【番外編】アウグスト・ヴァルテン

第81話 アウグスト・ヴァルテン

 かつてこの国には、ヴァルテン男爵という貴族の家があった。


 錬金術師と呼ばれた初代当主の才腕によって、商家から男爵にまで成り上がった新興貴族。


 私はその家の、最後の当主だった──。





 先代男爵だった父を急な事故で亡くし、一人息子だった私は急遽、家督を継ぐことになった。


 しかし貴族の爵位とは自動的に継承されるものではない。

 

 ヴァルテン家が歴史の浅い、新参貴族のせいだろうか。我が家を成り上がりと見下す高位貴族たちは、まるで私に襲爵しゅうしゃくの資格があるか試すかのように、慣例以上の煩雑な手続きを課してきた。


 嫌がらせのような書類の山と、父が亡くなった事故の後始末。


 膨大な雑務をやっとの思いでこなし、ようやく代替わりの承認を得て、正式にヴァルテン男爵位を与えられた時。私は貴重な青春の日々を忙殺されて過ごしてしまったことに愕然とした。


 気がつけば同年代の令息たちはみんな華やかなパーティーを渡り歩いて社交を深め、家柄の釣りあう令嬢たちと婚約や結婚を果たしていた。


 一方、多忙のあまり出会いの機会さえなかった私には、婚約者はおろか想いを寄せる相手もいない。


 あわただしい日々を乗り越え、久々に落ち着いた生活を取り戻したことが、かえって私に寂寥せきりょう感を募らせた。


 驕慢な社交界から目をそむけ、私は平民たちの暮らす下町に降りた。


 そして気まぐれにふらりと庶民の生活を見物するうちに――彼女と出会ったのだ。


 町角に建つ小さな花屋の軒先で。彼女は忙しくも元気に働いていた。

 

(花の……精か……?)


 蜂蜜のような明るい金の髪。髪によく似合うまぶしくて屈託のない笑顔。


 店に並ぶどんな花々よりも朗らかに笑う彼女を、私は本気で花の妖精なのかと疑った。


 気がついた時にはもう彼女に話しかけていたが、気取った甘いセリフなどとっさに出てくるはずもなく、完全にただの客と認識され、おすすめだという季節の花を購入しただけで終わった。我ながら情けない。


 それでも彼女のことが忘れられなかった私は、足しげく店に通い、花を買い求めるのを日課とした。


 彼女は社交界にいる令嬢の誰とも違った。素直で、純粋で、天真爛漫な彼女に私はどんどん惹かれていった。


 何の駆け引きも、裏表も、腹の探りあいもない彼女との会話が心地よかった。素のままでいられる彼女との時間は、いつしか私にとってかけがえのないものになっていた。


 連日のように店に通いつめて、どのくらい経っただろうか。


 彼女はいつものように手際よく花の水切りをし、慣れた手つきで包みながら、私に笑いかけた。

 

「いつもありがとう。本当に花が好きなのね」

「……花が好きなんじゃない。君が好きなんだ!」


 とっさに出た言葉が、抑えていた感情に火をつけた。


 とにかく勢いに任せて口説いて口説いて、本気にされなくても口説き続けて、時間はかかったが何とか彼女に振り向いてもらうことができた。


 あんなに熱心に誰かに迫ったのは、後にも先にも人生であの時だけだ。


 念願かなって恋人と名乗れるようになった後、私は彼女に新築の家を一軒買い与えた。


 共に過ごせるのなら安い買い物だったのだが、彼女は目を丸くして驚いていた。


 私は自分が貴族であることを、それも男爵位とはいえ当主であることを彼女には伝えなかった。言えば彼女との間に距離が生まれてしまうような気がしたのだ。


 清らかな彼女には、血統と権力をかさに着た高慢な世界など知らずにいてほしい。


 私はますます貴族社会から遠ざかり、彼女の家に通いつめた。


「あのね……話があるの……」


 半同棲のような生活に耽溺たんできして、一年近くが経った頃。彼女はおずおずとそう切り出した。


「子供ができたみたい」


 椅子から転げ落ちるほど驚いた。


 驚いたが、次いで湧きあがってきたのは、途方もなく大きな喜びだった。


 私は彼女とお腹の子を必ず大切にすると誓い、二人の生活を保障すると約束した。


 彼女は私がいくら金銭を援助すると説得しても、勤めている店を辞めたくないと言って、出産の直前まで働き続けた。


 生まれたのは男の子だった。

 

