第60話 類名
ヴィクトル様に抱えられたまま、スノードロップの咲く庭を一周する。
散歩の後は城内に戻って、料理人たちが用意してくれた料理を一緒に囲んだ。
ヴィクトル様自ら、暖炉に火を入れてくれた。あたたかな空気に満たされた部屋で、留守中のできごとなどをあれこれとおしゃべりする。
楽しくお話している間にも、お腹の中で空気がはじけるみたいに、ぽこぽこと小さな振動が鳴るのを感じた。
「お医者さまも、問題なく順調に育っているとおっしゃってくださっています。とても楽しみです」
「ああ、何よりだ。私も楽しみで仕方ない」
大きな手をそっと私のお腹に当てて、嬉しそうに言ってくれる旦那様の表情に、胸がいっぱいになった。
子供を望んだのは私の方だった。
私たちが婚約した時。ヴィクトル様は出産に耐えられないかもしれない私の体を気遣って、実子はいらないと言った。リートベルク家の跡継ぎには傍系の親族から養子を迎えると。
だから、出産を義務などと思わなくていい。子供が欲しくて求婚したわけではない。私と添い遂げられればそれでいいと言ってくれたのだが、私の方からヴィクトル様の子がほしいと懇願した。
──あなたの子を産みたいのです。どうか私に産ませてください──と、今思えばかなりはしたないことを言った記憶がある。
ヴィクトル様は心配しつつも、私の希望を尊重してくれた。
そして結婚して四年目になる今年。ようやく念願の第一子を授かったのだ。
「お医者様から、赤ちゃんには外界の音が聴こえていると教わりました。たくさん話しかけてあげれば、私たちの声を覚えて反応してくれるんですって」
そんな会話をしてからは、二人でお腹に話しかけるのが日課になった。
きっと胎内には本当に外の声が聞こえているのだろう。語りかけると不思議と、赤ちゃんがお腹の中で動く頻度も高くなる気がする。
そんな小さな命の躍動を微笑ましく、愛おしく感じていたのだけれど……すぐにそんな悠長なことを言ってはいられなくなった。
「いたたた……」
胎動は日増しに強くなっていったのだ。
小さな手袋が両方編みあがり、靴下の制作に突入した頃には、お腹を内側から蹴られると悶絶してしまうくらい、脚力が強くなっていた。
「大丈夫か!?」
「はい。だいじょ……うっ……」
答えようとしたところで、また力強い蹴りをお見舞いされる。思わず言葉を失って、うぅっ……と眉間をしかめてしまった。
「ルイーゼ!」
「大丈夫です。元気な子で嬉しいです」
何とか笑顔を作って答えたものの、ヴィクトル様はおろおろと心配そうにしていた。
「こんなに活発ということは、男の子でしょうか?」
「かもしれないな。どちらでも嬉しいが」
「ヴィクトル様に似た子であってほしいです。あなたにそっくりな男の子だったら、どんなに幸せかしら……」
ヴィクトル様に似た男の子を想像しながら、お手柔らかにしてほしいとお腹を撫でて
赤ちゃんの力がこんなに強くて、胎動がこんなに痛いものだなんて知らなかった。みんなこうなのかしら?
お腹を蹴られるたびに毎回痛みで動けなくなったが、それでも何年も妊娠を望んでいた私にとっては、我が子が元気だと感じられる喜びの方が大きかった。
幸せに満ち足りた妊婦生活だったのだが、いよいよ妊娠後期に入るという頃、とても悲しい出来事があった。
リートベルクのお義父様が亡くなられたのだ。
お義父様──先代辺境伯であったアレクサンダー様は、私たちの結婚よりも前に辺境伯の地位を退いていた。
引退のきっかけは、ヴィクトル様の立てた戦功によってリートベルク家が
アレクサンダー様は「この
お義父様は寡黙で謹厳実直な、しかしお優しい方だった。常に私を尊重して見守ってくださったのは、私が元公爵令嬢だからというだけではないだろう。
嫁いでから何年も跡継ぎを産めずにいた私を、きっと不安に思われた時もあっただろうに、一度だって急かすようなことを言われたことはなかった。
ようやく妊娠することができて、私の体調も安定して、産み月が見えてきた矢先だというのに、お義父様は私たちの子を見ることなく亡くなってしまわれた。
峻厳で言葉少ない物腰の中にも、お義父様がどんなに初孫を楽しみにしてくださっているか、ひしひしと感じられていたのに。
「生まれてくる子は、お義父様のお名前に
数十年にわたって辺境伯のお役目を努め上げられた偉大なお義父様の名にあやかりたい。私がそう提案すると、ヴィクトル様は迷うように言った。
「別に父上の名に倣う必要はないが……。ルイーゼがそう言ってくれるのなら……」
お義父様の名である「アレクサンダー」は、ヴィクトル様のミドルネームでもある。
そのまま名付けるのはヴィクトル様とまぎらわしくて呼びにくいので、類名を考える。
「アレク」には「守護者」「守り人」という意味がある。護国のお役目を司る辺境伯家の人間にふさわしい響きだ。
アレクシスならば呼びやすいだろうかとか、アレクサンドラやアレクサンドリーナは長いだろうかとか、真剣に思案する。
かくして、私たちの子供は生まれる前から名前が決定した。
男の子ならアレクシス・ヴィクトル・リートベルク。
女の子ならアレクシア・ルイーゼ・リートベルク。
名前を呼ぶ日を心待ちにしながら、私は毎日欠かさず神様にお祈りをした。
──どうかこの子を、アレクシスと呼べますように。
──どうか、ヴィクトル様に似た男の子でありますように。
──ヴィクトル様の名をミドルネームに持ち、辺境伯としてこの地を統べるにふさわしい、強い子が生まれますように。
やがて舞い散る銀雪が桜やミモザの花吹雪へと変わり、霜の降りた寒い空が薄桃色の遼天に変わるころ。
私たち夫婦の最初で最後の子が、この世に生を受けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます