げた。特に重さを感じている様子もない、慣れた手つきだ。


……ずいぶん軽々と持つな、と何となく悔しい気持ちになる。


「父上……」


 息子は家の中をぐるりと見回した。


 かつて住んでいた男爵邸に比べれば、ずっと手狭で質素なので驚いているのかもしれない。


 これでも住めば都なのだが、落ちぶれた哀れな老人に見えるだろうか。


――と思ったが、息子の表情に哀れみの色はなかった。むしろ昔よりも顔色のいい私に安堵したようで、ほっと頬をゆるめる。


「……父上が譲ってくれた財産のおかげで、僕は自由にやりたいことができています。本当にありがとうございました」


――変わっていないな、と私は唇を噛んだ。


 おまえが紡ぐのは今でも、恨み言ではなく感謝の言葉なのか……。


「お元気で、父上」

「……おまえもな。ルカ」


「光」を意味するその名前は、私の愛した女性が考えたものだ。


 息子には彼女が残した名と命を大切にして生きてほしい。


 そう願いながら、私は宵の中に消えていく後ろ姿をいつまでも見送っていた。




***




 子供たちのいなくなった部屋は、別段いつもと変わりはしないのに、いつもよりもずっと寂しくて空虚に見えた。


「……宝石のような夜だったな」


 まるで夏至の夜に妖精が見せてくれた幻のような、夢のようなひとときだった。


 私は痛む体をさすりながら、もう一度立ち上がった。


 腕は悲鳴をあげていたし、膝は笑っていたし、腰に至っては死んでいたが、眠る気にはなれなかった。それよりもあの子たちがくれた花を、早く彼女にも見せたいと思った。


 数えきれないほど往復した墓地への道は体が覚えていて、どんな闇夜の中でも、目をつぶっていてもたどりつける。


 私は彼女の墓前に孫たちからの花を供えながら、静かに話しかけた。


「……リートベルク女辺境伯に、三人目の子が生まれるそうだよ……」


 ただでさえめったにいない女性当主が、現役でありながら出産するのは異例のことだ。


 おそらくニュースになるだろうと予想しながら、私はその記事を切り抜いて飾る日を、心から楽しみにするのだった。





Fin.





──────────────

アウグストの番外編読んでいただきありがとうございました。

次回からは本編の続きをお送りします

よろしくお願いします!

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