 彼女の明るいハニーブロンドを受け継いだ赤子は、まるで光を集めたようにきらきらと輝いて見えて、私たちは息子に「光」を意味する名前を付けた。


 しかし彼女は産後の肥立ちが悪く、敗血症にまでかかってしまった。


 高熱に浮かされて朦朧もうろうとしながら、彼女は私の手を取って頼んだ。


「その子をお願いします。私の分まで……大切に育てて……」


 それが彼女の最後の言葉で、願いだった。

 

 愛した女性を亡くした瞬間、私は空っぽになってしまった。


 彼女の最後の望みを叶えようと、生まれたばかりの息子を男爵邸に連れ帰ったものの、それからの私は喪失感に沈みきり、すっかり廃人と化した。


 周囲は私に早く正式な結婚をしろと急かした。──息子のためにも母親がいた方がいい。地位のある貴族の妻をめとれ──と。


 私は焦燥に駆られ、正常な判断力を欠いた状態で、たった一度見合いで会っただけの伯爵令嬢と結婚した。後から思えば、この決断は私の人生で最大の誤りだったのだが。


 妻は見合いの席と新婚当初こそ猫をかぶっていたものの、妊娠が判明した直後から化けの皮を剥ぐように本性を現した。


 やがて次男が誕生し、妻はますます横暴になっていった。我が家の跡継ぎを産んでやったのだと威張り散らし、資産を好き放題に浪費し続けた。


 妻のヒステリーにはほとほと嫌気がさしたが、立ち向かう気力は私にはなかった。離婚を申し出れば手がつけられないほど激怒されるのは目に見えている。ただただ気が重くて、億劫で、妻と関わりたくなかった。


 愛した女性のいない世界は空虚で、何の彩りもない。私はもう何もかもがどうでもよかった。


 妻が次男だけを溺愛しても、長男を冷遇しても、派手に金を使い込んでも、私は何の気力も湧かないまま、殻に閉じこもって看過していた。


 そんな暗い日々から解放されたのは、二十年近くの時が経ってからだった。


 王立裁判所の大法廷にて行われた口頭弁論において、次男が私の子ではないことが科学的に証明されたのだ。


 妻は他の男との子を、私の子と偽って育てていた。


 私の実子はただ一人、愛した女性が産んでくれた長男だけだったのだ。


 相続権を失った次男にかわり、我が家の相続人と認められた長男は、爵位を放棄すると申し出た。──ヴァルテン男爵家を廃絶とし、リートベルク辺境伯家の婿に入ると。


 異論はなかった。

 ヴァルテン一族は元より平民から成り上がった。ならば私が平民に戻ることに、何の問題があるだろう。


 私は男爵位を退き、領地を王家に返上した。貴族の「アウグスト・ゲオルグ・ヴァルテン」だった私は、ミドルネームを失い、平民の「アウグスト・ヴァルテン」となった。


 ヴァルテン家の財産はすべて息子に譲った。金で長年の私の愚行があがなえるはずもない。息子を守れなかった罪滅ぼしにはならないと知っているが、私にできることはこのくらいしかなかったのだ。


 息子はもう私など振り返ることなく、新たな居場所へと旅立っていった。ヴァルテンの姓を捨て、リートベルクの姓と新しいミドルネームを得て、第二の人生を歩み始めた。


 貴族の男は父親の名をミドルネームに名乗ることが多いが、息子のミドルネームはリートベルク辺境伯の名だ。


 息子にとっての父は、私ではない。

 我が子に父と、孫に祖父と呼ばれる資格は、とうの昔に失ってしまった。


 息子の未来に私はもう必要がない。そういう存在に、自分から成り下がってしまったのだ。


 私にできることはもう、亡くなった彼女の冥福を祈り、息子とその家族に幸あれと願うことだけだった――。



……幸あれと願うことだけ……のはず……だったのだが……。




(……これは……いったい……!?)


 見慣れた墓石の前には、見慣れない子供たち。


 金髪の女の子と黒髪の男の子が手をつないで、ふらふらと墓地をさまよっている。


「あねうえぇ……ごめんなさいぃ……」

「大丈夫よ、ヴォルフ。泣かないで」

 

 突然現れた二人の子供に、私の静かな日々は破られたのだった。

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