第57話 第一歩

 一歳三ヶ月になるエリザベートは、純真無垢な瞳をぱちりとまたたかせた。


 エリザベートの金髪青眼は、春らしい桃色で染めた花柄の服によく映えて、まるで天使が本当にいたらこんな姿なのだろうと思うほど、愛らしさだけでできている。


 小さな足に初めて靴を履き、柵をつかんで立ったエリザベートを、城の中庭に集まった人々は固唾かたずを飲んで見守っていた。


「リザ! がんばって!」


 ルカが手に汗にぎってそう励ませば、


「「エリザベートお嬢様!」」

「「がんばってください!」」


 メイドたち一同がそう声をそろえ、

 

「いいですよ!」

「その調子です!」

「大丈夫! お嬢様ならできます!」


 従僕や馬丁や庭師たちが口々にそう応援する。


 熱い声援がこだまする中。エリザベートは短い両手でバランスを取りながら、つんのめるようにして一歩を踏み出した。


 よろよろ、とよろめきながら二歩。


 ぐらぐら、とぐらつきながら三歩。


 ふらふら、とふらつきながら四歩。


「ぱぱぁ~!」


 五歩、六歩、と自分の足だけで歩いたエリザベートは、七歩目で父の胸に飛び込んだ。


 ルカはぎゅっとエリザベートを抱きしめて、歓喜の涙を流す。


「……我が人生に……一片の悔いなし……ッ!」


 ――娘が「ぱぱ」と言いながら抱きついてきた。


 幸せすぎて、脳内で麻薬がドバドバ出ているのを感じる。


 大丈夫、この麻薬は合法なやつだ。いくら過剰摂取オーバードーズしても問題はない。


「ぱぱ」……なんて魅惑的な響きだろう。「ぱるー」よりも後だったけれどまったく気にしていない。本当に全然ちっとも少しも悔しくなんかない。

 

 ルカがエリザベートを抱き上げて振り返ると、使用人たちもおいおいと号泣していた。


「おめでとうございます! エリザベートお嬢様!」

「ある……歩いて……可愛すぎる……っ!」

「よくできまちたね~! すごいですっ!」

「世紀の瞬間に立ち会えて幸せです……っ!」


 ふとあたりを見渡すと、一緒に見守っていたはずの使用人たちが数人、忽然と消えていた。


「あれ? ヨハンさんとハンスさんどこいった? 今までここにいたよな?」

「二人で調理場に直行したぜ。エリザベートお嬢様が初めて歩いたお祝いに、山ほどご馳走作るって」

「庭師のやつらは花を摘みに行ったぞ。料理ができるまでに会場の飾りつけをするんだと」

 

 早くも祝賀モードが広がる中、地震のような足音が複数重なって響きわたった。


「エリザベートお嬢様あぁぁ~!」

「ついに歩いたって本当っすか!?」

「俺らにも見せてぇぇ! お願いぃぃぃ!」


 どたどたと勢いよく走り込んできたのは、騎士のユリウスとクラウスとマリウスだ。


「ユリウスさん、クラウスさん、マリウスさん」

「うしゅ」


 ユリウスは目玉をひん剥き、クラウスは耳をひくつかせ、マリウスは口をぽかんと開けた。


「おい! 今、お嬢様が俺のことウスって呼んだぞ!」

「何言ってんだ! 俺のことに決まってんだろうが!」

「いやいや俺だって! ねぇお嬢様!? 俺のことですよねぇぇ!?」


 三つ巴になって争う三人に向かって、エリザベートはきょとんと首をかしげた。


「うしゅ?」

「「「何でちゅかぁ~!?」」」


 三人は即座に停戦し、変顔をしたり手を振ったりいないいないばあをしたりと忙しい。


 強面こわもてな顔にムキムキの筋肉、体には剣呑けんのんなタトゥーまで刻まれたユリウスとクラウスとマリウスは、三人とも凶悪犯と誤認されるほど恐ろしい風貌の持ち主なのだが、エリザベートは生まれた時から彼らを見慣れているので、まったく怖がることはない。


