第61話 誕生

 ゆりかごの中では、へその緒を切ったばかりの新生児がすやすやと眠っていた。


 産湯を使ってもらった後の髪はまだ濡れていて、窓からさしこむ陽光を浴びながら、きらきらと輝いている。


「……アレクシア……」


 初めて名前を呼ぶと、愛おしさがこみあげてくる。


 娘が元気に生まれてきてくれたことへの安堵と、私自身もこうして無事に生きていることへの感謝が、尽きることなく胸にあふれた。


 五つも指があるのが不思議なくらい小さな手にそっと触れると、ぎゅっと私の指をにぎりかえしてくれる。あたたかな指先から、幸福がいっぱいに芽吹いて私を包んだ。

 

 そう、とても幸せだった。間違いなく。それなのに──。


 心の奥から、自分で自分を責める黒い声が響く。──男の子ではなかった。


 私は跡継ぎとなる男児を産めなかった。


 できることならば男の子を産みたい。そう願っていたつもりだったが、その「できることならば」は、思っていたよりも根が深かったらしい。


 自分で思うよりもずっと、私は男の子にこだわっていた。どうか息子であってほしいと願っていた。


 だって、自分の体のことは自分が一番よくわかっている。


 結婚から妊娠まで何年もかかったのは、間違いなく私のひ弱な体質のせいだ。ヴィクトル様は頑強で健康そのものなのに、私が虚弱なせいでなかなか身ごもることができなかったのだ。


 二人目は望めないだろうということも、直感的にわかっていた。私はもう次の子は産めない。


 だから今回の出産は、私の人生でたった一度きりのチャンスだったのだ。


 それなのに、私はヴィクトル様の後継者を産むことができなかった。当主の妻としての役目を果たせなかった。


 目の前の小さな娘はとてもいとおしいのに、一方でどうしても自分を責めずにはいられない。


「……」


 ふと顔を上げると、ヴィクトル様はびしばし叱られていた。


「旦那様! そんなへっぴり腰ではかえって危のうございますよ! ほら、しっかりなさってくださいませ!」


 ヴィクトル様を叱りつけているのは、少し前に乳母として雇った女性である。名前はブリギッタ。

 

 初めて娘を抱こうと試みるも、肩に力が入りすぎてガチガチにこわばっているヴィクトル様を、ブリギッタは威勢よく指導していた。


「……ムリ……デキナイ……」


 ヴィクトル様は己の強すぎる力を制御できない哀しき怪物みたいになっている。

 

 がっしりとした大きな体格のヴィクトル様と、生まれたばかりの小さな娘は、遠近法が狂ったのかと思うほどサイズの差が激しすぎた。


「あなた。一緒に抱っこしましょう」


 声をかけて、白いおくるみごと娘をそっと抱き上げると、ヴィクトル様は背後から手を回して、アレクシアと私をいっぺんに抱きしめてくれた。


「可愛いですね」

「ああ、可愛すぎる」


 ずっと会いたかった我が子が、無事に生まれて目の前にいる。私たちは何度も可愛い可愛いとくりかえした。


「ヴィクトル様と同じ黒髪ですね。綺麗な色……」

「瞳は君と同じ色だな。ルイーゼの青い目にそっくりだ。こんなに嬉しいことはない」


 私はためらったが、どうしても胸に渦巻く申し訳なさを打ち消せなかった。視線を反らしながら、おずおずと尋ねる。


「……ヴィクトル様は……この子が男の子だったらよかったと思いますか?」

「いや、まったく」


 即答だった。一瞬の迷いもなく否定されて、私はびっくりする。


「ルイーゼ。私はこの子がいい」


 私たちを二人まとめて抱きしめる大きな手に、あたたかな力がこもる。ヴィクトル様ははっきりと言った。


「ルイーゼが十月も大切に育んでくれたこの子が、私たちが毎日話しかけていたこの子が、君が痛がるほど元気よく腹を蹴っていたこの子がいい。この子でなくては嫌なんだ」


──神がこの子を息子と取り替えてやると言われても、絶対に断る。


 ヴィクトル様がはっきりと言い切るのを聞いて、私の頬に涙がつたった。


「ルイーゼ、本当にありがとう。君とアレクシアがいてくれれば、他には何もいらない」

「ヴィクトル様……」


 涙が止まらなくて、私は娘を抱きしめた。


 男だとか女だとか、どうだってよかった。五体満足で生まれきてくれただけで充分なはずなのに、なんて愚かなことを考えてしまったのだろう。


 ヴィクトル様のたくましい胸に身を預けながら、この人の子を産めてよかった――と私は心から思った。




***


 


 妊娠中に編んだ毛糸の靴下は、あまり活躍することはなかった。


 娘は桜やアーモンドの花舞う春の生まれで、もう本格的な寒さは和らいでいたのと、一日中寝てばかりなので靴下を履く機会がなかったのだ。


 しかし手袋は編んでおいてよかった。生まれたばかりの赤ちゃんは自分で自分を引っかいてしまうことがあるのだ。


 小さな爪は薄くて、意外に鋭い。切ってもすぐに伸びてくるのだが、小さな両手に手袋をはめておけば、顔に傷を作るのを防ぐことができた。


「日に日に大きくなるな」

「はい。いくら見ていても飽きません」


 ヴィクトル様はアレクシアを愛おしそうに見つめていたが、やはり自分の怪力で触れるのは怖いらしい。


 なので私が娘を抱き、ヴィクトル様は私たち二人をまるごと持ち上げるスタイルが定番になった。


 大好きな旦那様と可愛い娘に挟まれて、私が一番幸せな位置にいると思ったが、そう伝えるとヴィクトル様は「世界で一番大切な二人が二人ともこの腕の中にいるのだから、私の方が幸せだ」と言って譲らない。


 夫婦二人から親子三人になって、幸せはさらに増した。


 私はようやく授かることのできた赤ちゃんとの大切な時間を、ゆっくりじっくりと心ゆくまで楽しんだ──と言いたいところだが、残念ながらそうでもない。


 何しろ、娘の成長は早かったのだ。


 這うのも立つのも歩くのも早くて、平和な母子の時間をほんわかと過ごすというよりも、気がつけば一日中ずっと追いかけ回しているような状態になっていた。


「アレクシア! 待って!」


 娘は何にでも果敢に手を伸ばし、誰にでも好奇心旺盛に近づいていき、どこまでも縦横無尽に突き進んでいく。


「ど、どうして自分から危険に飛び込んでいくの……!?」


 生まれた時は、女の子だからエリーゼお姉様や私のように育つのだろうと考えていたのだが、何だか思っていたのと違う。


 予想の十倍は素早いし、一瞬でも目を離したら何をやらかすかわからない。子育ての目標は「死なせない」一択になりつつあった。


 アレクシアは一歳になる前からもう走っていたし、ベビーベッドは柵を乗り越えて脱走するし、チェストは中身をすべて引っ張り出し、開けた抽斗ひきだしを階段のように登って、一番上に立っている。


 とにかくエリーゼお姉様も私もしなかったことばかりするので、ただ毎日驚くばかりだ。


「やめて! 降りなさい!」


 アレクシアは城内で一番大きな階段の手すりによじ登ろうとしていた。すべり台のように手すりをすべろうとしたらしい。ぎりぎりのところで駆けつけて、何とか引き剥がす。


「もうっ……! なんて……!」


 ぜいぜいと息を切らしながら、私はアレクシアと向かい合った。


「なんて健康なの! すごいわ!!」


 私は嬉しかった。

 感動だった。


 だって、アレクシアは四六時中せってばかりいた私とは全然違う。活発で、元気いっぱいで、めったに体調を崩すことがない。


 健康が一番である。

 容姿とか、頭脳とか、そういうのは二の次だ。健康より大事なものはこの世にない。


 子供の頃から病弱で、両親やエリーゼお姉様にたくさん心配をかけてきた私は、誰よりも健康の大切さを痛感している。


 健やかで生命力にあふれたアレクシアは、なんて親孝行なのだろう。


 ヴィクトル様に似てくれて本当に良かった──と、私は神様に深く感謝したのだった。

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