 エリザベートが一歳を過ぎてもなかなか歩こうとしなかったのは、屈強な騎士たちが隙あらば抱っこしたり肩車したりお馬さんになったりしていたせいもあるのかもしれない。自分で歩く必要がなかったのだ。


 はやし立てる三人に催促されて、エリザベートは父の腕を降りた。


 危なっかしい足取りで、よろよろ、ぐらぐらとふらつきながら歩いていく。


「あー、うしゅー」

「「「はぁ~い!!!」」」


 ユリウスとクラウスとマリウスがまったく同じ角度で、ごつい腕をうきうきと広げた時。


「はい、お呼びですか。エリザベートお嬢様」


 澄ました顔でエリザベートを受け止めたのは、騎士団長のニコラウスだった。


「ずっりー!」

「団長ずっりー!」

「何してんすかぁずっりー!」

「何を言う。お嬢様は私をご所望なのだ」


 ユリウスとクラウスとマリウスはぶーぶーとブーイングを飛ばし、ニコラウスは得意げに胸を張る。


 エリザベートの目の前なので、醜い争いは自重することにして、ユリウスとクラウスとマリウスは再びめろめろに溶けた。


「はぁ……かっわいい……!」

「かわいすぎるぅぅ……!」

「お嬢様に近づく悪い虫はオレらが全部追い払いますからねぇ……!」


 父のルカも祖父のヴィクトルも同じことを思っているが、騎士たちも志は同じである。


 アレクシアに対しては守る必要性を一度も感じたことがない騎士たちだが、エリザベートは守りたい要素しかない。


 そもそも彼らはアレクシアのことは「お嬢」と呼んでいるのに、エリザベートは「お嬢様」なのだ。すでに扱いが違う。


 先日もアレクシアから「おまえたち、私とリザに対する態度が違いすぎないか?」とあきれた顔で尋ねられたので、


「あったりまえじゃないっすか!」

「お嬢のどこに守る必要があるんすか!? 俺らが守られてぇわ!」

「あんた本当に子供産んだんっすか!? 衰えるどころかますます無敵のゴリラ化──」


 まで同時に叫んだあたりで、三人まとめて一撃で吹っ飛ばされた。


「情けねぇ……。こうしちゃいらんねーな……」

 

 ユリウスは突然キリッとした顔で立ち上がった。


「行くぞ、おめーら」

「おう、俺らも部下アイツらももっと本気で鍛えなきゃなぁ」


 クラウスも厚い胸を叩く。


 リートベルクの騎士団はすでに国内でも最強と名高いのだが、マリウスは「国内最強なんて生ぬるいぜ」と吐き捨てた。


「世界最強になんなきゃ、エリザベートお嬢様を魔の手から守れねぇからな!」


 いったいどんな魔の手を想定しているのかわからないが「こんなに可愛いと戦争が起こる」「世界を敵に回してもエリザベートお嬢様は俺らが守る」と誓う彼らの目は本気である。


 ヴィクトルもアレクシアも自ら陣頭で指揮を取って騎士たちを鍛えるタイプのリーダーだが、エリザベートは自分は何もしなくても騎士たちが勝手に強くなるあたり、祖父や母よりも大物なのかもしれない。


 最近のエリザベートは「じぃじ」も言えるようになり、見事ヴィクトルを大地に沈めた。不敗の猛将と呼ばれた男は初の敗北を喫しながらも、安らかな笑顔を浮かべていた。


 ルカは「ぱぱ」と呼ばれるたびに「ぱぱでちゅよぉ…!」と泣いているし、ヴィクトルは「じぃじ」と呼ばれるたびに「じぃじでちゅよぉぉぉ…!」と号泣している。


「リザたん……じいじが何でも買ってあげまちゅからねぇぇ……!」


 ヴィクトルはそううめいては「やめてくださいお父様」とアレクシアに止められている。


 父を虜にし、祖父に完勝し、騎士たちすら魅了して、エリザベートはますます辺境伯家最強の名をほしいままにするのだった。

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